第10話 馴染みの旅籠街にて憩う:Ⅱ
少女は、馴染みの喫茶店でコーヒーを飲み、一息ついていた。
何故かぐったりと椅子に体重を預けている。
通い慣れたと思っていた道の様相が、少し見ない間に家が増築されて様変わりしていたり、目印にしていた風見鶏が一つから四つになっていたりと、街に満ちる自由な気風が、少女の記憶と視界をぐちゃぐちゃにして混ぜ合わせてきたせいだった。
目の前のカップで混ぜ合わさるミルクの白とコーヒーの黒を眺めながら、もう一度大きなため息をつき、卓上の隙間に広げた三枚の絵を眺める。
一枚には、多数の石柱が並ぶ祭壇らしき場所の絵。その中央には、祈りを捧げる格好をした一人の中性的な若い人物が描かれている。
別の一枚には、幾何学模様が特徴的な半円に包まれた街並みの絵。空には、絡繰り仕掛けの飛行船が複数浮かび、悠々と飛行している様子が描かれている。
最後の一枚には、崩れた教会のような場所にあるステンドグラスの絵。女神のような雰囲気を醸し出している女性が、ステンドグラスのモデルになっているようだ。
少女は三枚の絵を見比べながら、この後喫茶店で展示する絵を吟味し始める。
彼女は、ビアンカと言うペンネームで活動している画家だった。冒険家と兼業ではあったが、知名度はそこそこ。各地を旅し、絵を描き、好奇心の向くままに土地を楽しむ。たまに宝を見つけて喜び、美しい風景に胸打たれて心躍らせ、疲れたら眠る。そのような生活を送っている。
この街へは、馴染みの喫茶店での個展を開くためと、自分の絵画の換金のために訪れていた。
喫茶店のマスターによる事前の宣伝の効果か、店内には何人かの商人と、旅人が来ていた。旅人の内、一人は女性の吟遊詩人のようで、商売道具の弦楽器の調整をしながら軽く発声練習をしているようだった。
少女は、何となく吟遊詩人の方を見やる。
卓上には、一杯のコーヒーと、蜂蜜のかけられたパンケーキが載せられた皿が一つ置かれている。特に譜面を広げているというわけではない。
口ずさんでいる旋律は北方の民謡調で、聞き取れた言葉も北方の地方語のようだ。何故かは分からないが、吟遊詩人は北方か東方の地方語を好んで使用する傾向にあり、中央標準語は、ほぼ使用されない。
幸い、少女は問題なく理解できるので、耳をそばだてることなく、コーヒーを楽しみながらでも耳を傾けることが出来た。
すると。
「気になるか?」
店のマスターが、追加のサンドイッチを卓に置きながら、少女に声をかける。
「ああ、マスター。あの吟遊詩人さんは…」
「うん?ああ、あいつは俺の旧友でな。少し前までは、何人かの仲間と一緒に各地を旅して回ったもんさ。懐かしいな。あいつ、あんな風貌だが、今年で四七だ。信じられるか?」
「えっ?とてもそうは見えないかな…。どう見積もっても二〇代後半か、それ未満に見える」
少女は、思わず吟遊詩人の様子をまじまじと見てしまった。
店のマスターが微笑する。
「そうだろう?仲間内でも語り草だったくらいだ。んで、昔馴染みってこともあって、たまにこうして顔を見せに来てくれると言うわけだ。ついでに演奏もしていってくれるから、店も自然と盛り上がって大助かりさ」
「ふぅん、なるほど…」
「調整してるとこ見ると、もしかすると一曲披露してくれるかもな。その時は、もう一杯コーヒーを持ってきてやるよ」
「あ、有難う、マスター」
それだけ言うと、店のマスターはトレーを持ち、厨房の方へと姿を消した。
「吟遊詩人…か」
少女は呟き、改めて吟遊詩人の姿を視界に収め、観察する。
彼女は楽器の調律を終えたようで、今度は声の調子を確かめている。あー、と、うー、の音を何回か発声し、次に軽く何かの歌詞を口ずさむ。言語は、今は使い手の居ないとされる古代語、ヘーリニック言語と呼ばれている言葉。
(綺麗な声だなぁ…)
少女は彼女の声に聞き入っていた。耳を刺激する心地良い音階が、体内にあるあらゆる疲労を撫で消してくれるような感覚を、少女は味わっていた。
周囲の客も似た様な間隔らしく、コーヒーや紅茶を片手に聞き入っていた。
すると。
「あっ…」
彼女と目が合った。ふっと微笑みを向けられる。その顔立ちは端整で、玻璃のように透き通った瞳が印象的だった。
