第一章 3 『試験』
「──シ……シケン?」
なぜか片言で立川は聞く。しかし、夏田の表情は凛として変わらない。聞き間違いではないようだ。
経験上「シケン」という言葉はあまり良くない事だと立川は知っている。そのため、その言葉を聞く度にうろたえてしまう。
何か面倒な事になるんではないかと。特に今回に至っては常識では有り得ない状況下での試験だ。良いはずがない。
うろたえ、目を泳がせている立川に夏田は鼻から息を多く吸い、少しだけ大きな声を出す。
「しかし、その前にやっておきたい事が」
そう言いながら夏田は朝にやって見せたように手を前に突き出した。
「具現化の練習しなくちゃね」
「具現化って……朝にやったあの塵みたいなのを物体に変えるやつの事か」
立川は自分の手のひらを見る。果たして、そんな簡単にできるのか。いや、夏田は今朝に立川は集中力さえあれば出来ると言った。きっと出来る。頭の中で自分を鼓舞する。
──俺なら出来る。俺なら出来る。
そして、今朝やったように手を前に突き出し、想像する。全てを。まるで今それが手の中にあるかのように。
手が少し下がるくらいの重さ、滑らかな手触り、ひんやりと冷たく、細くて硬い。全てを頭に描く。隅々まで。
今まで何度も何度も何度も何度も握ってきたそれを出すために、自らの血肉に染み込んだ記憶を呼び起こす。
──すると、今朝にも出来たように塵が渦となって手に集まり出した。だが、今朝はここで失敗した。成功したと集中を緩めると途端に消えてしまう。次はそうはいかないと顔色を変えない。ここで満足してやるかと。塵が形を変えるのを睨む。
そして、その塵は自分の描いた物体となった。息を止めていた事にも気づかなかった立川は息を切らしながらそれを見つめる。夏田も驚きながらそれを見ている。
「──あなた……ここに来るまでに練習したの?」
夏田は少し動揺しながらも真剣な顔で聞いてきた。
「いや、今朝以来やってないよ。だから二回目かな」
それを聞き、夏田は感心したように口角を上げて頷く。
「へぇ〜。──いい矢ね」
夏田は駅の構内へと歩き出した。立川も後を追うようについていく。
いつも使っている駅なのだが、やはり誰もいない事に違和感しか無かった。登校時は人でごった返し、帰ってくると疎らにだがみんな揃って家路へと向かっていく。
そんな光景があった駅も今やがらんと空いている。
夏田は当たり前だが切符を購入する事なく、改札口を飛んで越えていった。立川はまさか自分がキセル乗車をする日が来るとは思ってもいなかった。
いや待て。電車は動くのか。そもそもこの世界では電気や水道は通っているのか。
だが、その考えは階段でホームへ下っている時に消えた。
電車がドアを開けて待っている。しかも、窓が結露している事から車内には熱気がこもっているのが分かる。
夏田に続いてドアを潜ると待っていたかのようにドアが閉じた。そして、なんの合図も無いまま電車は動き出した。
夏田は席に座り、目線で立川にも座るように促す。立川は夏田と人二人分のスペースを空けて座った。窓の結露を服の袖で拭き、外を眺めるといつも通りの景色が広がっていた。住宅街の数多なる屋根が次々と夕陽の光を反射しては光を失っていった。別世界なんて嘘のようだった。
「どこへ向かうの?」
立川は隣に置いていた弓を脚の間で挟むように持ち直しながら聞いた。
夏田も外の景色に見惚れているのか答えるまでに少し間があった。
「目的地よ。行こうとする場所で止まる」
不思議な気分になる。電車内は電車が揺れる音と自分たちの声しか聞こえない。どれだけ小さな声で喋ろうとも声は聞こえる。鼓動の音さえも聞こえてしまう程に静かだった。
「試験って? 具体的には何するの?」
「──直にわかるわ」
またも答えるまでには間が空いていた。
「じゃあなんで電車は動くんだ? 電気は通ってるの?」
「それも直にわかる」
次は間を空けることなく答えられた。立川は夏田の方を見る。
窓を眺める夏田の顔はどこか切なくどこか憤りを感じているようだった。そして何より、美しかった。
夕陽の光よりも眩しく光るその横顔を立川はそれ以上見れなかった。
──電車が駅で停まる。開いたドアから夏田が下りていった。同じく立川も下りる。駅の左右を見渡すが、そこは今までで一度も下りたことのない駅だった。
そんな事を尻目に夏田は先々とホームの階段を上っていく。
