第7話 火の車(下)
炎がそこまで来ている。
そう言われた時男は、そうかと思った。
これは夢だ、と。
猫が人語を話し、『燃える牛車が君の妻を迎えに来ているから、君も来なさい。』と言うのだから。
これは夢だろう。
猫は酷く厳粛な声で、
『大切なものを持って来なさい。』
と言う。
男はふらつきながら立ち上がり、腕の中に大切なものを仕舞いこんだ。
ゆっくりと歩き出す。
猫の先導に続くのは奇妙な気持ちだ、と男は思った。
夢とはいえ。
『さて、燃える牛車と聞いて君は何か思いつくだろうか。』
夢の猫は、歩きながら矢張り厳粛な声で話した。
「俺……、いや、分かりませんが」
男はしどろもどろに答えた。
男は卑屈になっている。
もうずっと、卑屈な心を抱えて生きている。
娘が強盗に殺されてからずっとだ。
ずっとこの卑屈な心が続くのだ。生きている限りずっと。
苦しむ妻に寄り添うには男は事件に対して蚊帳の外だった。
だって。
だって妻は。
そこまで考えて男は頭を振った。
そう、男は蚊帳の外だ。
男にとって妻の苦しみは想像を絶している。
死んだ娘の苦しみも想像しきれない。男だから。生きているから。
同じ苦しみを苦しめない。
その癖、突き上げてくる哀しみだけは一人前に持ち合わせているのだ。
男はまた、腕の中のものを大切に抱え直した。
『小説や、映画、伝承、そういうものでいいのだが。何も思いつかないか?』
猫が矢張り厳粛に問いかけてくる。
燃える牛車の話だった、と男は思い出す。
「小説?……いや俺は何も」
『そうか。君は芥川を読まないのだな。宇治拾遺物語も。葬儀に纏わる伝承の方も期待薄だろう。君の年齢ではな。』
男は何を言われているのか分からなかった。
猫のずんぐりとした図体を眺める。
男が眺めていると、猫はついと男を振り返った。
そして、
『燃える牛車は地獄からの迎え。まあ、そういうことでいい。』
と静かに言った。
「地獄?」
男は猫の言葉を無意味に繰り返した。
『地獄が君の妻を迎えに来ているのだ。』
「……。え?」
猫は疑問符以外口に出せない男をまた振り返った。
『そう。地獄だ』
淡々と言う。
「地獄?なぜ地獄が妻を?それに、地獄なんて……ないでしょう。」
そもそも地獄とは、宗教者が作り出した方便の一つだと男は解釈していた。
この世の不釣り合いを平らにするための死後という説話。
猫はふむ、とだけ言った。
『確か君たちは無邪気に天国と地獄の実在を信じているように思っていたがね。』
「……そりゃ昔の人の話でしょう。地獄なんて宗教者が作り出した説話ですよ。」
この猫は一体いつの時代のことを話しているのだろうか、と男は思った。
この猫はいつから生きているのだろう。
ずっと昔から?まさか。
『……そうか。』
猫は静かに頷いた。
『説話……方便のようなものと解釈しているのかな。そういうのが今の流行りか?』
「流行り……というか、それが真実でしょう。死ねば無になり、地獄も天国もない。」
『ふむ』
猫は数瞬沈黙した。
そして、ただ粛々と
『流行りだ。それはただの、流行りに過ぎない。』
とだけ言った。
『見なさい。』
猫が頭を向けた方向から、炎の気配が強く漂ってきた。
「火事?」
妻が。
確かに妻が炎の前に立っている。
男は妻の名を呼んだ。
しかし後ろ姿の妻は振り返らない。
男は矢張り自分は蚊帳の外だと思った。
だとしても。
蚊帳の外だとしても……(確かに炎を上げる牛車)……その前に立ち尽くす妻を放置する訳にはいかない。
夢とはいえ。
しかし……。
男は酷く混乱する。
夢だろうか。
本当に?こんな現実そのもののような……。
男は、かいぶつ、と口の中で呟いた。
現実そのもののような怪物がそこにいた。
炎を上げる牛車を怪物が牽いている。
牛の頭をしている癖に筋骨隆々の人間の体を持つ怪物。
怪物はもう一体いる。
牛車の後ろにいる怪物は馬の頭をしていた。
『怪物を見るのは初めてか?割とよくいる。』
男は訳の分からないことを言う猫を無視して、また妻の名を呼んだ。
妻は振り返らない。
猫は男をしんと見つめた。
哀しそうに俯く。
『君の妻はあれに乗っていこうとしている。』
猫の言葉に、男は仰天した。
「は?」
掠れた声で猫の言葉を繰り返す。
「い、いや、止めますよ。妻が怪物に」
狼狽する男に、猫は粛々と首を振った。
『それは無理だろう。彼女はすべてを理解している。』
「理解?」
『彼女は娘を見殺しにしたと思っている。娘を殺したのは自分だとすら。』
「それは違う!」
男は絶叫した。
「俺の妻は娘を見殺しになんてしてない!」
あまりにも大きな声で叫んだせいか、妻が漸く夫を振り返った。
炎の前にいる男の妻は、なぜか酷く……美しかった。
美しく微笑んでいる。
男は暫時見とれた。
その見とれるほどの微笑に向かって男は言った。
「君はあのこを見殺しにしたんじゃない。そうじゃない。仕方なかった。」
(こんな母親がいるでしょうか)
「君は母親だから……どうしようもなかった。」
男は腕の中の大切なものを抱えこんだ。