「……」
少女は一礼して微笑み返す。
「……」
吟遊詩人も一礼して返し、すぐに発声練習へと戻っていった。
少女も視線を卓上の絵に戻し、再び吟味に入った。
それから数分後、店内の客が程よく飲食を終えた頃。
吟遊詩人が席から、楽器と共に立ち上がった。
「えー、皆様。お食事のところ、誠に恐縮ではありますが…」
その言葉から、彼女の舞台の幕が上がり始める。
「これより一曲、皆様のために披露したく、こうして、店の舞台に立たせて頂きました。本日の曲の演目は精方術を交えた「歌物語」となります。耳障りとならぬよう、丹念に演じたく思いますので、どうか最後まで、お楽しみ下さいませ」
そう言い、一礼する。
店内からは拍手が起こり、少女もまた、同じように拍手を送る。
拍手に迎えられた吟遊詩人は、用意された椅子に腰かけると、目を閉じ、楽器を、赤子を抱える時のようにふんわりと抱えながら、弦を軽く鳴らした。
「織り手は始まりの時。光を柔く糸と紡いで布と成し、愛子へと授ける…」
弦の鳴る音に乗せるように、吟遊詩人の弾き語りが始まり、場はしんと静まり返る。
「その愛子の声、地に満ち行く夜明けを告げる。衣を纏う愛子達の詩を、語りましょう」
静かに幕を上げた弾き語りは、ポロン、ポロンと弾かれる楽器の音と同じように場に溶けていく。楽器に触れる手からは光の粒が生まれ、零れ落ちる。楽器は淡い光と微かな闇を纏っていた。
恐らく楽器本体が精方術の触媒となっているのだろうと、少女は推測した。
『愛子を包む闇に幾つかの。心の声重ねるのは。遥か未来の道。迷わないようにしたいから』
『幾千もの過去。織り手達は集いて、己が古の智慧、原初の暗闇に惑う愛子に紡ぐ』
『共に光を目指し、高みへと昇り、いつの日か、闇もまた友とするために』
弾き語りは、程よいリズムを刻みつつ、進行していく。零れた光の粒が球体へと纏まっていき、また、奥から闇の粒が舞い始める。
それは、古に語られる在りし日の魔法文明を謳う語りだった。出だしが有名なので、これは誰の耳にも馴染みとなっており、また、精練歌を紡ぎやすい神話物語と言うこともあって、派手な表現も飛び交う、非常に人気のある演目でもある。
吟遊詩人は、北方の地方語で歌を紡ぐ。
『祈りを捧げて幾年か。愛子は纏う衣を紡ぎ、闇の外へ』
『光あれと賛美する声。天まで届き。明日を生きよと、光紡げと声上げる』
『織り手、大いに喜び、愛子に祝福与える。光と共に生きるようにと想い込めて』
『織り手、大いに謳い、新たなる夜明け、世界へと記す。新たな世の友来れりと』
心地よい声に支えられ、織り手の授けた祝福の物語が紡がれていく。楽器の纏う闇が弱まり、光の密度が少しずつ上がり始める。
闇から脱した愛子達は、織り手から授けられた古の智慧を手に、次々と自分達の世界を作り上げていき、産めよ、増やせよと地に満ちてゆく場面。生命、幸福の時。
『祈り捧げ続け幾年か。愛子、纏う衣増やし、世を光で満たす。世に栄えあれと謳う』
『光あれと賛美の声。天まで届き。明後日を紡ぎ行けよと、果てまで照らせと声上げる』
『織り手、果てより見守り、愛子に祝福を届ける。光と共にあれと祈りを込めて』
『織り手、大いに謳い、新たなる日向、世界へ記す。照覧神よ、彼らを護り給えと』
調子を上げてゆく声に誘われ、織り手の愛子達の生を賛美する物語が、楽器より放たれる淡い光と共に紡がれてゆく。
光の下で生きる力を得た愛子達は、次々と衣を紡ぎ、種の繁栄を確固たるものにしてゆく、自分達の知る世界を光で満たす。
織り手が照覧神、すなわち太陽に我が子達への守護の祈りを捧げ、繁栄を支えてゆく。
愛子達は繁栄を謳歌し、あらゆる物を白日の下に曝してゆく場面。まさに文明、幸福の時。
しかし、ここから音階の調子と声の調子が下がり始め、場が緊張する。本来であれば、ここからも繁栄の歌が紡がれるはずだからだ。
『祈り忘れて幾年か。愛子、纏う衣合わせて、世にある闇覆い、隠す。我らに栄えあれよと』
『光あれと狂喜の声。天を衝く。新たなる光生めよと、光を紡げよと声上げる』
『織り手、果てより憂い、愛子に想い届ける。光と共にあれ、汝ら闇より来ると』
『織り手、密やかに歌い、消えゆく日向、世界に記す。供覧神よ、導き給えと』
