第一章 2 『この世界』
「ちょっと響矢! 起きて」
聞き覚えのある声が聞こえてくる。目を開けるとそこには見慣れた天井と律子がいた。そして、立川は思い出す。あの強烈な体験を。
勢いよく身体を起こし、左足を見る。そこには左足はあった。もちろん自分の身体の一部としてだ。
安堵したかのようにため息を吐く立川に律子は首を傾げる。
「何してるの? さっきからご飯できたって言ってるのにずっと寝てるから心配して部屋に来たら。──変な子ね」
そう言い残し部屋のドアを閉めて階段を下りて行った。
立川は信じられなかった。あんなリアルな体験が夢だったなんて。
しかし、あのスーツ男に切断されたはずの左足は何事もなかったかのように身体にくっついている。
きっと悪い夢でも見たんだ。頬を両手で叩き自分にそう言い聞かせて、ベッドから立ち上がり部屋を後にする。
食卓に行くとあれは悪い夢なのだという確証が強まった。無かったはずの時計がちゃんと壁に掛かっているからだ。その時計は刻々と時間を刻んでいる。 安心しきったようにイスに腰掛け、テーブルの上にある大好物の唐揚げを貪る。
緊張と緩和でエネルギーを使い果たしていた立川にとって絶品の食事となった。
「──ふぅ〜。食った食った」
立川は空になった皿をシンクへ置き、 水を流しながら時計を見た。短針は十の文字を指している。
先ほどまで寝ていたせいか眠気も無い。部屋に戻ってから何もすることがないので横になりながらボーッとしていると夢の中で見た弓の事を思い出す。
久しぶりに握った弓はやはり憎くて嫌悪し、それでいてほんの少し懐かしい感覚になったのを思い出す。
そう思い、足元にあるクローゼットを見つめていた。 クローゼットの中にはアーチェリーで使った道具が詰め込まれている。
アーチェリーの事を考えるのも嫌だった立川がこんなにアーチェリーを思う日は実に久々だった。
しかし、それでも立川はアーチェリーを良くは思わなかった。そして、また考えるのをやめようと誓いテレビのリモコンを手にした。
※※※※※
翌朝。結局あれから一睡も出来なかった立川はいつもの通学路をトロトロと歩いている。仮眠したとはいえ、一睡もしなかったのは厳しかったようで学校に着くまでに欠伸を十回以上もしていた。
教室に入り、自分の席でマフラーと手袋を外し、机にへばりつくようにしてイスに座った。
目蓋を閉じると、すぐに眠気が来た。
そのまま眠ろうとした時、背中を小突かれた事で睡魔は去っていった。首だけで後ろを振り向くと小突いた主である三島がいた。
「よっ! ねぼ助! 課題やったか?」
三島は立川の正面にあるイスに腰掛けながら言った。
「ああ。やったよ」
立川は眠りを妨げられた事に多少の腹立ちを態度に出しながら言うと、三島は仏様を拝むように手を合わせ始めた。
「頼む! 見せてくれ! 俺昨日帰ってから課題学校に置きっぱなしなのに気付いて出来てねーんだよ。後生だから見せておくれよ」
「俺はどうせねぼ助だから寝るよ」
そう言いながら立川はまた机にへばりつき目蓋を閉じる。
「ねぼ助だから絶対もう寝たよな!? 起きんなよ!?」
三島は立川のカバンを漁り、課題である冊子をそのまま自身の席へと持っていった。
これもたまにある恒例の流れなので立川は何も言わずにそのまま目蓋を閉じ続ける。
そして、 立川は眠りについた。
──しばらくして立川は少々の唸り声を出しながら目を覚ました。半分も開いていない目蓋で教室を見ると、教室には立川ともう一人の生徒しかいない。状況が上手く呑めない立川はその二個前の席に座っているもう一人の生徒の後ろ姿を見つめていた。
その生徒は制服のスカートを履いている事と、 髪の毛は肩まで伸ばしている事から女生徒だと分かった。
そして、その女生徒はこちらを振り返った。その時、 立川は目を見開き、思わずイスから立ち上がる。
あの夢で見た刀を持った少女だ。どこかで見た気がした少女だ。立川はそれでも完璧には状況を呑みこめていない。
「あ、あんた……なんでここにいるんだ」
立川は恐怖なのかもよくわからない感情のままその少女に問い出す。
すると、少女も立ち上がり立川には目もくれず、教室をキョロキョロと見渡しながら近づいてくる。
「そりゃ、 同じクラスだからに決まってるでしょ」
近づいてくる少女に立川は一定の距離を保とうと後ろ歩きをする。
「クラス? 何の事だ……誰なんだ?」
それを聞き少女は教室を見渡すのをやめて立ち止まり、立川の方を興味なさげに見つめ出した。
「私も聞きたい。なんであんたもこっちに来れるの」
立川は少女の質問が全く理解できなかった。こっちに来れる? 夢ではないのかと立川も目だけで辺りを見渡してみる。
そして、彼女は再びこちらに近づいてきた。次は教室を見渡しながらではなく立川の方を見つめながらだ。 立川は変わらず下がり続けるが、教室の後ろに設置されているロッカーに当たり、これ以上下がれなくなる。
