第5話 火の車(上)

なんとはなしに、地獄、と思った。


地獄を初めて見たのは娘の葬儀の後すぐのことだった。

夜半眠れず夫の隣を抜け出し、廊下に出た窓の外にそれは来ていた。

牽く者もないのにゆっくりとこちらに向かって来ている。

橙色の炎、たなびく黒煙、ギイギイと軋る音。……あれは、そう、牛車と言うのだった。

炎を上げる牛車がこちらに向かって来ている。

「……」

わたしは目をしばたいた。

あまりにも非現実的な光景だったから。

何かの撮影だろうか、こんな夜半に?

……周りに誰もいない。

誰かのイタズラだろうか、こんな突拍子もない?

……手が込みすぎている。

わたしは一番ありそうな正解を探したが、どう考えてみても自分が正気を失ったと考えるのが一番ありそうだった。

そして、くすりとした。

わたしは正気を失った。

娘が死んだから。

わたしが殺したから。

ふふふ。


娘は寝間着のまま死んだ。

白い腹や腿が覗いていた。

すべてが、すべての殺害が、終わった後、細く白い首筋には赤黒い指の痕がくっきりと残っていた。

わたしは膝をついて泣き叫んでいた。

そうすべてが終わった。

すべて、済んだことだった。

ふふふ。


それからは、それをよく見掛けるようになった。

例えば夕刻わたしは買い物帰り。

横を通り抜けていく学生が途切れ、通りが静まり返る一瞬。

それは現れる。

ギイギイと軋る音、たなびいてくる黒煙、熱の気配。

火の車。

それがゆっくりとこちらに向かって来る。

異様な匂い。

わたしはとある予感に囚われる。

あの中。

あの中で人間が燃やされている。

……娘だろうか。

そう思った途端、匂いが強くなった。

わたしは吐き気を覚えて膝をつきそうになる。

これがもし、娘が焼かれる匂いだとしたら。

実際の葬儀でも嗅がなかった、人が焼かれる生々しい匂い。

匂いに巻かれて、わたしは酷い目眩を覚える。

なのに、……わたしはパクパクと口を開け閉てして匂いを吸い込もうとする。

なんであれ、娘の匂いを嗅ぐことはもう出来ないから。

なんであれ、あのこの匂いを嗅ぎたかったから。

なんであれ、娘に関わりたかったから。

わたしは火の方へふらふらと近付く。

ふふふ。

匂いにえずきながら、わたしは火の車に近付く。

娘が。娘が。

わたしの娘が。

わたしの娘よ。

熱風に耐えながら覗き込むと。


……中で燃えていたのは、わたしだった。


「あ」


とても間抜けな声が出た。


「……なんだ、あのこじゃないのか。」


そう呟いて、わたしは酷く嘔吐した。

ふふふ。

いいや。

わたしなんて、燃えてしまえ。








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