第7話 地縛霊(20.1.29改修)

「あれこそがこの倉庫の主――いや、囚われている、と言った方がいいかもね」


「囚われている?」


 ちらりと視線を持ち上げて尋ねると、薄木は神妙な面持ちで首肯した。


地縛じばく霊って知ってるかな? ある場所に、何か強い感情を抱きすぎているがために、そこから離れられなくなっちゃった霊。執念だったり執着だったり、あるいは恨み辛みや、はたまた愛情だったり。感情の種類はまちまちだけど、何はともあれ、それがこの倉庫における怪奇現象の原因と考えていいのかもね」


 無洞はそうっと地縛霊の方を窺う。そこには依然として真っ黒いものが渦巻いている。


 嫌悪を抱かせる何か。しかしその中に、無洞は光のようなものを見た。


 膝を抱える女性――いや、少女。年齢はおよそ高校生くらい。成熟しておらず、かといって未発達でもない。一生において刹那に等しい、美しい年頃の女性であった。


「本当に、あの子が原因なのでしょうか」


「あの子」

 薄木は半眼で反芻する。

「無洞君には、あれが『あの子』に見えるんだ?」


「えっ、薄木さんには何に見えるんですか?」


「どす黒い、気持ち悪い。執念に満ちたヤベェやつ。……無洞君ってさ、ゴキブリも『あの子』って言っちゃうタイプの人?」


「いや違いますけど」


 無洞の目には、薄木が言う「どす黒い、気持ち悪い」ものも映っている。しかし同時に、その中央に存在する女の子――今にも消えてしまいそうな淡い少女も、確かに見えるのだ。


「見えませんか、女の子。高校生くらいの。名前は……」


「えっ、そこまで分かるの?」


 年齢十六歳。苗字はエンドウ。名前は――。


 とぐろの中に女性を感じた時、脳裏に浮かんだのは誰のものとも知れぬ個人情報であった。


 ただの思い違いかもしれない。連想ゲームよろしく脳が勝手に言葉を選出しただけかもしれない。無洞の肩は次第に自信を失っていく。


「同調……かな。あまり意識しすぎないようにね。無洞君まで飲み込まれたら大変だから」


「はは、そんな馬鹿な」


「――で、女の子が見えるって?」


「はい。黒いものに纏わりつかれて……」


「……死してなお執着するのか」


 忌々しげに呟くと、薄木は懐へ手を突っ込んだ。


「無洞君の言う女の子――アタシには見えないけれど、この廃屋における事件を考慮すると、きっとそれは正しいんだろうね」


「はあ、そうですか」


「それなら黒いものと女の子、あれらはもともと別の霊だと思う」


「集合霊とか何とかってやつですか」


「うーん、それとはちょっと違うかな。集合霊って文字通り幽霊がフュージョンしちゃぅたやつで、例えるならばハエ取りシートとコバエみたいな関係なんだけど、目の前のやつは、黒いものが一方的に女の子を捕らえている感じなんだろうね。


 女の子がまだ飲み込まれていないなら、分離させることができるかもしれない。――いや、しなくちゃならない」


 アタシには見えないけど、と苦笑と共に取り出されたのは、一枚の紙だった。


 男子トイレのマークの形に切り取られた、真っ白い紙だ。何か文字が記されているようだが、無洞にはその内容を認識することはできなかった。


 人差し指と中指で挟み込み、それを霊魂に見せつける。モヤの中から血走る目玉がひり出された。


「さあ、来な。あんたらが欲しがっている子はここにいる」


 ぐんと身体が動く。掲げられた薄木の腕、それに手が――骨ばった手がかかる。


「……無洞君?」


「ください、それ」


 喉を掻き毟るほどの渇望。それが無洞を突き動かしていた。


 ただの紙きれなのに、なぜだかそれが輝いて見える。一億の大金、砂漠の砂にすら劣る、唯一無二の至宝にして秘宝に見える。


 欲しい。欲しくてたまらない。


「欲しい、それ。その子、俺のだ」


 無洞は言うまでもなく男である。加減を知らぬ拘束は、ギリギリと薄木の細腕を痛めつける。しかし彼女はただじっと、ヘッドライトに照らされた青白い顔面を見上げていた。


 目は大きく見開かれ、眼球には赤い線が走りつつある。鼻息は荒く、口の端には泡が溜まっていた。平生のすかした顔は見る影もない。本能の赴くままに、感情の猛るままに牙を剥いている。


