第一章 7 『変化』

 耳元で放たれた矢による風の音がした。


 素早く、一直線に飛んでいく。


 前に戦った鍋男とは違い、あの尾のある幻妖は頭が小さい。頭に当たる確率は多く見積もって二十パーセント。それに頭を射抜けば喰われかけている女にも当たってしまう。


 だから、立川が狙うのは胴体だった。


 胴体を貫き、怯んだ隙に夜久の斧で首を切り落とす。


 これが理想の流れだったが、その理想は早い段階で無に帰した。


 胴体には刺さった。しかし、浅すぎる。矢尻しか刺さっていない状態で怯むどころか気付いてさえいなかった。


 時が止まったようだ。僅かに隙間から見える女の目。救いを求めるその目には自分が写っているのだろう。


 そして、口は閉ざされる。飛び散る鮮血に叫んでいた女の声もパツンと鋏で切られたように無くなった。


「モギゅも……よジュみュこ」


 頭蓋骨が砕ける音が幻妖の口から聞こえてくる。

 頭を失った女の身体は身体の中に違う生き物でも入っているかのように痙攣しながらパタリと倒れた。


 またダメだった。


 ──上手くいかなくて、嫌いになって、妥協して、それでも上手くいかない。


 どうしていつも土壇場になるとお前は力を貸してくれないんだ。持っている弓を強く握り締める。


 あの時だって、あと少しだったのに……今だって……クソ……クソ……クソ……


「それでも諦めるな!」


 らしくない激しい口調で夜久は叫んだ。


「前を向け! クヨクヨするな! 今はするべき事をしなさいよ!」


 そう言いながら夜久は突っ走っていた。きっとわかっていたのだ。

 もう、女を助けられない事も。それでも立ち向かなきゃいけないと振り切っていたのだろう。

 人が死にゆく光景はもっと見てきたと彼女の迷いのない足取りは物語っている。


 そうだ。今は悔しがっている場合じゃない。無念に浸るのは後回しだ。

 対峙する事だけを考えなければ自分が死ぬ。ここはそういう世界だ。立川はそれを試験の時に思い知っていた。


 再び矢筒に手を入れ二本目の矢を射抜く準備をする。

 非力でもできるだけの事はしなきゃいけない。夜久の足手まといだけにはなりたくなかった。


 二本目の矢を射抜こうとしたその時だ。夜久の斧が急に光を放ち出した。神々しく眩い光が立川の目を刺す。


「なんだ!」


 予想だにしない展開に立川は腕で目を覆った。


「断て! 我が具現器よ!」


 夜久は斧を振りかざしながら身体を二回ほど捻り、幻妖の首に目掛けて振り下ろす。

 すかさず幻妖は後ろへと身体を後退させ、斧を避けようとするが、夜久には見透かされていたようだ。


 夜久は首元を狙うと見せかけて、勢いをつけたまま尻尾へと狙いをシフトする。


 そして、夜久の斧は幻妖の尻尾を切り落とした。


 痛みで叫ぶ幻妖。そこに追い討ちをかける夜久。身体を前宙させそのまま斧で右腕を落としたのだ。


 よろける幻妖に夜久は足を踏み込み、懐へと勢いよく滑り込む。次こそ首を落とそうと地面と平行して斧を振った。


 ──捉えた。


 夜久は幻妖の首に近づく斧の刃を見て思った。




 ゴスッ。



 左側から来た何かがぶつかってきた。軽々しく夜久は吹き飛ばされる。そして、そのままコンクリートの壁へと打ち付けられた。

 まるで車と衝突したかのようだった。



「ッウグ」


 あまりの衝撃に立つ事も出来ず倒れ込む。口の中で鉄の味がした。


「夜久!」


 立川は駆け寄ろうとするが夜久を吹き飛ばした何かによって巻き上がった砂煙が晴れるとその足は止まった。


 誰かがいる。


 夜久と尻尾の幻妖以外にもう一人。いや、もう一体だ。


 そこには尻尾の幻妖に頭を食いちぎられた女が立っていた。


 間違いない。パジャマを剥ぎ取られ、下着姿になっていたあの女の身体だ。しかし、首から上は世にも恐ろしい形に変化している。

 頭があったはずの場所には一本の腕が生えており、その手のひらに目と口がついている。


「──空になった身体はやがて……暴走し出し全くの別人として活動し出す……」


 立川は夏田から言われた幻妖に関してわかっている事を思い出すように小さく呟いた。


「その一……幻妖は繁殖する」


 そして、それは今目の前で起こった。実際にあの女が幻妖になったという事だ。


 女の幻妖の出現により、夜久に重傷を負わされた尻尾の幻妖はどこかへ逃げていった。


 それに対し女の幻妖は夜久に突進してからその場でピタリと止まって動かない。

 もしかしたら、そのまま動かずにいるのではと立川は夜久の元へと警戒しつつ駆け寄る。


 意識はあるが、痛みで動けないようだ。


「……っく」


 喋る事すら辛そうだ。とにかく今は無理に動かさずにこの状態を維持するのが賢明だろうと判断する。


 もう一度振り返り女の幻妖を見た。


 はずだったが、女の幻妖はいない。


 いたはずの場所には低く舞い上がっている少量の砂煙だけが残っていた。


 そして、左側の腰に大きな衝撃が走る。まるで先ほどの夜久のように身体は吹き飛ばされた。


 身体は七メートルほど転がる。急いで体勢を整え、女の方を見たが、またも女はこちらを見つめるだけで二度目の攻撃を仕掛けて来ない。


 これはチャンスだ。女は急な突進や走行にはオーバーヒートが付き物。つまり、激しく素早い動きをした後ではしばらく動けなくなるという反作用があるのだろう。立川はそう推測した。


