第6話 既視感(20.1.29改修)
「嘘、だろ……薄木さん……?」
廃墟の中で何が起こっているのか、無洞には全く分からなかった。だが、何かが起こったことは確かである。
有事の際にと伝えられた緊急手段を脳内で反芻しながら、不安そうにガラス片を払う青年を見遣る。
「すみません、ええと……エリマキさんは帰ってください。絶対にログハウスへ戻らないように」
「ちょ、ちょちょっ」
エリマキが慌てた様子で追いすがる。無洞はコール音の鳴るスマホを耳へ押し当てながら、それを手で制した。
「大丈夫です。こういう時の対処は、ちゃんと覚えてますから」
「あ、あなたたち、一体……」
困惑するエリマキの声を聞きながら、無洞は廃墟の中へと戻って行く。ハンディカメラを起動して、ヘルメットのライトを灯す。その流れでコール音を鳴らした。
「はいはい、不死原だよ。どうかしたかい、緊急?」
「薄木さんの反応がなくなりました」
「……へえ?」
無洞が調査の対象としている廃墟は、曰く付きの建物である。
事前の調査で大した怪異は住み付いていないという判定を受けたが、何が起こるか分からない――そういう理由で、無洞には不死原より特別な指導を受けた。
――万一、薄木さんが“使いもの”にならなくなったら、すぐ連絡するように。
無洞がこうして仕事の現場に出るのは初めてである。加えて幽霊や怪異を視ることはできず、当然祓う力もない。常識の通じない相手に対して、あまりにも無力だ。今の無洞は素っ裸で戦場をうろついているようなものである。
「ログハウスから出て来る姿は見ていないので、中にいるとは思うんですが……」
「……無洞君、まさか捜索中とか言わないよね?」
「エスパーですか?」
まさしく捜索中であった。今はちょうど、薄木と別れた廊下まで戻って来ている。薄木の姿はない。
スピーカーの向こうから、深く息を吐く音が聞こえる。
「こんなに行動的とは……いいんだけどさ。いや、よくはないな。まあ、入ってしまったなら仕方ない。だけどね、無洞君。どうしても一階で見つけられなかったら、その時は大人しく外に出るように。今所長がそっちに向かってるはずだから合流して」
二階へは行くな、不死原は暗にそう言っていた。
二階。また、二階だ。無洞は胸が騒めくような感覚を覚えた。
まさかこれが恋、だなんて茶化している暇はない。予感が――どことなく確信めいた予感が、無洞の中に芽生えていた。
「二階……二階、か」
心霊スポットたる由縁が二階にある。元凶は二階に潜んでいる。ならば薄木や不死原が、無洞を二階へ近付けさせまいとする理由も納得がいく。
「分かりました。所長さん、あとどのくらいで着きそうですかね?」
「早くて十分くらいじゃないかな」
「了解です。……何かあったら、また連絡します」
断りを入れ、通話を切る。それだけで孤独感が押し寄せる。頼れるのは自分だけ。無洞はしかとカメラを構えて暗闇の中を進み始めた。
「薄木さーん? おーい、どこですかー?」
返事はない。
「事務所の経費で高いお酒買ってること、所長に言いつけますよー」
これでも返事はない。
ログハウスを一周巡ってみたものの、大した成果は得られず無洞は途方に暮れていた。
一階にいないとなれば、残すは二階――薄木からも不死原からも、一人では絶対に立ち入るなと釘を刺されていた、いわくつきの場所。
やはりここは、不死原の言う通り久狛井探偵事務所の所長を待つべきであろうか。だがその間に薄木に何かあったら。無洞の脳を支配するのは、焦りにも似た恐怖だった。
足は誘われるように動き出した。
二階へ上がると、まず通路が出迎える。階段から一直線に伸びる、短い廊下だ。そのさらに奥には、蝶番の外れた戸がぶら下がっていた。
それだけならば、多少荒んでいるという感想で済んだだろう。しかし無洞の目は、異様を捉えた。ヒビが入っていたのである。天井、壁、床、戸――ありとあらゆる場所に、黒い線が走っている。
一足踏み入れた途端に床が抜けやしないかと、爪先でフローリングを突いてみる。ヒビがずれた。