すると、少女は立川の手前まで来るなり急に方向転換をして窓側の一番後ろに設置してある掃除用具箱へと向かっていった。
掃除用具箱の前まで行った少女は立ち止まり、掃除用具箱を開けると中を確認するように見てから、また閉めた。
少女の奇妙な行動に立川も動けずただただ見ている。
次はロッカーを一つずつ端から順に開け出した。順に順に開けていき、半分前辺りまで開けた時、ロッカーの中から何かを取り出す。
細長い物体だ。立川は目を凝らし見てみるとそれ紛れもない刀だった。
「やっぱり、君はあの時の──」
「ええ。それであなたの"具現器"はどこ?」
「ぐ……ぐげん……いやその前にこれはどういう状況なんだ? 夢なのか? 現実なのか?」
聞き慣れない言葉に顔を歪ませながら立川は畳み掛けるように質問責めをする。
「待って。一つずつちゃんと説明するから聞いて。まずは私から言える初歩的な情報として……名前は"夏田 凛花"。あなたのクラスメイトよ」
「……え?」
立川はこの少女に既視感を覚えていた理由がわかった。四月から新しいクラスになってからこの八ヶ月間、彼女と同じクラスで生活していたからだ。
なぜ八ヶ月も同じ環境にいたのに気づかなかったんだと申し訳なさそうに額を中指で掻く立川を見て夏田は噴き出す。
「わからなくて当たり前よ。だって私ほとんどの授業寝てるから」
夏田が笑った顔を初めて見た立川は少し見入ってしまった。夏田の容姿はよく見ると良い。それに笑った顔はどこか愛らしかった。
「それでここの事を教えて欲しいのね?」
存分に笑った後に持っている刀と腰掛けを着用しながら聞いてくる夏田に立川はそれを物珍しそうに眺めながら頷いた。
「いいわ。ちょっと複雑で長いかもしれないけどついてきてね」
そう言って夏田は教室の窓を開けて外を眺めながらこの世界について語り出す。
「──ここは夢なのか。それとも現実なのか。あなたはどっちだと思う?」
「夢……か?」
「正解でもあり不正解でもあるわね。ここは夢だけど一つだけは現実。それは『命』。命だけは夢じゃない。ここで命を落とせば現実でも命を落とす。それ以外の土地、建物、乗り物、小物、細部に至っては現実を忠実に再現した模倣世界。
今あなたは学校のその席で眠ったと思うけど、ここは眠る事で一部の人間が来れる世界よ。
逆にこの世界から離脱したいのなら同じように眠りにつくか現実で起こされるしか手段はない。
そして、いくつか現実とは違う事がある。
一、こちらの世界では時計や時間を刻む物は消されている。
二、昼も夜も不定期的に来る。
三、物が腐る事はない。
四、もし実際に起きるよりも早くにこちらから離脱した場合はタイムラグができる。
例えば、現実で二十三時にアラームを仕掛けて二十一時に眠り、こちらの世界に来る。
そして、二十二時にこちらの世界で眠ったとしても現実で目が覚めるのはアラームの鳴る二十三時。
つまり、ただ眠る空白の時間ができる可能性もあるという事。
五、現実で変化した物があれば、不定期的に人知れずその変化はこちらにも影響する。
例えば、現実であなたの家が取り壊されるとする。そしたらこちらの世界でもいつかはあなたの家は人知れず無くなるって事。変化の過程はこちらの世界では認識できないからいつの間にか変化していたって感覚に陥るだけ。
もっとわかりやすく言うと、携帯の電源を消して、次に電源を入れた頃にはアップデートが済んでるって感覚かな。認識しようのない変化が不定期的に来る。
ってな感じかな。ここまで聞いてわからない事ある?」
正直さっぱりだった。一気に膨大な量の情報を与えられても処理しきれない。必死に理解しようと聞いていたが一度わからない事があればそこからの話は全く入ってこなかった。
「ご……ごめん。あんまわかんなかったかな」
立川は苦笑いしながら答える。夏田は呆れた様子でも無くそれもわかっていたかのようだ。
「まあまだこの世界の全てを話した訳じゃないから徐々に把握していけばいいわ。確かに急に言葉で説明されても呑みこめないと思うから身体で違いを感じてもらうしかないわね」
その言葉にドキッとした立川は今から何をするんだと鼓動を早める。
すると、夏田は手のひらを下に向けるようにして力を抜いた状態で前に突き出した。そして、目を閉じる。しばらく沈黙が流れる。
「──グゲン」
夏田がその言葉を呟くと同時に手には塵のような物が吸い付くように集まり出した。やがてその塵は形になっていき一本の竹刀となった。
現実離れした目の前の現象に立川は信じられないと息をするのも忘れてただ見ていた。
「これはこちらの世界ではできる事。これが出来ればあなたもこちらの世界にいるって体感できるでしょ? ちょっとやってみて」
「え、できるの?」