吟遊詩人は目を開け、歌う。
調子の下げられた透き通る声から紡がれるのは過ちの歴史。楽器からは闇が消え、光のみが彼女の周りを舞うように飛び交う。
織り手から授けられた古の智慧を、ついに我が物とした愛子達は、自らの手で文明を高みへと導く。だがそれは、かつての闇に対する反攻の意思の表れだった。
織り手は供覧神、すなわち月に祈りを捧げる。愛子達の暴走が天地を焦がさぬように。
弾き語りは続く。
『祈り忘れて幾年か。愛子、纏う衣着飾りて、世の闇を覆い、退ける。我ら天地の守り人と』
『光あれと崇拝の声。天を貫く。闇よ消え去れと、光で満たせと声上げる』
『織り手、果てより嘆き、愛子を見据える。闇より生まれ、光を忘れた愛しき我が子の末』
『織り手、密やかに歌い、途切れた日陰、天に刻む。我が身の不徳よ、呪われてあれと』
吟遊詩人はそこで一度言葉を切り、楽器を演奏することに集中する。楽器からは絶えず光の粒が溢れ出し、まるで歌物語の内容のように、店の中を縦横無尽に満たし、狂気に浮かされたように舞い踊る。
その時。
「あ…」
少女と吟遊詩人の目が、再び合った。吟遊詩人は目を細めて微笑すると、再び目を閉じた。楽器は変わらず流麗な音を響かせ、光の粒を生み出し続ける。
そして、再び吟遊詩人は言葉を紡ぎ始めた。
『祈り絶えて幾星霜。織り手は独り、果てにて嘆き祈る。我が身の不徳よ呪われてあれと』
『光あれと狂乱の声。天地を焦がす。全て闇よ滅べと、光に吞まれて声消える』
『織り手、独り果てより叫び、愛子の下へ往く。闇を滅ぼし、光と堕ちた愛しき子の下へ』
『織り手、高らかに歌い、絶えた祈りを世に刻む。悠久の時を経ても、我は共にあると』
優しい声の後に、再びの沈黙。今度は楽器と共に。
場が静まり返る。誰もが、演目の終わりを想起したが、ただ一人、少女だけは何故か終わりを実感出来なかった。
そして、それを裏付けるように、光は消えず、吟遊詩人は再び楽器を弾き始めた。
「光を忘れて、闇を忘れて、愛子達は舞い踊る。眠る時を忘れて乱舞する。母は、暴れる我が子を思い、子守唄を歌う…。我が子が眠るように、そっと優しく…」
楽器の旋律と共に言葉を口にする。光の粒は舞い踊りながら、客達の間を漂う。
「どうか可愛い子ども達に、幸せがありますように…」
そう前置きした上で、吟遊詩人は、再び歌を紡ぎ始めた。地方語ではなく、古より伝わり、今では限られた場所でしか使われていないヘーリニック語で。
その声は、それまで落としていた声とは打って変わり、ひたすらに優しく、明るい。
『かの空からこの大地へ。降りる者達。そして、この大地から空へと昇る者達。この歌を捧げ、時を刻み、日を見つめ、天へ昇る者も地に降りる者も。大地に今ある者達も、遍く光と闇が共に在らんことを。その為に私は全てを捧げよう。愛しき我が子よ。この世界が優しき闇と、包み見守る光で満たされますように』
その紡がれ始めた旋律に、少女はハッとした。
それは、前に訪れた「死者の街」にあった建造物「瑠璃色の塔」で聴いた、あの声の内容と曲だった。
歌はその後、五分ほどかけて紡がれ、小節が一つ奏でられるごとに、漂う光が、あれほど乱舞していたというのに、ゆっくりと床に落ちては消えて行く。
最後の一節が奏でられる頃には、吟遊詩人の楽器の纏う光と、弦を爪弾く手から零れる涙の滴のような闇の粒だけが残るだけとなった。
そして、最後の一音が奏でられ、再び場に静寂が訪れた。
吟遊詩人は、そこで目を開け、立ち上がる。宿った光と闇が、散って消え去る。
「ご清聴、有難う御座いました。少々悲劇的な結末を歌いましたが、これにて演目終了となります。改めまして。皆様。ご清聴、有難う御座いました」
そう言って、吟遊詩人はゆっくりと一礼した。店中で巻き起こる拍手と指笛。
いつの間にか新しい客も入ってきており、最初より増えた人数が拍手を送っていた。少女もまた、惜しみない拍手を吟遊詩人に向けて贈った。
そして、いつの間にか卓に置かれていた淹れたてのコーヒーの香りに吸い込まれるように拍手が止んでいった。
少女もまた淹れたてのコーヒーに口を付けて、思考を切り替えた。今の今まで、唄と歌に引き込まれ、思考が上手く働いていなかったからだ。