「違う、これ――」
毛だった。長い長い、黒くけば立った毛。
よく見れば、それは床だけでなく壁や天井にも付着している。いや、這っていると表現すべきだろうか。ひどく既視感を覚える光景だった。
やはり二階だったのだ。この小屋を訪れるきっかけとなったスレッドを、阿鼻叫喚の渦に突き落としたのは。
言いようのない嫌悪感が背筋を這い上がる。震える喉から洩れたのは、ひどく弱々しい声だった。
「すっ、薄木さぁん」
その時だった。
「無洞君?」
声が聞こえた。もう一度名前を呼んでみると、再び聞き覚えのある声が帰ってくる。幻聴ではない、薄木夕真その人だった。
「薄木さん、どこですか?!」
「ここ――って、ああっ! 来ちゃ駄目だってば!」
何かあったのかと、慌てて声の方向――目前の戸が外れた部屋へと飛び込む。
そこには先刻と変わらないスーツ姿の女性がいた。
裾口などが汚れているものの、一見した限りでは怪我はないようだ。ほうっと安堵の息を洩らす無洞に、薄木はツカツカと、長い足で蹴るように迫る。
「来ないでって言ったでしょ!」
「なんでそんなに怒ってるんですか……」
腰に手を当て、眉をそば立たせる。彼女がこんなに怒っているところを見るのは、キリンと薄木をコラージュした写真をプレゼントした時以来だ。
長いものには巻かれろとはよく言うが、長いものにはとりあえず舌打ちしておくのが薄木らしい。
余談ではあるが、キリンみたいに長い舌でカニの殻の中まで食べてそうなモンスターが誕生したと洩らしたら、ついぞ薄木に殴られた。ついでに「妖怪カニ舐め、いや、カニ
「二階には来ないようにって言わなかったっけ? どうしてそれを守らなかったのかな?」
「だって非常事態でしたし」
「エリマキ君を外まで送ってって言ったはずだよね?」
「あの人なら屋敷の外に送り届けましたよ」
「ああ言えばこう言う」
「薄木さんだって、これから二階に行くんだって教えてくれればよかったのに。そうすれば、俺がわざわざ探す必要もなかったんです」
そう口にすれば、薄木は気圧されたように口をつぐんだ。
多分、俺がいない間に二階に関するあれそれを終わらせてしまおうという魂胆だったのだろう。しかしそれが不発に終わった今、無洞と薄木との間にあるのは、突如として行方不明になった先輩を案じる後輩と、一方は後輩に無茶をさせまいとする先輩の心意気であった。
面倒臭い、と無洞の口から零れなかったことが不幸中の幸いだ。
「……ごめん、そうだね。アタシにも否はあるね。ちょっと冷静じゃなかったかも。でも、これからはちゃんと言いつけを守ってほしい。これはアタシたちや無洞君を守るためでもあるんだから」
相手取るのは実体のない霊魂。されどもポルターガイストに代表されるように、向こうからの害意は確かに受ける。そしてそれは単なる外傷だけでなく、精神的な脅威にもなりえるものだ。だからこそ身内に危険分子は置かない。あっても枷をはめる。
薄木は、薄木たちは、決して道楽紛いにこの仕事をしているわけではないのだ。
事務所に酒の保管庫を作ったり、写真をコラージュして遊んだり、某大型掲示板のスレッドを監視したり、時には阿呆みたいなレスをつけることもあるが、彼らは異形と対峙する術を持つ特殊な者たちだ。
秀でた能力こそないが、その一員として迎え入れられた者として自覚が足りなかった。無洞は何となく負けた気分になっていた。
「来ちゃったものは仕方ないね。……無洞君、あれが見える?」
薄木は半身を引き、ヘッドライトで部屋の奥を示す。
照らし出されるのは八畳ほどの板間だ。その隅には黒いものがうずくまっていた。影にしてはあまりにも濃く、かといって汚れと一蹴するには立体的に見える。
視認した瞬間、胸を掻きむしるような憎悪と恐怖が、そして例の臭いが襲ってきた。
ミントすら凌駕するほどの腐乱臭。
無洞は直感した。あれは関わるべきではないと。
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