竜と出逢った少女

木下美月

竜と出逢った少女

 

 くだらない生活。つまらない毎日。

 それくらいならよかった。

 だが次第に、苦しい生活、辛い毎日に変わってきた時、少女は旅に出た。


 酒瓶を何本も枕元に転がし半裸で寝ている母を起こさぬ様に部屋を横断し、引き出しに入っている財布から、ギャンブルに使われて消える予定の札を何枚か抜き取る。

 老いたアパートの床も、少女の軽い体ならば大きく軋むことはなく、擦り減らした精神は“現状維持”という最良の結果を残して外へ逃れた。


 新月の闇夜と、夏夜の虫の鳴き声が少女の存在を隠してくれている。


 胸の音のリズムが平静を取り戻す頃、薄着の少女は寂れた駅に到着した。

 目的地は無い。

 だが電光掲示板を見上げて、『最終電車です』の文字に焦りを感じた。

 夜中に出掛ける人は電車を使えないのかと、世間知らずの少女は不便さに驚いた。

 とにかく都心とは逆の方面の電車に乗る事にし、その終点までの切符を購入した。

 改札を入り、中年男性の虚ろな目に親近感を覚え、大学生らしき二人組の驚きと好奇の目に嫌悪感を抱く。そこで少女は、青少年保護育成条例を思い出す。正式な名称は知らなかったが、夜中に外出してはいけない時間がある事は聞き覚えがある。

 駅員が見当たらなかったのは運が良かっただろう。


 だがよく考えてみれば、自分はこの場所で補導されたとしても対して気にしないかもしれない。

 もとより目的のない逃避のような旅なのだ。これを家出と言うのかもしれないが、呼び方に拘りなどない。

 終わるならそれまでなのだ。

 そして終わり方すらどうだってよい。

 この小さな駅構内で誰よりも未来ある少女は、誰よりも後先考えておらず、行先の名前すら読めないのに、その電車に乗った。


 車内は心地良くクーラーが効いており、少女はそこで初めて自分の汗臭さを自覚する。風呂に入ったのも着替えたのも昨晩が最後だ。

 また風呂に入る機会があるだろうか。なくても構わないか。現在車内にて自身の近くに人間がいない事、それから行き先が田舎だと知っている事が風呂への関心と匂いの不快感を薄れさせた。


 時折降りる人、乗る人が様々な種類の視線で少女を一瞥する。憐れみの視線で見られた時は吹き出しそうになった。

 彼らは他人の心境を知りもしないのに勝手に悲劇を思い描き同情しているのだ。それが優しさのつもりだろうか。それとも憐れな人間を見て、自分はまだマシだと自慰を行なっているのだろうか。

