1.5章 ビアンカとニクシーの短い旅路
序:新たなる旅の始まりに
自分をニクシーと名乗った少女の発言は衝撃的だったが、驚いてばかりも居られない。ビアンカはすぐに冷静さを取り戻した。
自分の事を「ニクシー」と名乗った少女を家の中に招き入れ、ドアを閉じる。
ニクシーは、興味深そうに部屋の中を見回すと、再びにっこりと笑い、ビアンカに促されるままに、ダイニングの椅子に座った。
「さて…」
一方、ビアンカは自分が飲むつもりで用意していた珈琲を、一人分多めに準備してからニクシーの元に戻った。
「まあ、色々と聞きたいことはあるんだけど。キミ、ニクシー、だったね?」
ミルクと砂糖の容器を並べながら、興味深そうにその動作を観察していた彼女に問いかける。一瞬、ニクシーは反応が遅れ、跳ねるように顔を上げた。
「あ、はいです!」
「キミは、私と会ったことがある?」
問いに、ニクシーは首を傾げ、考え込み始める。
「それは、分からないのです。私が、誰なのかも。名前以外、何も思い出せなくて…。気が付いたら、街道を歩いていたんです。そこを、旅の人に助けてもらって…」
「あー…、なんだか、ごめん」
俯くように考え始めたニクシーの様子を申し訳なく感じ、ビアンカはクッキーを勧めた。ニクシーは、言葉に誘われるように、皿に並べられたクッキーに視線を移すと、打って変わってキラキラとした表情を浮かべた。
「キミも、記憶なしなんだね。実は私もそうなんだ」
クッキーを頬張るニクシーの様子に微笑み、ビアンカは珈琲を一口含んだ。
「ビアンカさんも、そうなんですか?」
「私の場合は本名も思い出せないんだけどさ。ビアンカは、風景画家として自分でつけた名前だよ」
何かを懐かしむように語り、今度はクッキーを食べた。ニクシーはその様子を静かに見つめていた。
「まあ、私の事はどうでも良いとして。ニクシーは、何故ここに?ついていきたいって言ってたけど…」
「はいです!私の事を助けてくれた旅の方が、ビアンカさんなら私のことを知っているし、助けてくれるからって言ってて。それで、ここに」
「そっか。でも、一体誰が…。その人、名前は、何て名乗ってた?」
一番の関心事はそこだった。ビアンカのことを知っていて、加えて、他の何よりも自分を頼るように導いた誰か。
「えっと…。もしも自分の事について聞かれたら、その人のことは“灰”または“グリージョア”と伝えてやってくれ、って言ってました」
「“灰”…“グリージョア”…。知らない人だね。いったい誰なんだろう?」
聞き覚えのある名前だった。しかし、その名前を聞いたのは、とある古代遺跡の、技術部門を管理するコード・プラータと言う名の、空の民由来の自動人形からで、本人との面識など無い。しかし、向こうはこちらの事を知っている。
思わず、様々な可能性を考えてしまう。
「ビアンカさん?」
「ああ、いや。何でもないよ。しかし、それにしても。どうしたものかなぁ」
最初の疑問を振り切り、思考を別の方向へと流す。つまり、これからどうするかということについてへと。
「確かに、キミの名前に聞き覚えがあるし、それを聞いた場所も覚えてるよ。ただ、その時のイメージと、今のキミとが繋がらないんだ」
その上で、彼女は正直に思っている感想を口にした。
不明な点が多く、判断に困ったからで、彼女に他の意図は一切なかったが、言ってしまってから、これは失言だったかも知れないと思い至った。
目の前のニクシーを名乗る少女は、訳も分からない状態で世界に放り出されて不安を抱いているに違いない。そんなところに、救いになるかもと訪ねた相手に「分からない」などと言われたら、どう思うだろうか。
「…ああ、ごめん。言い方が悪かったね」
「あ!いいえ!」
気を遣われている感覚。これは自分の失点であるため、少々ばつが悪い。誤魔化すように、珈琲の減っていたニクシーのカップにお代わりを注いだ。そして笑顔もセットで準備する。
「そうだ。せっかくだし、行ってみる?その場所に。何か思い出せるかもしれない」
その言葉に、ニクシーの表情がパッと輝いた。
「本当ですか!?行ってみたいです!」
「そうなると、旅装以外に雪山用の装備も要るね。ほぼ一年中が吹雪の中だから…」
「うわ。そんなに過酷な場所なのです?」
「まあ、もともと観光地だったんだけど、昔に、魔神による災害があってね。大きく気候が変わっちゃったんだよ」
「へぇー。そうなんですね」
まさかニクシーが、その元凶に関わっている可能性があると正直に教えるわけにもいかず、しかし、それ以外の事実は、言葉を選びつつも端的に伝える。
「だから、雪山用の装備が必要と言うわけさ。まあ、それは買えば良いから問題ないとして。出発は…」
「え?あの、私…!」
とんとん拍子で話を進めていくビアンカに、ニクシーが慌てて割り込む。しかし、次に来るだろう言葉に凡その察しが付いたビアンカは、にっこりと笑う。
「気にしない、気にしない。言い出したのは私なんだから、その辺りは責任持つさ。デザインを選ぶのはキミの仕事になるけどね」
「……有難う、です。ビアンカさん」
「なんの。あと、私の事は呼び捨てでも良いよ。少なくとも、私は呼び捨てにするだろうし」
「あ、はい!有難う御座います。ビアンカさん!」
互いに笑い、ビアンカの旅の話も交えつつカップに残った珈琲を楽しむのだった。
しばらくたった後。
ニクシーが麓の街に宿を取っていたことが分かったため、彼女を街へと帰したビアンカは、二階のベランダからコーヒーカップ片手に街の方を見やる。
「“灰”…“グリージョア”…か」
ニクシーを自分の下へと導いた何者か。それへの興味は尽きないが、それよりも彼女は、かつてのコード・プラータの言葉を思い出していた。
『その方も“白”様と同じように、観光目的でこの街を訪れ、様々な場所をご覧になった、のですが。最後に“白”様と、同じような表情をなさり、「ここは物悲しい」と、静かに、仰ったのです』
『仮に、旅の途中で“グリージョア”様と会われた時に、私が、またお越しくださいませ、と申していたと、お伝え願えないでしょうか?』
何気ない会話と口約束ではあったが、その時の全てを鮮明に思い出させてくれるほどには、彼女の記憶に刻み込まれていた。
「会って、話をしてみたいね。何故を連発して、さ」
それゆえかどうかは分からないものの、新たな旅の予感に、彼女の心は騒めき、果てしないほどの好奇心に躍るのだった。
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