Small talk/3 小話「ある男の出会いと別れ」

 ある時、とある村から一人の男が、日常生活への倦怠感から一枚の地図と未知への興味を胸に旅に出た。

 門をくぐり、道を歩き、林を、森を抜け、川を渡り、途中、他の旅人や商隊と交流し、情報と飲食物を手に入れ、そして、村に居た頃と何も変わらぬ鳥のさえずりと風の音に支えられながら、男はひたすらに歩いた。

 それからしばらくの間、男は地図と睨めっこを繰り返しながら、夜眠るその時以外は歩き、前へ前へと進んだ。

 見知らぬ街、見知らぬ風景、見知らぬ食べ物。あらゆる物が男の興味を引き、心を満たした。何れも村に居た時分にはただの想像の世界でしかなく、それら夢に見た数々の驚きが、男の足をより軽やかにした。

 ある時、男は、冬でも夏のような気候を味わうことが出来ると言う触れ込みの港町で、一人の絵描きに出会った。外見を見る限りでは十代後半の若い女性で、白銀の髪に蒼銀の瞳を持っていた。

 男は、港町の高台から青い海を見下ろしつつ筆を進めている少女に興味を引かれて、話し掛けてみることにした。

「こんにちは。良い絵は描けていますか?」

 男はそう話し掛け、会話を切り出す。

 話し掛けられた絵描きの少女は、そっと筆を置いたあとでお茶を一口飲み、男に顔を向け。

「ええ。良い天気ですから、海も本当に綺麗ですよ」

 そう答えた。

 振り向きざまにその髪は揺れ、その時に、何やら花の優しげな香りがしたように、男は感じた。

 それから少しのあいだ話を聞くと、その絵描きの少女も旅人で、旅先の風景を絵に描き、それを希望者に販売しながら、もう何度も旅をしていると言う。

 さらに興味を引かれた男は、少女に請うて、描き溜めていた絵を見せてもらう事にした。

「絵は詳しくないんですが、これは何処かの街、なんですか?」

 その中の一枚に、男が見た事も無いような、何処か現実離れしている雰囲気を持った建築物群が描き込まれているものがあり、男は一瞬で絵の風景に引き込まれてしまった。

「ああ、いえ。それはちょうど、依頼で古代魔法文明の遺跡を描きに行った時のものですね。色の塗で悩んで、結局別の絵を納品して、それはそのままにしていました。もう一年前の話ですけど」

 男の、どこか興奮気味の言葉に、少女は微笑と、一杯のお茶を勧めた。

 男は一言礼を言い、差し出されたお茶を受け取り、飲み干す。

「遺跡…。これが噂の、魔法文明の遺跡…。行ってみたいなぁ…」

 改めて描かれた建築物を眺め、男は心からの感動で嘆息する。

 男にとって、それは非日常の塊であり、憧れの的であり、日常生活への倦怠感を解消する以上の目的が無かった旅を、実りあるものに変えてくれるだろうと一方的に期待させてくれる対象でもあった。

 ただ、彼には一つだけ問題があった。

「でも…、危ないだろうなぁ」

 彼には、身を護る術がほぼ存在しておらず、魔物と呼ばれる古代の脅威が現れる可能性のある場所へと赴くには、遺跡の知識を始め、様々なものが不足していた。

 魔物については、彼は噂以上の事は何も知らない。どういう存在で、どの様に人を襲うのか、彼は一切見た事が無かった。それだけ、男の村は平和であった。

「遺跡、行きたいんですか?」

「え?」

 唐突な少女の問いかけに、少々思考に沈みかけていた男は驚き、勢い良く少女の顔を見やってしまう。

「遺跡、興味あるんですか?」

 その様子に少女は優しげな微笑を浮かべ、再度、言葉を変える形で問いかけ直した。

「あ、っと。はい。私の故郷は平凡過ぎて、そう言った物とは無縁でしたし、一度くらいは見てみたいなぁと」

「ふむ…」

 少し恥ずかしげに頭を掻く男に、少女は何かを考え、そして鞄から一枚の小さな紙を取り出すと、男に向けて差し出した。

「こことか、どうでしょうか?」

「はい?」

 男が紙を受け取ると、そこには、島の上に建造された美しい海色の建築物が描かれており、見るからに既存の建築物とは一線を画す理論で構築されていることが分かる。

 男には、もうそれだけで、心の奥底から好奇心が湧きたって仕方が無かった。

「これは?」

 男は逸る気持ちを全力で抑え込みながら、その問いのみを言葉にして発する。

「その遺跡は、この街の港から船で行ける遺跡と、登山道から行くことが出来る遺跡で、双方とも火の魔神が封じられているせいか立ち入るには特別な許可が必要ですけど、島の周辺を周回する形でなら、観光客でも近くまで見に行くことが出来ますよ」