 しかし少女自身も、自分の心境を知らなかった。

 それを自覚した頃には終着地点の扉が開いていた。


 ここでも少女の旅を終わらせる様な出来事は無く、無人駅の小さな箱に切符を入れた後、誰もいない道路を歩き始めた。


 寂しい灯りが照らす道は歩き心地が良く、僅かな上り坂でも少女は軽快に登っていた。

 冷たい箱の中で運ばれてきた身体が温まるくらい歩いた所で、道の端に細い小道を見つけた。

 人の手が加えられて整えられた道よりも、誰も通りたがらない様な淋しく暗い道を選びたい気分だった。

 アスファルトから土の感覚に乗り換えて、傾斜も厳しくなり、体中から汗を吹き出していた。

 暫くは夢中で登っていたが、余裕が出て来ると思考が働き、その時に静か過ぎる事に気が付いた。

 ここよりも人が多い場所では虫が鳴いていたのに、この山道は虫の声一つ聞こえない。改めて音を意識してみると、まるで自分しかいないかの様に、足音と息遣いが響いた。

 しかし少女は、それの不思議さを解き明かせる程の頭脳は持っていないと開き直り、水分を失い続ける身体に水を与える事を一先ずの目的とした。


 道は険しくなって行く。

 地上に浮かび上がった木の根を足場にし、頑丈そうな蔓を掴み、道が無くなってからは茂みの中でも突っ切った。


 道なき未知へ数度目のダイブを果たした後、漸くひらけた場所に出た。

 平地であり、大きな湖がある。山頂だろうか。

 だが求めた水分の発見を喜ぶより先に、視線を交差させてしまった生物に応対しなくては前へ進めないだろう。


「見つかっちゃった?」

「アナタは何?」

「君は何?」

「……私は人間。アナタは竜?」

「僕はそう思うけど、君以外に目撃された事がないんだよなぁ」


 竜といえば厳かで誇り高き幻想生物。鱗や翼、尻尾などが特徴としてあげられ、巨体は人間に恐怖心を与えるのが普通だろう。

 目の前にいたのは見るからに竜なのだが、少女が抱いた思いは、間が抜けているという事だ。竜に憧れを抱く男子であれば、「期待外れ」と言うに違いない。


「アナタ名前は?」

「君の名前は?」

「……いいわ、名前なんて親が付けただけのくだらない区別の手段よ。そんなもの私には要らないわ」

「名乗りたくないんだね」

「それより、水をもらえる?」

「僕は持ってないよ。後ろの湖だったら自然のものさ」

「じゃあありがたく頂くわ」


 湖に近付き、両手で掬った水を口に含む。

 静かな夜だ。生物の声が聞こえないのは、この竜を恐れているのだろうか。


「アナタは私を食べないの?」

「僕は何も食べないよ」

「本当に?じゃあどうやって生きてるのよ」

「現実的な思考をするんだね。解明出来ない不思議があったっていいでしょ?」

「それもそうね」


 納得したように頷いてから、少女はおもむろに衣服を脱ぎ始めた。


「アナタ火を出したり、風を起こせたりしないの?」

「出来ないよ」

「ちゃんと乾くかしら……」

 呟きながら、脱いだ衣服を湖の水で洗い、木の枝に引っ掛ける。


「この湖、深さはどのくらい?」

「わからないよ」

「こう言っては失礼だけど、アナタって子供みたいね」

「君も子供じゃないか」


 片脚ずつ水に沈め、意を決して頭まで水中に潜る。

 一秒も経たない内に顔だけ出すと、ずっと少女を見つめていた竜と目が合った。


「案外深いのね。でも、足がつかなくても私って浮くみたい。それより、ジロジロ見て何よ。やっぱし食べるつもり?」

「食べないよ。こんな時間にこんな山奥にやって来る女の子なんていないから、何かから逃げて来たのかと思っていたんだ。でも、君の躰は痣一つない。僕の見当違いだったかな?」

「私が虐待でもされてるって思ったの?鋭い考えだけど、私の親は犯罪者じゃなくて、只の駄目人間。そんなに酷い生活じゃないわ」

「でも逃げて来たのは正解でしょ?一体何から?」


 左眉を少し上げて考える素振りを見せた後、少し低い声で答えた。


「孤独?」

「矛盾してないかい?こんな深い山奥に一人で来ているのだから」

「私はね、学校に行かずに本を読んでいるのよ。最初はただの暇潰しだったわ。中古本ならゴミみたいな値段で買えるし、というかゴミに出されてる本を持ち帰る事もあるわね。でも、物語の世界っていうのは魅力的だわ。こことは違う別の世界。色んな世界に入り込む内に、私はハマっていったわ。……でも、毎回の事なのだけれど、最後のページを捲って本を閉じる時、耐え難い淋しさに襲われるの。それが孤独感だと気付いた時、私はどこにも居たく無くなってしまったわ」


