第一章 8 『最強の敵』
──目が覚めると朝になっていた。
鮮烈なあの痛みはもちろん無くなっている。
しかし、経験として立川の脳には深く刻まれていた。
別世界での出来事だと分かっていても心は恐怖に侵され、全ての意欲は阻害される。
ベッドから立ち上がるが何もせず何も感じず、ただそこに立ち続ける事しかできなかった。
「響矢ー。起きないと遅刻するわよー」
律子の声でやっと動き出すがどことなくボーッとしていてその姿に覇気など微塵も無い。
制服に腕を通し、ボタンを締めて、スボンを履く。最後にネクタイを締める。
淡々といつもの工程をこなしていき、何も言わずに家を出た。
立川は遠くを見る目で歩く。すると、前方に夏田がこちらを向いて立っていた。立川に気づいた夏田は軽く手を挙げた。
「おはよう。立川くん、昨日は散々だったね」
そんな言葉を無視して立川は歩き続ける。夏田も横に並ぶ様に歩き始めた。
「なんで僕の住所知ってんの?」
立川は渇いた喉で今日初めての言葉を発する。
「加賀爪くんに聞いたの。ほら、あの子あっちだと情報はなんでも掴めるでしょ? だから、あっちであなたの家を探してこっちで来たの。一応、ここに来る前に雅ちゃんの家にも行ってきたけど問題は無さそうだった」
「みやび? 夜久の事か?」
「うん。少し遠いけどあの子自転車だと二十分くらいの所に住んでるから。
──雅ちゃんも茂木さんに助けてもらって無事にこっちへ戻ってこれたみたい。
茂木さんがあの貴重な麻酔銃を使ったくらいだから二人はよっぽど追い詰められていたのね」
そこで立川は思い出す。意識が朦朧とする中で見た茂木の姿と微かに聞こえた茂木の声。
茂木は即効性の麻酔銃を夜久と立川に撃ち、強制的に現実に戻したのだ。そういう事だったのかと合点がいき、嘆息を漏らす。
「貴重な麻酔銃って? あっちならいくらでも調達できそうだけどな」
単純な疑問を言った立川に夏田を首を横に振る。
「いいえ。本来なら麻酔銃といっても対象に命中しても眠るまでには数十分はかかっちゃうの。
成分が少なすぎれば効果は無いし、多すぎれば死んでしまう。
でも、ある大手製薬会社が最新型の対人用即効性麻酔の開発に成功したの。
それをあっちでくすねて、茂木さんが肌身離さず管理しているの。
一度に撃てるのは五発まで。撃ち尽くせばもう一度調達しに行って特殊な機械で装填しなきゃいけない」
「ちょっと待って。今『茂木さんが肌身離さずその特殊な麻酔銃を管理している』って言ったけどおかしくないか?
だって茂木さんは現実でその銃を所持している訳じゃないんだろ?
あっちの世界で会社からくすねて来たんだろ? だったら茂木さんが眠ればその銃は現実に影響されて、現実にある所に戻るんじゃないのか?
次にあっちの世界に行った時には手元に無いから、もう一度取りに行かなきゃいけないじゃないか」
捲し立てるように立川は夏田に質問責めをするが夏田は微笑んだ。
「いずれ分かるわ」
試験前に電車でした会話を彷彿させるような返答に立川は苛立った。
「じゃあな」
冷たく一言放ってから夏田を置いていき早歩きで学校へと向かい出す。
──二度とあの世界には行きたくないな。
その言葉は立川の口から白い息となって宙へと消えていった。
学校の玄関に到着するやいなや三島が立川の元へやってくる。
「よっ! ねぼ助! 今日はぐっすり眠れたのかよ」
笑いながらいつものテンションで茶化してくる三島を煙たがる立川。それに違和感を覚えた三島は笑うのを止めて教室までは一言も話さずにただ立川の隣で歩いているだけだった。
「どうした。何かあったのか?」
手袋やらマフラーやらを外して、席に着くのを見計らって三島が話しかけてきた。
「いや、何にも」
三島とはいえ全てを話す気にはならなかった。眠れば強制的に現実さながらの世界に飛ばされて化け物と戦わなくちゃいけない。こんな話信じる訳がない。なにそれと笑われるのがオチだ。
それに立川には罪悪感があった。助けれたはずの命を救えなかった。自分が強ければ、あの女が幻妖に殺される事は無かっただろう。
そんな考えが意欲を阻害する原因でもある事も立川は気付いている。
しかし、考えずにはいられないのだ。
あの女の救いを求める目が脳裏に焼き付いていて離れない。
机に額だけをつけて、今は話したくないという無言の圧力を送る。
三島はそれを感じ取り、自分の席へと戻っていった。
こんな事したって何も変わらないのは分かりきっていた。
結局、その日は三島と話す事は無いまま家へ帰った。
夜通し眠りにつかないために携帯をいじり、眠りそうになればシャワーを浴びて目を覚ます。それほどまでに眠る事が嫌だったのだ。
三島が話しかけてきたのは翌日の事だった。
「響矢! カラオケ行こうぜ!」
立川は流石にオールが応えたのか眠気は尋常ではなかった。
だが、その誘いは嬉しい。カラオケに行けば、まず眠りにつく心配はない。