 すると少女は、彼の思考を読むかのように楽しそうに微笑み、そう口にした。

 その言葉に、男の好奇心は一挙に膨れ上がり、どうしても抑えがたいほどに、喜びの感情を彼の顔に浮かべさせた。いわゆる満面喜色と言うものだ。

「そ、それは凄い!私のような人間でも、冒険家の体験が出来ると言う事なんですね!」

 全力で抑えていた好奇心が溢れ出したのか、男は身を乗り出し、一気に少女に詰め寄ってしまう。少女は、その詰め寄りに合わせるように軽く身を引き、苦笑を浮かべた。

「あっ…!すみません、つい」

 詰め寄って、ほぼ目の前に少女の整った顔がある事に気が付いた男は、顔を真っ赤にして詰め寄った時と同じ勢いで体を離した。

「いえいえ。こういうものを知った時に胸躍る気持ちは分かりますし…。ええ」

「あはは…、申し訳ない」

 互いに苦笑し合い、そして。

「ああ。遺跡に向かわれるのなら、私の知っているガイドさんを紹介しましょうか?もしかすると予約が取り辛いかもしれませんし」

「宜しいんですか?」

「これも何かの縁ですから。では、これをどうぞ。これを町の観光案内所で見せて、ビアンカからの紹介だと話せば、すぐに契約が取れると思いますよ」

 そう言って、少女は鞄から一枚のカードを取り出し、差し出した。そこには何やら、デフォルメされた水棲生物の意匠が描いてあり、その下には共通語で、イルカ運輸組合、と印字されていた。

「あ、有難う御座います。可愛らしい意匠の札ですね。これが合い札、と言うものなんでしょうか?」

「まあ…そのような物、ですかね。それを見せればイルカ運輸組合の船を紹介してもらえますよ」

「有難う御座います。早速、行ってみます」

 男はカップを少女に返却し、横に置いていた鞄を持つと、すっくと立ちあがる。

「では、お茶、ご馳走様でした。話が出来て楽しかったです」

「こちらこそ、有難う御座いました」

 立ち上がった男は一礼して笑い、少女も返礼して微笑を浮かべた。

「ところで、尋ねるのが遅れましたが、貴方のお名前を伺ってもよろしいですか?」

「私は…ビアンカと言います」

 男の何気ない問いかけだったが、少女、ビアンカは一瞬だけ間を開けた後で、自らの名前を伝えた。

「ああ!先程のビアンカと言う名前は、貴方の名前だったんですね。有難う御座います。私はボフォールと申します」

 男も自分の名前を伝え、互いに握手を交わす。

「そうだ!今は持ち合わせが少ないので無理ですが、次にお会いした時に、絵をお願いしてもよろしいですか?」

「ええ、良いですよ。似顔絵でも、風景画でも。今描いている絵からお譲りするのでも」

「有難う御座います。それでは、私はこれで!さようなら!」

「ええ。貴方の旅路に、空と風の王、そして旅の神の祝福がありますように!」

 別れの挨拶を告げた男、ボフォールに、ビアンカは旅人の間でよく交わされている別れの挨拶で応じた。

 彼は、彼女から送られたその言葉が嬉しく、しばらくの間、表情を緩ませた。

 その後、ボフォールはビアンカの言葉に従って滞りなく観光案内の予約を取り、案内人に歓迎されながら町の外れにある二つの遺跡を観光。その風景を強く心に刻み付けるのだった。

 そして出立の日。

 ボフォールは、ビアンカに色々な礼を伝えようと、町中を歩いて彼女の姿を探したが、見付けることは出来なかった。

 何となく諦めがつかず、情報を求めて町の画廊喫茶に赴くと、どうやら彼女は、出会ったその日のうちに旅立ったらしいと言うことが分かった。

 ボフォールは、休憩を兼ねてその店でコーヒーを楽しんだ後、公園へと足を運ぶ。

 残念ではあったが、胸に刻まれている彼女の送ってくれた別れの挨拶や、向けてくれた綺麗な微笑を思い出し、旅を続ければ、いつかまた何処かで会えるかも知れないと言う根拠のない希望を持つことで納得することにした。

 旅は一期一会だと言う。それを理解している故か、熟練した旅人は出会いの一つ一つをとても大事にするらしい。

 今回の彼女との出会いも、ボフォールにとって大いに実りあるものだった。

 もしも次に出会う事があれば、その再会を今日と同じくらいに、いや、今日以上に実りあるものにしたいと、公園の往来を観察しながら想うほどには。

 そのためには、積極的に様々な場所を旅し、経験を積む必要があるだろう。

「よぉし!」

 しかし、時は有限だ。ならば急がなくてはならない。

 公園にて、新たな目的に独り意志を燃え上がらせたボフォールは、早速、旅先を検討するべく、何故か観光案内所へと走るのだった。

 その後、彼が何処を目指し、どの様な旅を行ったのか。それはまた別の話である。

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