第15話 事故に遭ったのは
調査二日目の朝食は、まず謝罪から入った。
昨晩の酒乱騒ぎを恥じているらしい加藤伊一老人はすっかり畏縮してしまって、不死原とも龍士とさえ目を合わせられないようだった。妻に手を上げた男と同一人物であるとは、とても思えなかった。
さて。困惑から始まった食事を経た後、無洞は不死原と共に
決して陽の下に出ることを厭うたわけではない。自分の、ほとんど空のサイフと向き合って何やら画策をしていた龍士に危機感を覚えたわけでもない。
不死原遥介の目的は事情聴取。昨日、龍士が成し得なかった調査の遂行である。そのためには、記録する人間も必要であろう――そう思っての判断だった。
夢叶の部屋は二階にある。二階部分は夢叶の家族、つまり依頼主加藤伊一の息子一家が主に使用しているようで、一階と比べると鮮やかな色取りが目立つ。元は手拭いと思しき布や、拙い筆遣いながら愛嬌のある絵が壁に貼り出されている。
一見すると賑やかで不気味さの欠片もない空間であったが、それを包むのは冷え込むような静寂であった。物音一つ、声一つ聞こえない。不気味さを覚えつつ進んでいると、やがて不死原が足を止めた。
「ここかな?」
そこは『ゆめか』と名札の掲げられた扉だった。見覚えのある――そう、具体的には、夢で見たような扉だ。
てっきり無人と思い込んでいたが、耳を澄ませてみると、微かにだが物音がする。語り掛けるような、優しい声も聞こえる。不死原はちらりと無洞へ視線を遣った後、三度戸を叩いた。
数秒の間の後、隙間から男性が現れる。その顔はお世辞にも元気そうとは言えず、多大なる心労が積もっていることは明らかだった。
「ああ、ええと……すみません。お客さんの」
「おはようございます。久狛井探偵事務所から参りました、不死原遥介と無洞純です。娘さんが体調を崩されたそうで。お見舞い申し上げます」
少しだけ眉を顰め、労わるような表情を作る不死原に対し、無洞は頭を下げて敬意を表する。男はぼんやりとこちらを眺めていたが、やがて訪問者の名前を反芻すると、後頭部を撫でた。
「加藤
そう返す言葉には、まるで生気がない。無洞がそれを感じ取れたくらいだ、不死原もまた目敏く加藤謙吾の異変を察知したようで、容赦なく初めの一歩を踏み込む。
「謙吾さん、顔色があまり優れないようですが」
「ああ……すみません。やはりそう見えますか」
謙吾はへらりと、こけた頬へ弱々しい笑みを浮かべた。
「最近、私も調子が悪くて。ただの疲れだと思いたいんですが……」
「ずっとお部屋に籠り切りと聞きます。気分転換も兼ねて、少し外出なされてはいかがでしょう?」
「娘が泣くんです、私がいないと。ただでさえ母親がいない状態で心細いだろうに、私までいなくなったら……」
加藤家はいわゆる二世帯家族だ。加藤伊一夫妻と、その息子加藤謙吾夫婦が同じ屋根の下で暮らしている。しかし謙吾の妻、つまり夢叶の母親は娘と同じく体調を崩しており、実家へ戻っているのだとか。
一家揃って体調不良。どうやらこれに不死原も引っ掛かりを覚えたらしく、柔和な笑みを消した。
「体調を崩したのはいつ頃ですか」
「夢叶が不調を訴え始めたのは一ヶ月ほど前です。布団から離れられなくなったのは……一週間前でした」
「謙吾さんや奥様は?」
「妻は……ええと、夢叶が体調を崩してすぐに熱っぽいと言い出して……。私は、先程も言ったように最近――つい最近です」
こくこくと首を振りながら、謙吾は応じる。男の証言をメモに取りつつ、無洞はちらりと不死原に目をやった。彼の表情は読み取れない。しかし何やら思案は巡らせているらしく、自分の首を撫でていた。
夢叶を始め、母親、父親に渡って体調不良が伝播しているということに、はたして意味はあるだろうか。メモを取りながら、無洞は目を細めていた。
