第6話 火の車(中)
高校生になったばかりの娘は春休みでした。
彼女、若い娘らしく宵っ張りで。
代償に午前中は寝てばかりいました。
若い子なんてそんなもんでしょう?
わたしは午前中散歩に行くのが日課だったから、その日も娘を置いて家を出たんです。
ところがその日は、外を歩いている時にトラックに泥水を引っ掛けられてしまいまして。
前夜に雨が降っていたんです。
泥水でぐっしょりになりましたから、急いで家に戻りました。
裏口から入って汚れた服を着替えようと二階に上がったんです。
その時でした。
異変に気付いたのは。
階下から複数の男の声が聞こえました。
えっ?と思いました。
チャイムは鳴らなかった。
玄関は施錠した筈なのに。
複数聞こえてくる声の中のどれもが夫のものではなく、またどんな知己のものでもありませんでした。
それに、夫の筈がない。
夫であるなら、あんな音をさせる筈がない。
土足で床を歩き回るあんな音を。
わたしは震えました。
怯えて、ですがスマホは裏口に置いて来てしまって助けを呼ぶことも出来ません。
階下を覗くことは恐ろしくて出来ませんでした。
それで、退路が失くなるかもしれないと分かっていながら二階の奥の娘の部屋に飛び込みました。
部屋では娘が健やかに眠っていました。
それを見たわたしは、娘をベランダから逃がそうと思いました。
二階ではありましたが、飛び降りたところで死ぬような高さではなかったので……。
でも……そう、間に合いませんでした。
何をする間もなく、足音が階段を上がってきて。
ええ……怖かったです。
わたしは慌てふためいて娘を揺り起こしました。
娘は一瞬怪訝そうな声を漏らし、そしてわたしの方を見ました。
血相を変えているわたしを眺め、聞こえてくる乱暴な足音と男の声に、異常を察したようでした。
ええ、その……我が娘ながら頭のいい子でしたから。
万事に察しのいい子でした。
娘は「ベランダから飛び降りて!」と囁くわたしに「間に合わない!」と囁き返して……わたしを、クローゼットに押し込みました。
そして自身はベッドの下に隠れたのです。
そうです。それが間違いだった。
男たちは下調べをして来ていたからです。
そこに娘がいること、いつもはこの時間帯に娘が家に一人になることを知っていたのです。
わたしは娘をベランダから飛び降りさせるべきでした。
絶対に、そうするべきだった。
男たちは嗤いながらわざと時間を掛けて娘の部屋を荒らしました。
そして最後に娘をベッドの下から引きずり出し、順繰りに娘を犯しました。
そして、そして……。
娘の首を絞めて。……わたしの目の前で、わたしの娘を殺したのです。
わ、わたし、わたしは……。
クローゼットの隙間から、すべてを見ていました。
わたしはそこに居ました。
ずっと、そこに居たのです。
男たちは家中の金目のものと、娘の命と尊厳を奪って去っていきました。
憎い?男たちがですか?
そうですね……憎いことは憎いです。
ですがそれより、恐怖の方が強いです。
わたしは今でもあのクローゼットの中に居て、恐怖に立ち往生しているのです。
に、憎いといえば、わたしが憎いのは、……わたし自身です。
わたしは、母親であるのに、娘が……
娘があんな目に遭わされるのを……何も出来ずにただ見ていました。
こんな母親がいるでしょうか。
子供を救おうともしない母親がいるでしょうか?
わたしは人間ではありません。
わたしが娘を殺したようなものです。
だから……。
そうです。
最近毎日見るんです。
何をって?
火の車です。
あらゆる場所で見ます。
わたしにしか見えない。
気のせい?
幻?
精神科に?
まあ、それはそうでしょう。
ですが、幻ならそれでもいい。
あれを見ていると思い出します。
知りません?芥川龍之介の地獄変。
有名な小説です。
知らないなら読んでみて下さい。
あの主人公。
わたしもあの卑怯な男と同じです。
だからあの火の車が見えるんですよ。
地獄のような目に遇わされる娘を、ただ見ていただけの親ですから。
だから、あの火の車の中で焼かれるわたしが見えるんです。
火の車って元は、罪人を地獄の獄卒……ほら、牛や馬の頭をした……恐ろしい怪物……あれが迎えに来る車でしょう?
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