立川はそれを承諾し、放課後に三島とカラオケに行った。
お世辞にも上手いと言えない二人の歌声がカラオケルームで響く。
久しぶりの三島とのカラオケは楽しかった。眠気さえ無ければもっと楽しめるはずなのにともったいない気持ちになりながらも歌い続ける。
気づけば、時刻はすでに十一時を回っており終電が迫っていた。
立川と三島はカラオケ店から飛び出して、駅まで全力で走る。
何故かその瞬間が一番楽しかった。
三島は電車に乗る必要がないのに走って駅までついてくるのがなんとも笑けてくる。
「やっぱ響矢は走るのはえーな」
腰に手を当てて、夜空を仰ぐ三島は息を切らしていた。
「──ありがとう」
立川は心から思っている事をそのまま口にした。
「いいって事よ。また月曜日な」
それだけを言い残し三島は背を向けて夜道を進んで行った。
終電にはなんとか乗れた立川はどっとのしかかる疲労でイスに倒れ込むように座った。
この疲れは寝ていない事から来るものなのか、それともカラオケではしゃいだ事から来るものなのか。両方か。
その車両には立川一人しかいなかった。
電車の軋む音と吊り革が揺れる音が支配する車内。
向かいの窓に映り込む自分の顔がよく見える。
目の下にはクマができており、目蓋は少し垂れ下がっている。
──酷い顔だな。
立川は寝不足で窶れた自分の顔を見つめていた。
すると、まるでトンネルを抜け出したかのように外が急に明るくなった。
夕陽に照らされた立川は思わず目を細める。
──夕陽?
外は夜だったはず。夕陽なんて絶対に昇るはずがない。
「──もしかして」
立川は自身のポケットを探り出す。
やっぱり。
ポケットに入れていたはずの携帯がない。
これは紛れもなく夢の中だと立川は確信する。そして、真上の網棚に具現器である弓を見つけた。
立ち上がり、具現器を手に取る。漆黒の色合いに夕陽が照らされて輝いていた。
「来ちまったな」
逃れようのない睡魔がいつの間にか勝っていたようだ。
もう一度腰を下ろして、流れる景色を眺めていた。
しかし、立川はその不自然な現象に気づき、すぐに立ち上がる。
「──なんで電車動いてんだ?」
この世界では電車などが勝手に動く事はない。あるとすれば、加賀爪の具現器による"ハッキング"しかない。
そう思った矢先に遠くから何かガラスが割れる音がした。どうやら違う車両のガラスが割れたらしい。
立川はその場で揺れ動く連結部分のドアから様子を伺おうと試みるが上手く見えない。
嫌な予感がした。
一応のために具現化で戦闘服を身に纏ってから音のした方へと進んでいく。
連結部分のドアを開けて、またドアへと向かって歩いた。
段々と誰か複数の哮る声と衝撃音が聞こえてきた。
近づくにつれその音も大きくなっていく。立川も足を早めた。
そして、四個目のドアをくぐり抜けた時、立川は見た。
誰かがドアの向こうで背を向けて立っている。
見覚えのあるマントを背に着けていた。
おそらく茂木だろうと近づいていく。
その瞬間。ドアのガラスから見えていた茂木は姿を消した。と同時に立川と茂木の間にあったドアは何の前触れもなく、ひしゃげて丸っこく縮み、球体のようになってこちらに向かって飛んできた。
辛うじて、避けた立川は大勢を崩しそのまま床に尻餅をつく。
後方に飛んでいった元ドアは向かいのドアに大きな音をたてて衝突した。向かいのドアは衝撃で歪んだ。
そして、尻餅をついたまま立川はドアを失った連結部分の先を見た。
そこには茂木の他に夏田と昼神、夜久もいる。あと一人見覚えのない男もいた。
その五人は揃って対面側にある連結部分のドアを見つめている。
立川も五人の見ている方を見た。
──なんだあいつ。
今まで見てきた幻妖はどれも奇妙でおぞましい姿をしていたが今回のは桁違いに恐ろしい姿をしていた。
それに幻妖から感じ取る怨念や狂気もズバ抜けて強大なものだった。
男の幻妖だ。上裸で下半身には血の付いたジーパンを着ている。その脚は異常に長い。
そして、頭頂部に至らず顔中にも生やした毛で目や口は一切見えなかった。
「……夏田」
一番手前で肩で息をしている夏田に後ろから小さく声をかける。
「立川くん!? なんでここに!?」
夏田の声につられてその場の全員は立川を見た。おそらく上裸の幻妖もこちらを向いている。
「立川くん。君は後ろの車両まで逃げなさい。こいつは危険すぎる」
茂木は幻妖から目を逸らさずに言った。
「危険って……あいつは一体……」
現状がいまいち理解できていない立川に対して茂木は簡潔に説明をする。
「前に話したよね? 多種多様の幻妖が存在していると。──その中でも強力な幻妖がいるって事も。
アイツがそうだよ。
アイツが最強種の幻妖、"異種"」
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