第4話 訴えてやる(20.1.29改修)

「昨日の凸主、またここに来るみたいです」


 薄木の表情が固まる。意表を突かれたと言わんばかりの、珍しい表情だった。


でいるの?」


「……『これから行く』という報告が二十分ほど前に。どこに住んでるのかは知りませんが、もうそろそろ到着するんじゃないですかね。ちょっとだけスレが盛り上がってます」


「なるほど。ひとまず、一階だけでも掃除を終わらせちゃおうか。……すぐ二階に上がるような鈍感君じゃないだろうし」


「二階?」


 そういえば、と無洞は思い出す。


 小屋に入ってすぐ――ちょうど階段が見える位置で、やけに二階が気になったような。ぼうっとしていると、つい視線がそちらを向いてしまったような。


「二階……二階って何があるんですか?」


「……さて、何だろうね。アタシにも分かんない」


 白々しい。


「あ、無洞君も二階は気を付けてね。危ないから、一人では行かないように」


「はあ」


 薄木はシュとミントエキスを噴出する。その瞬間、どこからともなく生臭い空気が漂ってきた。魚が腐ったような臭い。無洞には全く馴染みのない――しかし本能に訴えかける臭気だった。


 思わず鼻を押さえる。


「それ、腐ってません?」


「まさか。えっ、まさか……」


 薄木はノズルに鼻を近付ける。その際に強く吸い込みすぎたのかむせていた。


「ふっ、普通の臭いですけどぉ?」


「じゃあ別の臭いですかね」


 無洞の様子に、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。薄木は無洞の真似をするかのごとく鼻を鳴らした。


「あーこれか、腐乱臭。多分どこかしらに元凶があるだろうね。上のヤツとは別案件かな……」


「警察呼んだ方がよいのでは?」


「いやいや、流石に警察を呼ぶほどじゃないでしょ。まさか死体があるわけじゃあるまいし。……ないよね?」


「知らんがな」


 訊かれても答えられないものは答えられないのだ。


「俺ここ初見ですし、薄木さんの方が詳しいのでは」


「うーん、そうだねぇ。昨日来た時は臭いも、腐乱臭の元になるようなものも見掛けなかったけど……」


 たとえ死体か何かがあったとしても、まさかわずか一日で、急に腐乱臭を発するようになるとは思えない。薄木はあごに手を添える。


「本当に何かが腐っているか、それかアタシたちに反発した結果かな。……ううん、駄目だ。薄木さん、考えるの、駄目」


「投げないでください!」


 無洞は久狛井探偵事務所に属してからというもの、事務仕事ばかりをしていた。現場に出るのは初めてなのだ。薄木だけが頼り――そうだというのに彼女は、まるで悟りきった菩薩のような目をしている。


 ぐるぐると思考を巡らせ、無洞は何とかして薄木の推理を手伝おうとする。


「ええと……こういうことってよくあるんですか? 急に変な臭いがしてきたり」


「たまーにね。そうだね……こっちのアプローチに反応してきた時に臭うことがあるかも。ただ、昨日視た限りでは、こんな『臭い』として干渉してくるほど強い霊はいなかったはず。二階からよくない気配はしたけれど」