演奏を終えた吟遊詩人は、客から差し出されたお捻りを受け取りながら、そのまま何事も無かったかのように席へと戻り、再びコーヒーとパンケーキに手を付け始めた。
「…よし」
少女は、ある程度荷物を纏めて持ち、グラスを磨いていた店のマスターからトレーを借り、席を移動。吟遊詩人のところへと向かった。
「あの、向かい側、座っても良いですか?」
声を掛ける。
吟遊詩人は顔を上げ、少女を見た。玻璃のように透き通った瞳が、まるで最初から、少女が自分のところに訪れることを分かっていたかのように細められる。
「どうぞ。良いですよ」
「有難う御座います」
無事に許可を得た少女は、吟遊詩人の向かい側の席へと座り、コーヒーカップを並べた。淹れたてのコーヒーが立ち昇らせる湯気がくるりと回転し、軽く螺旋を描きながら消えてゆく。
「先程の弾き語り、素晴らしかったです。コーヒーそっちのけで聴き入ってしまいました」
何故かそう丁寧語で言いつつ、少女はお捻りを卓にそっと置いて差し出した。
「これは…、勿体ない言葉です。ところで、何か私に御用でしょうか?ビアンカさん」
吟遊詩人は、少女が差し出したお捻りを有難く頂戴して財布に収めると、楽し気に少女の顔を見やった。
「用…と言えるほどの事でも無いんですが…。一つ、お尋ねしたいことがあってですね」
「ふむ、何でしょう」
少女の言葉に、吟遊詩人は楽器を置く。
「先程の弾き語りの曲ですが、あれは、吟遊詩人さんのオリジナルでしょうか?」
「ああ、あれですか?あれは、解釈と一部の付け足しはオリジナルですが、元の文章は別にありますよ。あ、何度も吟遊詩人さんでは収まりが悪いと思いますので、私の事はヴェルダとでもお呼びください」
そう言って笑った。ヴェルダとは、西方の言葉で緑を意味する単語だ。
「芸名、でしょうか?」
「まあ、そんなところです。貴方のビアンカと同じ要素のものとお考え下さい」
「はい、有難う御座います。ヴェルダさん」
「ええ、ビアンカさん。さて、先程の話ですが。あの歌の元を辿れば、とある遺跡に残っていた一編の詩です。死者の眠ると噂の国、ご存知でしょうか?」
「ええ。一度、自分で足を運んだことがあります」
「それはそれは…。それなら話が早くなって助かりますね。それでしたらもう、お気付きかと思いますが、先程の歌は、そこで聴いた旋律と声、あと碑文の文言を参考に作成したものです」
「ああ、やっぱりそうだったんですね。聴いた時は驚きましたよ、まさかあの時の“子守唄”が、こんなところで聴けるなんて思いませんでしたから」
「ふふふ…。私もこの曲はどこかで演奏してみたいとは思っていましたから、今回は良い機会かな、と思いまして」
そう言いながら、吟遊詩人は楽器を撫でた。
「なるほど…。あ、用事はそれだけです。有難う御座いました」
「いえいえ。では、これも何かの縁ですし、一緒にコーヒーを楽しみましょうか。マスター!こちらにパンケーキをワンセット追加でお願いしますよ!」
互いに笑うと、吟遊詩人はカウンターから厨房へと入ろうとしていた店のマスターに声を飛ばした。大声を出しているにもかかわらず、その声は清水のように透き通っていた。
「ああ、分かった。すぐに持っていくから、待っていておくれ」
彼女の声にいつもの調子で応え、そのまま厨房へと姿を消していく。
「ああ、良いですね、この空気。落ち着きます」
「そうですねぇ…。私も、ここは落ち着きます」
マスターの背を見送った後、二人ともコーヒーを一口飲み椅子の背もたれに体重を預けた。
「そう言えば、ビアンカさんも絵をここで披露されるんでしたね?」
「ええ、そのつもりです。展示用兼販売用の絵を、マスターのご厚意で飾って頂いてるんですよ。ヴェルダさんも、宜しければ」
「ええ、是非とも。お捻りまで頂きましたしね。あ、でも評価は厳しくいきますよ?それとこれとは別ですからね」
「ははは、お手柔らかにお願いしますよ」
そう言って、互いに笑い合った。
こうして、今日も平穏に時間が過ぎてゆくのだった。
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