「まあ、練習が必要な場合もあるけど小さい物で手に馴染んでる物なら簡単なはずよ。いい? 大事なのは想像力と集中力。質量、感触、温度、形、硬度、色、全てにおいて想像出来て初めて具現化は完成する。深呼吸をして頭に浮かべるのがコツよ。やってみて」
急にやれと言われてもできる気はしなかったが、立川は言われた通りに深呼吸をする。三度深呼吸をしてから目を瞑り、想像する。手に馴染んでおり、具現化するのにもってこいな物を。
右手を前に突き出し、それを手に入れる準備を整える。
そして、心の中で唱えた。出ろ、出ろ、出ろ、と。
唱え初めて一分が経った頃、手の周りに夏田が出したような塵が渦を巻きながら現れた。
いける。立川は具現化の成功を確信する。しかし、その瞬間に渦を巻いていた塵は少しずつ空気に溶け込んでいく。そして、姿を消した。
「今、成功したって思ったでしょ?」
夏田に図星を突かれ、あからさまに驚いてしまう。
「想像力は悪くない。むしろいい線よ。初めてであそこまで具現させるのは難しいことなの。でも集中力はまだまだね。一度、具現化をしようとしたら無心にならなきゃいけないの。それには集中力が必要なんだけどまだあなたにはそれができないみたいね」
いきなりの批評に立川はまたも苦笑いを浮かべるしかなかった。
「それじゃ一旦ここでお別れをしましょう。この世界を身体で感じる最後の手段を試してからね。眠る前に報告よ。──今日の夜、現実世界での零時に眠る事ができればこちらの世界から具現器を持って駅に行って。いい? 忘れないで」
立川は彼女が言った事を頭の中で繰り返し反復したが半分は言っている事の意味がわからなかった。
すると、夏田は腰掛けに入れてある鞘から刀を抜き取る。立川は夏田が自分を刺すんではないかと思い、ジリジリ近づいてくる夏田に対して身体を向けたまま廊下に出た。 夏田は呆れたようにため息を出す。
ゆっくりと大きく振り上げられた刀は廊下の窓から漏れる光を浴びて煌めいた。
そして次の瞬間、立川は夏田の姿が見えなくなった。いや、夏田は立川の視線を刀に誘導しそのまま懐に入り込んだのだ。
そして、そのままこめかみを柄で突かれ立川は意識を失った。
──頭を冊子で叩かれる。立川は目を覚ました。
勢いよくべばりついていた机から離れ、辺りを見ると教室には生徒が談笑したり立川と同じように机にへばりつくように寝る者などいつも通りの教室の風景があった。
「おーい。本当に大丈夫か?」
三島は先ほど貸した冊子を持ちながら立っている。
「え、もういいの?」
立川は寝起きとは思えないほどハキハキとした口調で聞いた。
「そりゃ二十分も借りてりゃ流石の俺でも課題写し終わるっつーの」
二十分? せいぜいあちらの世界にいたのは十分程だ。
夏田がいると思われる二個前の席を見ると確かにその席には夏田と思われる女生徒が同じように机にへばりつくようにして眠っている。
そして、立川は言われた事を忘れる前に頭の中で反復する。
「今日の零時、眠ってから駅に向かう」と。
※※※※※
約束の零時を過ぎた頃、 立川は自宅のベッドで横になり、それから十五分が経ってからやっと眠る事ができた。
やはり目を覚ますと例の不思議な世界にいる。とりあえず、外に出るために服を着替え部屋のドアを開ける。すると、そこにはあの黒い弓が置いてあった。
そういえば最初にこの世界へ来た時もあったとその時思い出す。これが夏田の言っていた具現器なのか。
他に具現器と言われても何かがわからないので、とりあえず当てずっぽうでこの弓を持って行く事にした。
夕暮れ時で気温はまだ暖かかった。確かに、夏田の言う通りだ。眠ったのは深夜の零時なのに対して、 こちらは午後五時辺り。揺れる弓をカゴから出ない様に抑えながら駅まで自転車を漕ぐ。
五分後、駅とその前にいる夏田らしき人物が見えてきた。
駅に着き誰もいない広場の真ん中で自転車のスタンドを上げ、夏田の下へ駆け寄る。
「よっ。──そういえば"グゲンキ"ってのがよくわからなかったけどこれでいいんだよな?」
「ええ。それよ」
夏田は浅く腰をかけていたベンチから立ち上がりながら言った。そして、その腰には朝に見た刀が掛けてあった。
「そういえば朝の凄かったな。あれはかなり……痛かった」
立川はそう言いながら殴られたこめかみを摩る。
「刀に集中させてから懐に入る。簡単な意識操作ね」
夏田は刀の柄をまるで我が子かのように撫でながら、 少し微笑む。
「初見殺しってやつだな」
同じく微笑む立川に次は鋭い眼差しで見つめ始めた。
「今日ここに来てもらった理由は一つだけ」
空気が変わった事を立川は感じ取る。生唾を呑み、何が始まるんだと弓を強く握りしめた。
「今日ここに来てもらったのは外でもない…………試験をするためよ」
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