 また二階だ。無洞は生唾を飲む。


「昨日と違う点は三つ。無洞君がいること、不死原君がいないこと。芳香剤を使っていること……」


 ――ギシリ。


 家が、軋んだ。


「そのどれかが『臭い』と関わってる?」


 ――ギシリ。


「いや、それとも全く別の要因が――」


「邪魔をするな」


 声が聞こえる。薄木は黒目がちな目を、じいっと無洞へ注いでいた。


「また俺を追い出すのか。奪うのか」


「…………」


「こんなにも愛してるのに。愛し合っているのに。許さない。出て行け……」


「……なるほどね」


 突然薄木はリュックからボトルを引き出した。


 手製のミントエキスが詰まるという、二リットルボトル。彼女はその蓋を開けると、何を思ったか無洞へ液体をかぶせた。


「ドゥエッ、えほっ……!」


 強烈な臭いがありとあらゆる粘膜を刺激する。あまりの衝撃に身体を反る無洞は体勢を崩し、そのままミントエキスの池へ倒れ込んだ。


 涙が出る、鼻水があふれる。全身のありとあらゆる筋肉が拒否反応を起こしている。吐き気を催す清涼感の中、無洞は懸命に肺を絞る。


「訴えてやる!」


「第一声がそれ?」


 半笑いの薄木が、強張っていた肩を降ろす。ひどく安堵した様子だった。


「はー、びっくりした」


「『びっくりした』はこっちの台詞ですよ。……あーあ、ミント臭やば。くっさ。洗濯で落ちるのかな、これ……」


「…………」


 薄木の視線は、依然として無洞に向けられたままだ。じろじろと全身を舐めまわしている。


 無洞とて男である。同年代の女性から見つめられて、何も感じないわけではない。年頃の男子と同じ感性は持ち合わせているつもりであった。


「……クリーニング代なら後で請求するので大丈夫ですよ」


「それだけ喋れるなら大丈夫そうだね。うん、よかった」


 薄木の手がくしゃりと、無洞の濡れた髪を撫でる。


「助かったよ。これで向こうの主張が分かった」


「はあ、それはよかったですね」


 突然何を言い出すんだ――無洞は怪訝の意を込めて目を細めた。


 それもそのはずである。彼は全く思い至ることがなかった。まさか自分がヒントを与えていたなど。自らの口が勝手に言葉を紡いだという事実にすら気付くことはなかった。


「で、向こうの主張とは?」


「出て行け」


「え?」


「出て行けってさ。また追い出すのか、愛し合っているのに、と」


「それって――」


 無洞が口を開くと、突然薄木が「あっ」と声を上げた。


「ほらほら、ここ。例のスレ主と出会った場所。髪の毛がいっぱいの――って、あれ」


 この場所は玄関と並行に位置し、リビングからおよそ直角に曲がった位置にある。


 片側の壁には数個の窓が設けられ、フローリングを隔てた壁には三つの扉が並んでいる。どれもぽっかりと開いており、ちらりと覗く闇がひどく不気味に見えた。


 しかし、どこを見ても薄木の言う「髪の毛」は見当たらず、目ぼしいことといえば、窓ガラスの大半が割れているということくらいだろうか。


「ほらぁ、やっぱりアレは二階なんですよ」


「二階かぁ。それにしても、何でこの廊下って思い込んでたんだろう。よく考えてみれば、一回ここには来ているはずなのに」


「凸主エリマキとの出会いが衝撃的だったのでは」


「あー、ありえるかも」


 ケラケラと笑いながら、薄木は手近な部屋を開ける。


 中にはまずベッドがあった。しかしシーツや掛け布団は全て取り払われており、枠だけがぽつんと置かれている。さらにその向かいには机と椅子が申し訳程度に設置され、床にはコート掛けと思しき棒が転がっている。


 ログハウスの奥に位置する廊下には三つの部屋が接しているが、家具らしい家具が残されていたのはリビングに最も近い部屋のみだった。


 付近の窓が割られているにも関わらず、どの部屋も荒らされた形跡はなく、掃除をすればすぐにでも居住区域として活用できそうだ。


「そういえば、例の凸主と遭遇したのはこの辺りって言ってましたよね。どの部屋ですか?」


「隣の部屋。三つ並んだ部屋の中央だよ。どこに隠れようかウロウロしている時に、つまずいたらしくてね。半泣きでこっちを見てたんだ」


 暗い中、床に足を取られる。その恐怖たるや。仮に無洞がそのトラップに引っ掛かったとしたら、耐えられる気がしない。赤ん坊さながらに泣き叫ぶ自信がある。


 その時だった。


 部屋に一筋の光が差し込む。向けられた懐中電灯の奥で、「うわっ」と声が上がった。

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