1章・幕間集:旅の合間に起こったこと
Small talk/1 閑話「ありふれた大切な話」
ある日の昼下がり。
場所はいつもの旅籠街、馴染みの喫茶店にて。
「ねえ、マスター。一つ聞いても良いかな?」
他に客の居ない店内。カウンター席に座り、コーヒーを味わっている客が、カウンター向こうでグラスを磨いている店のマスターに声を掛けた。
その客の外見は十代後半くらいの少女で、口に数本の筒状の入れ物を挿し込んだ大きめのバッグを隣に置いている。
「…何だい?」
話を振られた店のマスターは、磨いていたグラスの曇り具合を手際よく確認した後で、棚へと収める。
「難しい話でもないんだけれど、マスターって、普段どんな気持ちで、または考え方で、コーヒーとかを淹れたりしてるの?」
「…何でまた、唐突にそんなことを?」
「いや、何となく気になってさ。本当に、何となく」
「まあ、別にいいが…。うーん…、と言ってもなぁ。特にこれといって難しい事は考えてないとしか言いようがないぞ。まあ、強いてあげるなら、基本的な事しか考えていないとでも言うかね」
「基本的な事?例えば?」
少女が身を乗り出す…ような雰囲気で話を促す。
「コーヒーはいつも通り淹れられているか、とか。ミルは、抽出機は、いつも通り動いているか、とかな。紅茶でもこれは変わらないな」
店のマスターは、カウンター裏に置かれている古ぼけたコーヒーミルに触れる。
「ふーん?」
「コーヒーにしても、紅茶にしても。重要なのは、いつもの味を、いつも通りに提供できるかどうかだからな。これは多分、どんな事にも当てはまると思うがね?」
そう言いながら、皿にクッキーを並べて少女の前に置いた。
少女は、自分が注文していない品が目の前に現れ、キョトンとした表情を浮かべた。
「例えばだ。大雑把な例になるが、こうして注文の品以外の物を客にサービスとして出すとするだろ?その時に俺は、客が何を必要としていそうか、どのタイミングに出すべきか、その後で他の客にはどうするか、その他諸々の事を同時に考えているわけだが」
クッキーの皿を見下ろしながら、マスターは一呼吸、間を挟む。
「…それと同じで、コーヒーや紅茶を淹れる時や、料理を作ると言った場合には、いつも通りにできるかどうかだけが重要であって、それ以外の、どうするかの彼是は、重要であっても自然にこの中に含まれるようになっていくのさ。お前さんも絵を描く時とかは、そうじゃないかい?」
この少女客は旅人であり、同時に風景画家でもあった。画家としての彼女の名前はビアンカ。知名度はそこそこ。
彼女の足元にある鞄に挿し込まれた筒状の入れ物には、彼女が行く先々で描いた作品が収められており、中には依頼を受けて描き上げた物もあった。
「うーん…。そう言われてみると確かに、そうかも知れない。何を描くか、何を中心に描くか、どんな絵の具を、或いは筆を使うか…。依頼を受けた時とかは、特にそれを意識するけれど、いざ描き始めた時は、いつも通りに絵を仕上げる事だけを考えている気がする…」
少女は一枚だけクッキーを頬張った後、ふと、何かに気が付いたように顔を上げた。
「…ああ、そっか。慣れてくると、本当は考えているだろう諸々を一括りにしたうえで、やっている事に集中するようになるんだ…」
「ああ。基本的に俺達は様々な事を考えているが、それを繰り返している内にいつの間にか、その様々を一括りにすることが出来るようになる。お前さんが言うように、それこそが“慣れる”って言う事なんだろうさ」
「うーん、なるほどねぇ…」
少女は腕を組み、考え込み始めた。
「いやしかし…な」
店のマスターは、クッキーを頬張りながら眉間にしわを寄せている少女を見て、ふっと笑った。
「お前さん。そんなことを考えるには、ちと早過ぎないかい?俺みたいなおっさんならともかくとしても」
「そうかなぁ?マスターだって、言うほどおじさんってわけでもないと思うけど?」
「いいや、俺はもうおっさんさ。見た目とかの話じゃなくてね」
「どう言うこと?」
「前に話しただろう?昔は仲間と一緒に旅をしていたとね。今はもう、そんな意思はないし、お前さんや、他の客の土産話だけで腹一杯になってしまう」
店のマスターは苦笑し、言葉を続ける。
「一方、お前さんは俺や、旅人達から話を聞いて、積極的にそこに挑戦し、絵を描き、ここに帰ってきてそれを発表して、また出かけて行く。それでもう、俺は年を食ったんだなと、つくづく実感させられたのさ」
店のマスターはそう言って苦笑を吹き飛ばすようにゆっくりと笑い、再びグラス磨きを始めた。
「そう言うもの?」
「そう言うものさ」
「ふーん?私には分からないなぁ…。今でもマスターの、その何かに挑戦しようとする意思が無くなっているとも思えないし、気のせいじゃない?」
「ははは。そう思うのなら、お前さんはまだまだ若い証拠さ。大事にしな」
「ふぅん…?そう言うもの?」
「そう言うものさ」
意味深な笑みを崩さない店のマスターに少女は不思議そうな表情を浮かべるが、目の前にあるクッキーを頬張り、考えることを中断した。
「ところでマスター」
「うん?」
「話は分かったけど、何で、クッキーを選んだの?」
「ああ、それか?」
クッキーを食べ終えた少女の問いに、マスターは笑みを浮かべた。
「皿以外の食器を使わずに出せて、冷めても問題なく、食べるのにも苦労しない焼き菓子は、話の繋ぎには最適だろう?それにお前さんは、考え事をする時に、よくそのクッキーを注文していたしな。それだけさ」
「な、なるほど…。ごめん、さっきの言葉は少しだけ撤回させて。マスターはやっぱりおじさんだよ。もちろん人生の熟達者って意味でね」
「ははは、だろう?」
そのような会話を交わしながら、店主と客を超えた様な、それでいて一切超えていなかった和やかな時間を、他の客が来店するまで、楽しむのだった。
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