 竜は何も言わなかった。

 湖から上がり、濡れた身体そのままに草原の上に仰向けに寝転がる。

 深い闇夜に瞬く無数の星を眺める。

 さり気なく通り過ぎた風の匂いを嗅いで、澱みの少ない空気を肺に満たしてから少女は言った。


「皆んな死んじゃえばいいのに」

「台無しだよ」


 威厳のない竜の表情は呆れを見せた。


「君の寂しさなんて僕は知らないけどさ」


 そりゃそうだろう、と視線で返事をした少女に、竜は続けて言った。


「世界の広さも知らずに孤独を語るのは尚早なんじゃない?」


「……よく分からないわ」


「たしかに幻想は無限で自由だ。でも、現実だって君のちっぽけさと比較すればとても大きい。無限大と言っても良いだろう」


「幻想生物が現実世界の良さを語らないでちょうだい」


 竜は肩を竦める様な仕草をした後、身体を折り畳み丸くなった。眠る姿勢だ。


「いいなぁ……君は。現実に生きているから……」


 寝転がったまま視線を向けるが、ボヤいた竜は少女を見ていなかった。

 問いたい事が幾つか浮かんだが、眠そうな生物を見ているうちに、少女もまた夢の世界に落ちていった。



 草木を揺らす音で目が覚めた。

 東から昇り始めた太陽は、昼間とは違う色で世界を照らす。

 そういえば、と思い出し、辺りを見回す。

 茂みの音はリスの仕業らしく、愛くるしい瞳を見つめている内に気が付いた。

 昨夜の幻想生物がいない。

 軽やかに森に入る小動物を見送った少女は、また一人ぼっちになってしまった。

 さて、これからどうしようか。

 湖の冷たい水で顔を洗いながら思案する。

 服を着てない事を思い出した。

 昨夜洗った、木に引っ掛けた衣服を確認すると乾いていた。夏はこんなに早く乾くのだろうか。それとも、竜が乾かしてくれたのかもしれない。

 そう考えると、綺麗になった服を着て何処かに出掛けなくてはいけない気がしてきた。


 そうだ、学校に行こう。


 思い付いたら行動は迅速で、方法を知っていれば目的は簡単に達成出来る。この世界は便利で生き易いのだ。


 久しぶり、或いは、初めての出会いに揉まれて、荒れた川に流される様な勢いで時間を過ごした。

 しかしそれは終わった後に顧みれば興味深いものであり、再びその流れに乗るのも悪くないと思えた。


 放課後、再び電車に乗り込んだ少女は、竜がいた山奥に向かっていた。

 昨日はおかしな話ばかりしていた。それは少女の日常が一般とは違っていたせいだ。

 今日は学校に行ってきたから、一般的な、日常会話が出来る。あの子どもっぽい竜と話が合うかもしれない。


 例えば、手ぶらで学校に行った事を笑われた事。

 喋り方が変だと笑われた事。

 でも、それは知的だと先生に褒められた事。

 どうして今まで来なかったのかという質問責めにされた事。

 沢山の質問に答えている内に、沢山の子どもに慕われていた事。


 そう、友達が出来たのだ。

 前回、数年前に行った時は独りぼっちだったが、あの時と何か変わったのだろうか。

 そんな話をしよう。

 竜は子どもっぽいけど、中々鋭いところもあるのだ。


 少女は浮ついた心で昨夜の山道を登った。

 時刻はまだ黄昏前。険しい道だが、暗くない分進みは早かった。

 そして茂みを抜けた後、湖の前に辿り着いた少女は得体の知れない寂寥感に襲われた。


 何となく予想はついていた。

 そもそも竜なんて幻想生物であり、幻想とは夢の様なもの。

 実体がない。

 儚くて。

 掴もうとしても、砂の様にすり抜ける。

 目の前に現れたと思っても、泡沫の様に消えてしまう。


 静けさに包まれた昨夜とは違って、五月蝿い虫の鳴き声が、ここが現実だと知らしめているみたいで。

 少女はそれが堪らなく不快だったが、昨日と同じ時間まで待つ事にした。

 それは無理矢理幻視している希望の光にしがみつく様な行為。

 往生際が悪いと自覚しながらも、ただただそこに居た。

 軈て夕陽が沈み、闇夜に星が瞬く頃、昨夜はなかった心細さを感じて、少女は山を降りた。

 泣いていただろうか。

 感情がこれ程動かされた事は、暫くぶりだった。

 もう二度と会えないのだろう。

 いや、会った事すらなかったのかもしれない。

 何と出会ったのだろうか。

 寂しい事だろうか。


 家に帰ろうと思ったが、電車はもう出ていなかった。

 仕方なく反対側の交番に行き、家まで送ってもらう事にした。

 堅苦しい制服を着た年配の男は驚いた顔で少女を迎えた。

 車内で説教や質問をされるものだと覚悟したが、家に着くまで無言は続いた。

 全ての責任が母に行くのだろうか。

 そう考えると、少し怖くなった。

 いくら自分に無関心とは言え、迷惑を掛けたら怒られるに違いない。

 まだ経験が無いが、ぶたれるのは痛いから嫌だ。


 しかし、出迎えてくれた母は、今までに見た事がないくらい上機嫌だった。

 大笑いしながら「おかえり」と言った母に、警察官は迷惑そうで、呆れた様な表情をしていたが、少女はこの時初めて「ただいま」という言葉を口にした。


 家の中に入ると、急に眠気が襲ってきて、あっという間に少女は眠ってしまった。


 そして夢を見た。

 竜に出遭う夢だ。

 今日あった出来事を話している内に、これが夢だと理解した。

 そうすると夢は覚めてくる。

 それが寂しくて、もっと眠っていたいと願うが、その願いこそが現実と夢の区別であり、部屋に入り込んだ朝日に眠気は攫われてしまった。


 仕方なく目をこすって身を起こすと、普段寝ている場所ではなかった。

 辺りには酒瓶が転がっており、脱ぎ散らかした衣服が散乱している。

 だらし無い有様だが、この部屋の主である愚かな母は、少女の手を握って心地好さそうに眠っている。

 蟠りの様に胸に残っていた淋しさは霧散して、温かな愛情を感じていた。


 今は何時だろうか。

 昨日の失敗から学び、今日はランドセルを持って学校に行こう。

 その前にシャワーを浴びて、ご飯を食べたい。


 だが、繋がれた手を解かなくてはここから動き出せない。


「お母さん、起きて」


 実に久しぶりの優しい笑顔が、少女を見つめた。

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