第36話「カシス」

  私は、第4側室、つまり4番目の王の妻、妾。

 そう思ってるやつはこの世にはいないだろうがね。

 元は多くいるメイドの一人に過ぎなかったが、あの人の子、メアリを宿してからは私の人生は一変した。

 おもに悪い方向に。



 ある日、他のあの人の子どもがメアリを訪ねてきた。

 第3王子と言っていた。

 あの鼻持ちならない第3側室の子どもか。

 こんなところまで何しに来たんだか。

 この薄暗い、かび臭い、日の光が届かないところに。


 そう思って聞いてやると、

「妹に会いに来るのに理由なんて必要でしょうか」

 だそうだ。

 妹、ね。


 ………。


 もう少しいろんな感情がわいてくると思ったんだけどな。

 この子どもへの嫉妬とか、この子どもの母親への憎しみとか。

 いや本当は感じているのだろうか。

 だけど、妹、か。


 私は気づいたら、メアリのいる場所をその子どもに教えていた。

 なぜだろうか。

 たぶん。

 その子どもの瞳、その声。

 忘れていた、いや、封をしていたはずだったあの人への感情が心を吹き抜けていったからだと思う。


 あの人の手に触れたことは、今でも鮮明に思い出せる。

 私の中で雲の上の人だった。

 それは、憧れや尊敬よりも、畏怖の念だったと思う。

 同じ人間とは思えなかった。私たち農民にとっては、王は神様と等しき人と教わってきたから。


 世界を見通す目を持ち、すべての情報を聞き取る耳を持ち、人の心に響く声を持ち、慈愛に満ちた心を持つ。

 そんな人に、人並みの感情を持つことなんてできないだろ?

 ましてや、男として好きになるなんて。


 私の心が変わっていったのは、いつだったろうか。

 紅茶をいれたときに、「カシス、いつもありがとう」と言ってくれたときだろうか。

 舞踏会や食事会など華々しい場の陰で、遅くまで机に向かって執務されているひたむきな姿にだろうか。

 何か歌ってくれないかと言われて、戸惑いながら故郷の歌を歌ったときに流してくれた涙だろうか。

 今となっては、出会ったときには既に心を奪われていたのではないかということすら思ってしまう。


 だから、王が私を求めてきたのは、それが待ち望んでいたことのような、夢の中にいるような、なんとも不思議な心持ちだった。

 私を採用したのは王の一存で、君を選んだ予の目に狂いはなかったなどとおっしゃってくれて、少女だった私はその言葉にただ酔いしれていた。


 そうして、王の子を授かった。

 生む以外に考えられなかった。

 王からいただいた命。

 あの人から愛された証。

 そして、この子は確かな命を持っている。

 この子を守れるのは私しかいない。


 誰の子だと追及された。

 王の子だとは言えなかった。

 あの人のジャマをしたくなかったし、もし王の子だとバレたら、私の身分がどのようにこの子に災いするかわかったものではない。


 けれど、王は公表した。

 それを知ったときに、私は嬉しくて大声をあげて泣いた。

 嬉しくて泣くなんてことがあるのだと生まれて初めて知った。

 この子を王が認めてくれたのだ。

 それ以上に嬉しいことがこの世にあるだろうか。


 だからといって、全てが好転するわけではない。それは私も覚悟していたことだ。

 王は議会から糾弾され、私も非難された。

 この子は忌み子なのだそうだ。意味がわからないね。

 忌み嫌われるとするなら、私だけだ。

 王の血を受け継いでいるこの子が忌み子なわけがない。

 この子を堕胎するとの提案書が議会から出された。

 堕胎したあとに私が生きていれば、私を国外追放。

 

 王は徹底的に議会で戦い私たちを守ろうとしてくれた。

 そうして議会とどういう落としどころを持って行ったのか分からない。

 私は生むことを許されたのだ!

 当時の私は、ただこの子を守ってくれたすべてのものに感謝していた。


 そこからだった。本当の苦難の道ってやつは。

 世の中のやつらは、人として扱われない人に対して、ここまで冷酷になれるのか。

 あまり思い出したくない……。


 メアリは、もうすでにこの世の地獄を見ている。

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