二人が階段を上り終わり改札の方へ向かうと改札口の奥には誰かが立っていた。三十代後半ほどの男だ。年の割には髪の毛は長く伸びており、後ろで括ってある。真っ黒な服装に軍隊のような防弾チョッキを着用し、さらには背中にマントを着けている。
その男を見ただけで立川は全身に冷や汗をかいた。あの左脚を切ったスーツ男と同じような怪物かもしれないと思ったからだ。
しかし、違った。どうやら夏田の知り合いらしく仲良さそうに手を振っている。
「茂木さん!」
夏田は今まで見た中で一番の笑みでその男に改札口を飛び越え、走り寄って行った。茂木と呼ばれる男も笑顔で夏田を迎える。
「凛花。無事で良かった。彼だね」
茂木は改札口を跨いでいる立川を目で指し、夏田に尋ねる。
「はい。彼が報告をした立川 響矢くんです」
「こんにちは。立川くん。茂木 黒雄だ」
「立川 響矢です」
茂木に差し出された右手に握手をしながら立川は力無く答える。
「──あの……試験と聞いて来たのですが、何をするんですか?」
立川は茂木に恐る恐る聞く。すると、茂木は少し微笑みながら立川と肩を組むようにして歩きながら話し出した。
「君にこれからやってもらうのは狩りだ。君が戦うにふさわしい男かどうかを試すためのね。凛花から聞いたのだが、君はここに初めて来た時に会っているのだろ? あの化け物たちに」
立川は想像よりも酷い試験内容に顔を上げ、茂木を不安気に見る。しかし、茂木は微笑みながら説明を続けた。
「その化け物たちの一体。一体だけでいい。君一人の力で倒すんだ。──"具現器"はあるな? それを使いなさい。きっと君の力になる。具現化は?」
そう言いながら茂木は確かめる様に夏田を見る。夏田は何も言わずに頷く。
「じゃあ問題無いな。後は君の頑張り次第だ。いいか立川くん。我々は君が死に直面しても助ける事は無い。それだけは重々承知してくれ」
話を聞くのと心の整理をするのに夢中で周りに集中していなかった立川は、いつの間にか茂木たちとフェンスを隔てて立っていた。
そして、茂木と夏田はフェンス先の奥へと姿を消していく。立川はハッとしたようにフェンスに縋った。
「立川くん。──幸運を祈る」
「茂木さん! 夏田! 待って。無理だよ……無理だって!」
しかし、その声は二人には届かない。いや、確実に届いているのだが聞こえないフリをしている。
これじゃ生殺しだ。立川はなにか信じていたものに騙されたような気分になり胸が締め付けられた。
あの化け物を倒す? 自分一人の力で? 助けてくれない? まだこの世界についてわからない事だらけで戦う術もほとんどない立川にとってこの試験は地獄だった。
フェンスにかけていた指をゆっくりと解き、膝から崩れ落ちる。普通の夢ならここまで恐怖しない。
しかし、立川はすでに脚を切断された経験がある。あの痛みは本物だと知っている。
あの時、脚をスーツ男に切断されてから目を覚ますまで、およそ二十秒ほどしか経っていなかったのに二十分ほどに感じた。それほど苦しみは強く記憶に残っていた。
もしかしたら次は右腕かもしれない。左腕かもしれない。胴体かもしれない。頭かもしれない。
想像するだけで気持ち悪くなり、立川はその場で嘔吐をしてしまう。
まだ死ぬと決定した訳ではないのに心は既に死にかけていた。
ふと手に持っていた弓と電車に乗る前に作った一本の矢を見る。
それからスーツ男が頭を切断されて動かなくなった場面を思い出す。
血の滲むような練習の日々。
的を射抜く矢の音。
全てが断片的に頭をよぎっていく。
「──頭……頭を狙えば……もしかしたら」
立川は脂ぎった眼光を漂わせながらフェンスの奥を見た。
「見てろよ。全国間近まで行った奴の実力見せてやる」
袖で汚れた口元を拭いながら立ち上がり、走り出した。
化け物を探すため。
「茂木さん。本当に立川くんを見捨てるんですか?」
茂木と夏田は周りを一望できるほどのビルの屋上で立川が走る様を見ていた。
「いいや、見捨てる訳がない。もちろん彼が死にそうになれば助ける。その手立ては既にしてある。君もそれは知っているだろう。──これに勝てば守る側。負ければ守られる側になる。彼にとってどっちが幸せか。私には分かる気がする」
茂木は空を仰いだ。
そろそろ出現してもいい頃合いだ。弓と矢を片手で持ちながら走り続けるのはかなり体力を消耗する。駅周辺を一通り探し終えてから住宅街に入り込んだが一向に化け物がいる気配がない。