 そうなれば女は絶好の的。頭と同じ役割を果たしている首から生えた腕を射抜けば行動不能に出来る。

 立川は女を見つめ、警戒しながら矢筒に手を入れようと腰を触る。が、そこには矢筒が無かった。


 立川は腰を見て目でも探してみるがやはり無い。


 矢筒は女の立っている足元に落ちている。しかも、粉々に壊れて中に入っていた矢はバラバラに散らばっていた。


 事前に具現化で作った矢は戦闘中にわざわざ具現化する時間を短縮する目的で作ってある。しかも、緊迫した場面になればなるほど集中力は無くなり、具現化に時間がかかる。


「でも……今なら……」


 立川はスッと右手を上げ、具現化を始める。矢が一本でもあればこちらのものだ。

 例の如く塵が手元に集まってきた。敵を前にして具現化を試みるのは初めてではあったが順調に創造できている。


 あとものの数秒あれば矢ができる。そう思った矢先に女の幻妖はフラッとよろける様にして動き出した。


 それを見た立川は一気に注意散漫し、象っていた塵も拡散していってしまう。


 ──はやく、はやく、はやく、はやく


 恐怖と緊張で焦れば焦るほど塵は手から離れていく。ついには全ての塵が空気へと溶け込んでいってしまった。


 ここまで来ると、もうどうしようもない。


 具現化は諦め、別の策を練ようとする。が、女は少しずつペースを上げて、またあのとてつもない速さでジグザグに迫ってきた。


 右……左……右……だめだ。見た事もない走り方と緩急のつけたスピードに立川の目は追いつかない。


 間を作るために後ろへと下がりたいが動けない夜久の事を考えるとこれ以上距離を空けるのは危険。


 仕方ない。


 立川は意を決して走り出した。


 真っ直ぐジグザグに駆ける女に向かって。


 距離はどんどん近づく。どんどん近づく。どんどん。どんどん。

 そして、女は空中殺法の如く乱舞しながら予測できない動きをしてきた。


 女の繰り出す無数の殴打技が顔面に直撃する寸前、立川はスライディングし、女の攻撃をすり抜けた。


 再び走り出し、矢筒の破片と矢に目掛けて全力疾走する。


「僕だってスピードには自信あんだよ!」


 落ちている矢を一本拾い上げて女の方に狙いを定める。

 女は動きをやめずにその勢いを利用して方向転換してきた。


 速さに回転が加わり、さらに加速する女は五本目の腕でハンドスプリングするように地から跳ね上がった。


 ──今だ。


 立川は構えた弓から矢を放つ。


 矢はヘソ辺りを貫き、女の勢いを殺した。


 立川のすぐ手前で背から落ちた女は痛みで激しく身体をジタバタさせ出した。


 やがて女は動かなくなった。


「すみません。──助けれなくて」


 立川はもう動かない女に頭を下げてから夜久の元に歩み寄った。

 自力で壁に寄りかかり座っていた夜久は涙を流しながらあばらを押さえている。


「──痛むか?」


「……えぇ」


 霞む声に夜久の痛みは伝わってくる。


「誰か助けて呼ぼうか? ずっとここにいても困るだろ?」


 小さく頷いた夜久はギリギリといった感じだった。息をするのも辛そうだ。

 早いとこ本部に戻って、監視をしている加賀爪に助けてもらわなくちゃ。


 とりあえずここを離れる事を伝えようと夜久を顔を見た。

 夜久は青ざめた顔で立川を見ている。身体を震わせながらおぞましいものでも見ているように怯えている。

 変だと思い夜久の顔を覗き込んだ立川は気づいた。


 夜久は自分を見ているのではない。


 その背後にある何かを見ている。


 立川が振り返るとそこには先ほどまで倒れていた女の幻妖が立っていた。


「……死んだんじゃなかったのかよ」


 そう言った時、胸に激痛が走る。


 矢が刺さっていた。女に向かって放った矢で逆に刺されたのだ。


「──ッンガ」


 痛みで膝から崩れ落ちる。刺さった矢を触るが少しでも矢が揺れる度に脳に激痛の信号が送られていた。


 女は両手で立川を掴み上げる。増幅した筋肉で肌がはち切れていた。


 そして、五本目の目と口のある腕が腹まで近づき食い始めた。

 皮膚を食い引きちぎられる感覚で立川はもがき苦しむ。


 ──痛い痛い痛い痛い。死んだ方がマシだ。死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。


 涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら声にならない声を上げる。


 女の咀嚼する音が嫌でも聞こえてくる。その内痛みも感じ無くなり、麻痺してきた。


 手も足ももはや動く気配すらない。だんだんと力が抜けていき、抵抗する事が出来なくなってくる。


 すると、それは突然起きた。


 いよいよ内臓を食い荒らそうと女がした時、急に動きが止まり、なんの前触れもなく五本目の腕である頭がスッと首から落ちたのだ。


 そして、女と立川は共に地に倒れ込んだ。


 朦朧とする意識の中、立川は何が起こったのか顔を上げる。


 そこには茂木が立っていた。


「すまな……君たちは……よく……ってくれた……とりあえ……楽になっ……」


 茂木は何かを話していたが耳に入ってくる音が全て篭っていて上手く聞き取れない。


 だが、片手に夜久の斧が握られているのは見えた。


 そして、もう片方には拳銃を握っている。


 それを夜久に向けて発射した。


 次にこちらに近づいてくる。立川に銃を突きつけ、茂木は引き金を引いた。

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