ウイルス性のものであるならば道理がつけられるが、そうでない――つまり依頼主が危惧していたように心霊の類が原因であるとしたら。『約束』が根源にあるとすれば。なぜ被害が広がっているのか、どうしても無洞には分からなかった。
「娘さんの様子を見せていただくことは可能でしょうか?」
「娘の、ですか」
謙吾の表情が曇る。
娘の不調をただの体調不良を考えているという彼だ、そのような娘に見ず知らずの人間を近付けさせたくないという気持ちも理解できる。しかし不死原は歩みを止めなかった。むしろずいと踏み込んで、
「我々は探偵事務所とは名ばかりで、実際はお父様と似た業種です。拝み屋と言えば分かりやすいでしょうか」
そこまで素性を明かすと、謙吾は見るからに不快の顔を作る。
夢叶は謙吾の父――祖父に当たる依頼主から入院を妨げられているという。そのような禍根を残しているがゆえに、より反発を強めているのかもしれない。
「すみませんが、私はそういうものを信じていません。帰ってください」
語気を荒げながら、謙吾は扉を閉めようとする。だが不死原は隙間へ足を捻じ込むと、
「オカルトが胡散臭いものであることは、我々も重々承知しております。しかし、ここはあえて身を任せてみませんか。問題があれば、我々の所為にすればよいのですから」
静かに不死原は語りかける。まるで悪魔の囁きのように。沈んだ瞳が意図を探るように不死原を見上げていたが、やがてゆっくりと、観念したように扉を開いた。
夢叶の部屋は七畳ほどであった。中にはベッド、勉強机、本棚が整然と並べられている。元がさほど広くないためか、家具を設置するだけで手狭に見えてしまう。しかしそれでも無洞が住む家よりも広いのだから、世知辛いと言わざるを得ない。
「彼女が夢叶ちゃんですか」
ベッドの上で薄桃色の掛け布団が盛り上がっている。加藤夢叶――依頼主の孫にして『約束』の渦中にある少女だ。余程の高熱にうなされているのか髪は額に張り付き、顔は赤く染まっている。
そんな様子の少女を見下ろす無洞は、どうしても細首に目を遣らすにはいられなかった。
「こんな状態ですから、手短にお願いします」
「ええ。ありがとうございます」
人の好い笑みを見せ、不死原はちらりと無洞の方を見遣る。記録の開始を要求しているのだろう。無洞はビデオカメラを起動して、ぐるりと部屋の中を撮影し始めた。
整理整頓された勉強机にランドセル。教科書やその他本が並べられた棚。特別目に付く箇所はない。至って普通の子供部屋という様子だ。
強いて指摘するならば、この景色に夢で見たかのような既視感があるということくらいだろうか。既視感、というよりも、再度訪問したかのごとき感覚である。それほどまでに全ての景色、印象に見覚えがある。
「娘さん――夢叶ちゃんの体調が悪くなる前に、何か貰っていませんでしたか。手渡された、でも構いません」
「何かを貰うなんて日常茶飯事ですから」
明らかに困惑した様子の謙吾。無洞もまた同じ気持ちであった。なぜそれを尋ねるのか、全くもって理解できなかった。だが、不死原はそれを説明しようとしない。ただただ意味ありげな笑みを浮かべるばかりだ。
「強いて言うならこれ……かなぁ」
男は不安げに夢叶の枕元へと手を伸ばす。
そこにはぬいぐるみがある。
「これは?」
「夢叶が生まれた時に買ってやったものです。片時も手放さないくらいに懐いているらしくて、友達が事故に遭った時も――ああ、そういえば」
謙吾は手を打つ。
「夢叶の友達、ヒジリ君が事故に遭ったのは、そのぬいぐるみを取りに行ったからとか。そんな話を聞きました」
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