立川は一度立ち止まり膝に手をつき息を整えた。
「──クソッ……全然……いないじゃん……」
切れる息に言葉が所々断たれる。少し闇雲に走り過ぎたと思い、ここからは歩きながら探す事にした。空がすっかりと暗くなっている事もあり、住宅街の雰囲気は随分と暗くなっていた。
気づけば、住宅街の電灯は一切ついていない。
──ガシャンガシャン
住宅街のどこからか音がした。何か金属類の物が床に落ちる音だ。
いる。ほぼ絶対に化け物の仕業だと踏んだ。
立川は早歩きで音のした家へと近づいていった。
音がしたと思われる家を見つけるとその家の前で立川は立ち止まった。
そこの家はこの住宅街の家と変わらず特徴など無かった。一つを除いては。
窓が割れている。そして、窓の向こうの暗闇からは先ほど聞いた金属類の音が鳴り響いていた。
そして、その家の窓からはおぞましい生き物がゆっくりと出てきた。歩く度に地響きがするほどに重々しく近づいてくる。
立川はそれを見た瞬間、心臓が破裂するほどに鼓動が強まるのを感じた。
身体は車一台分くらいの大きさになっており、蛙のように四足歩行をしている。
身体の所々がデコボコとしており、頭は普通の人間の四倍程に肥大していた。
目は常に白目を剥いており、どこを見ているのかも目線からは読めなかった。
だが、間違いなく元は人間だった事がわかる。
「あれは……」
目を細め、それをビルの屋上から見ていた茂木も思わず小さい声を漏らしてしまう。
立川は持っている弓と矢で頭を射抜こうと構えるが、ここまで来てやはり恐怖が湧き出て来た。走っていた頃の勇ましさは消え失せ、今や手は震え、狙いがろくに定まらないでいる。
息は短くなり、汗をかく。瞳孔は開き無駄な筋肉に力が入っていた。
まるでいつかの立川が無名選手として優勝候補選手と戦った時以来だ。
ここで立川は三島の言葉を思い出す。
アーチェリー全国大会を懸けた試合の前日。三島と二人でカツ丼を食べに行った時だ。
立川は前日から緊張していて食べ物が喉に通らなかった。
そんな立川を見兼ねて、ほっぺをリスみたいに詰め込んだ三島が背中を叩いて言った。
「深呼吸、深呼吸。深呼吸したら大体の事は上手くいく」
深呼吸をすれば大体の事は上手くいく。ガバガバな理論でいつもの立川なら突っ込むようなセリフだったが、それは結果的に心の支えとなっていた。
深呼吸。深呼吸。
上手くいく。上手くいく。
絶対に命中する。命中する。
心の中で念じ続けた。繰り返し繰り返し同じ事を。大きく息を吸い、身体中の隅々までに酸素が行き渡らさせる。そして、ゆっくりと吐く。
身体の力を抜き、必要な筋肉のみに集中させる。
ただ、その四足歩行の化け物もずっと待ってくれる訳がない。
常に笑ったような顔を浮かべている化け物は、少しずつこちらに近づいてきた。
「ナトらとや……サタらアるアハ……ナべやカん」
スーツ男と同じような意味のわからない言葉をブツブツ呟いている。
一歩一歩と確実に近づいてくる化け物に立川は食らわす。たった一つの勝ち筋を。
勢いよく手から離れた矢は化け物の頭に目掛けて飛んでいく。
幸運な事にこの化け物の頭は肥大しているので的が大きかった。
外す訳がない。
──パキンッ
勢いよく放った矢は宙を舞う。
一瞬何が起こったかわからなかった。
立川は弓を構えた状態で硬直してしまう。化け物の頭を捉えた希望の矢はそのまま弾かれ無残にも折れてしまったのだ。
頭を貫けなかった。なんでだ。化け物の頭が予想以上の硬さで矢を弾き返したという事か。
予想外の展開に夏田も驚きを隠せなかった。
「なんで……なんで頭を貫けなかったんですか」
夏田は隣の茂木に聞く。
「あれは……あれは立川くんにとっては厄介な部類の敵だな。おそらく家の中や店先にある鍋やフライパンといった金属類を身体に取り込んで巨大化していっているんだろう……。急所である頭には特に詰め込んでいる。重くなり過ぎた体重に耐えきれず四足歩行になってしまっているみたいだ。今まで相当の量を取り込んで来たらしい」
それを聞いた夏田は心配気に小さく見える立川を見つめた。
「立川くん──」
「──まさに、"鍋男"と言った感じかな。──さあ、どうする。立川 響矢よ」
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