「この子がいたから。」
くうくう眠る赤ん坊。
「君はこの子を抱いていた。この子が声をたてないように口を抑えていた。だからあのこを助けにいけなかった……いや、いや、違う。もしもこの子がいなかったとしても。怖くて助けにいけなかっただけだとしても、どうして君を責められる?」
男は人生で初めてという程必死に言い募った。
結婚しようと言った時よりも必死。
『母親だから、行くのだ。』
猫が哀しげに口を挟んでくる。
『実在しないという考えが今の流行りだとしても、別に事実は揺るがない。』
「なにがだ!」
男はイライラと叫んだ。
『ある。』
猫は淡々と言った。
『三途の川も地獄も……賽の河原も』
「さいの……。は?」
『ある。』
猫は矢張り淡々と続ける。
『君の娘はそこにいる。親より先に死んだから。』
「そ……?そんな無茶苦茶な」
『無限の石積みをしている。』
男は妻を見た。
妻は微笑んでいる。
「……」
男は矢張り蚊帳の外だと思った。
まさか。
「まさか、あのこが今いるところにいくのか?」
あまりにも。
あまりじゃないか。
妻は静かだ。
世界は静かだ。
こんなに荒唐無稽に、静かだ。
『厳密には地獄ではないが。牛頭鬼と馬頭鬼は連れていくだろう。』
男は呆然と妻を眺めた。
妻は静かだ。
あんなに苦しんでいたのに。
毎夜眠れないようだった。
気がふれたように家の中の物を壊している時もあった。
自分を殺そうとするのを何度も止めた。
彼女の頭の中の劇場で、何度も何度も上映されるのだそうだ。
娘が命と尊厳を奪われる場面が。
それしかない。
それしか思い出せない。
それが悲しくて、娘が恋しいと。
だが今、妻は静かだった。
猫がついと前に出て、妻の足元に寄り添った。
『私は通りすがりの猫だ。』
妻は屈みこみ、猫を撫でた。
猫は黙って撫でられている。
哀しげに撫でられている。
『貴女は黙って行くつもりだったようだが、夫には話していった方がいい。妻を失って苦しむ男を見てきたところでね。』
猫に言われた妻は、男を見た。
『しかし私は貴女には何もしてあげられないようだ。貴女の哀しみには誰も手を触れられない。』
妻は夫を見ている。
その手は静かに猫を撫でている。
そして、酷く美しい姿のまま、
「ごめんね」
と口元だけで言った。
そして男の妻は、怪物に連れられていってしまった。
あまりにも呆気ない別れだった。
残された男は崩れるように膝をついた。
あんまりじゃないか?
こんな、こんな話があるか?
「こんな酷い話があるか」
男は呪うように呟く。
「そんな話があるか。妻も娘も被害者だ。被害者がなぜそんなところにいかないといけないんだ」
『そう。かくりよはとても残酷なところだ。』
猫は男を哀しげに眺めている。
「娘が何をした。妻になんの罪がある。なにが無限の石積みだ」
男は絞りだすように呟く。
猫は頷いた。
『あそこは残酷な場所だ。だが、では君たち人間は残酷ではないか?君たち人間はまともな摂理で動いているか?』
「……」
『そう。哀しいかな、それは違う。』
猫は本当に哀しげだった。
『なにひとつ、まともな摂理で動いてはいない。』
男は涙を溢した。
『罪に罰が下されるとは限らず、君の妻子を虐げたような罪人はこの世を謳歌して楽に死ぬ。』
あまりに。
あまりな。
「……じゃあどうしろって?俺たちのような目に遭ったら自殺しろとでも?」
『そうではない。君の妻は自殺ではない。かくりよは誰の前にでも現れる訳ではない。同じ目に遭ってもあの牛車に遭わない場合もあるだろう。』
「なんでもかんでも……。強盗に目をつけられたのが不運だった?怪物牛車に遭ったのが不運だった?或いは幸運だった?どっちでもいいが、なんでもかんでも運で片付けられて諦めろと言われる方の身にもなれよ!」
『いいや。不運とは何に根差した考えだ?君の言っているのは人間の世界の摂理……かくりよにはかくりよの摂理があるが……。』
猫は一呼吸置いて、男をしんと見つめた。
『君の妻はすべての摂理から自由になった。すべての残酷な摂理をないものにした。娘に会いに行ったのだから。君の妻は自死ではない。あんなに美しかっただろう。彼女は摂理に勝ったんだ。』
「……。そんな話があるか!」
男は絶叫した。
「なら怪物牛車に遭わなかった……遭わなかった、この、俺は!どうしたらいいんだ!この苦しみから、この地獄から、どうすれば救われるんだ!」
『もう救われている。この世とかくりよ、そして君の心、すべては不可分に実在する。君の心の中にあるということは、現実にあるということと同じくらいに尊い。君の心の中には死んだ娘と行ってしまった妻がいるだろう。』
「そんな」
そんな話があるだろうか。
そんなことで諦めろというのだろうか。
猫は男の足元にすり寄り、腕の中の赤ん坊の頬に鼻を寄せた。
『祈ろう。この美しい赤子が善く生きられるように。』
男は嘆き、天を仰いだ。
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