 薄木は無言のまま紙を解き放つ。無洞の目はそれを追い、カエルのごとく跳躍すると、紙を握った。ガシャリと耳障りな音と共にカメラが落下する。


「ひは、やっと、やっと見つけた……生身、肉体、こんなところに――」


 少女に纏わりついたモヤが無洞へ向けて伸びてくる。白ばむほどに握られた男の手を包み、紙を握り、ぱくりと唇を開く。


 その時だった。


「……ッ!?」


 無洞の身体を燃えるような痛みが走り抜けた。


 手が燃えていた。紙を握る手が、それに纏わりつくモヤが、少女を捕らえていた怨念が、赤く清廉な炎に包まれて悲鳴を上げる。無洞の口からも、とても人のものとは思えない絶叫が吐き出された。


 ガラスが割れるほどの断末魔と、肉体を苛む苦痛。それが収まったのは、この世の憎悪を集めたかのように黒く淀んだモヤが、欠片すら残さず焼き尽くされた後だった。


 静寂が訪れる。無洞の手の中にあった紙は、役目を終えたとばかりにポロポロと崩れていく。


「……無洞君、アタシが分かる?」


 床に蹲り、首を垂れる男は、びくりと肩を震わせた。


 持ち上がる顔には平常が戻っていた。無洞はぽかんとして薄木を見上げ、名を呼ぶ。すると薄木は満面の笑みを浮かべて無洞の肩を――未だにミントエキスに濡れている肩を叩いた。


「いやぁ、大手柄だよ、無洞君! 若干ごり押し感強いけど、何とかなったよ!」


「はあ? 何とかって、何が起こったんです? 俺、いつの間に座り込んで……あれ、何かゴミみたいなのが手についてる。うわ、まっ黒焦げじゃん、キモッ」


 無洞が手を振ると、すっかり焦げた紙片が散っていく。


「そんなこと言ってたらバチ当たるよー。無洞君、まあ簡単に言っちゃうと憑りつかれてたんだよね」


「憑りつかれて……何にですか、オバケ?」


「めっちゃ面白かった」


「それはよかったですね」


 溜め息混じりに無洞が応じると、薄木はふと指を持ち上げた。


 示されたのは部屋の隅――先程まで集合霊と呼ばれるモノが居座っていた場所である。そこに黒い塊は存在していなかった。代わりに膝を抱える少女が見える。今度ははっきりと。


「ここまで来るとアタシでも見えるね。間一髪、ってところだったのかな。黒くてキモい奴に飲み込まれる前に女の子を救出できた! 彼女は決して消滅させていい存在じゃぁないからね。それにしても――」


 小枝のように細い腕。艶を失った黒髪は世界を拒絶するかのように垂れ、一糸まとわぬ痩躯を覆っていた。



 ――ここ、噂があるの知ってますか。


 ――心霊現象が云々ってやつですか?


 ――この小屋で殺人事件が起こったってやつです。監禁だか何だかの末に殺しちゃったとか。その被害者が今なおこの小屋にはいて、心霊現象を引き起こしているとか、そういう話だったんですけど。



 目前の少女は、薄木の言う通り、怪奇現象の一端を担っていたかもしれない。しかし無洞には、少女が害悪な怪異であるとは見えなかった。


 それもそのはずである。無洞は確信していた。目前の少女こそが、エリマキから聞いた噂の被害者であると。



「…………」


 自他ともに認める、長く美しい、作り物のごとき足。薄木は少女の前で、その足を折った。


「さあ、これであなたを縛る者はいないよ。これまでよく持ち堪えたね」


 髪の隙間から、黒い瞳が現れる。その瞳は徐々に精気を取り戻し、薄木を見上げた。


「もう苦しまなくていいの。ちゃんと、あるべき場所へ送ってもらおう」


 少女の顔に次第に感情が戻る。引き結ばれていた唇は緩み、隈と泣き腫らした痕の残る目元はすっかり健康に戻っている。


 少女は薄木の首へと腕を回し、何かを紡いだかと思うと、塵となって湿った空気に溶けていった。


 薄木の前には、薄汚れたリボンだけが残されていた。

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