陽炎の弟子/第六幕.ⅱ

 一方、その頃。


 狐を先頭にし、顔無に引っ張られるまま、日暮は深い闇をひた走る。

 大鬼神に張り倒された頬が痛むが、足を止めるわけにはいかない。

 草木の感触や道端に落ちている枝を踏みつける感触。灯りのない山道を走るのは自殺行為であることを日暮は知っている。

 だが、狐にはまったく迷いがない。この山に精通し、慣れ親しんでいるかのように。

 山道に慣れていない二人が歩きやすいような道を選び、顔無と日暮の歩幅と速度に合わせて、つかず離れず距離を保ち、進んでいる。

 先ほどの立ち回りといい、この狐が味方でなければ、脱出することはできなかっただろう。

(あとで、お礼をしないと)

 この顔無にもだ。

(にしても。この顔無の手……、ちぃちゃんみたい)

 顔無に手を掴まれた瞬間、日暮は親友の手を思い出したのだ。

(まさか、ね)

 日暮の目が幻光蝶の群れを捉える。闇が深いせいもあり、光り輝く橋のようだ。

 幻光蝶が教えてくれる。

この先に、味方が待っていることを。そして、待っているのは――。

(書庫番さんだ!)

 日暮は確信していた。信じがたいことではあるが、彼女の感覚がそう告げている。

 幸い、狐はその幻光蝶の橋がかかっている起点へと向かっている。日暮が言わなくとも、自然とそこへと着くはずだ。

 ただひたすらに、彼女たちは闇に覆われた山道を行く。

 やがて、幻光蝶の橋ではない光が。その光に幻光蝶も同化してしまっている。

 どうやら、この光の先が起点らしい。

(助かった!)

 日暮は安堵した。

 しかし、日暮たちは光の先の光景に呆気にとられることになる。

 そこでは、書庫番と燈籠が取っ組み合いをしていた。

 一体、なにが起きているのやら。さっぱりわからない。


「――ちょっ! なにすんだよ! !」


「まぁちゃん!?」

 燈籠の言葉に思わず、声を上げる日暮と顔無。

(え? 今、ちぃちゃんの声が……)

 日暮は思わず、顔無を見る。

「次、その名を呼んだら、お前の眉間をぶち抜く」

 書庫番の怒りは、相当なものだ。『まぁちゃん』は禁句らしい。

「つってもなぁ……」

 燈籠は書庫番から離れ、頭を掻く。

「まぁちゃんは、まぁちゃんだ……ろ……」

 書庫番が鋭く睨む。燈籠は手を上げた。

「わかった、わかったよ! 呼ばないから! ――ほら、ひぐらしちゃんたちがいるから!」

 そこでようやく、書庫番は日暮たちがこの場にいることに気づく。

「おお、大丈夫……ではなさそうだな」

 書庫番は日暮の赤く腫れた頬を見て、言葉を改めた。

「ええ。思いきり、やられましたから」

「そうか。――お前もご苦労だったな」

 書庫番に労われた狐は面をとり、黒い外套を脱ぎ捨てる。

「せ、仙道くん!? ど、どうして!?」

「内心うまくいかなかったら、どうしようかと……ひやひやしました」

 そう苦笑するリクに対し、日暮はあの立ち回りを思い返していた。まだ入隊して間もないのに、あんなことができてしまうなんて、歩兵科よりも頼りになりそうだ。

 リクが顔無に向かって、言う。

「あなたは外さないんですか?」

「…………」

、胸を張っていいんですよ」

「…………」

「なんだったら、ぼくが剥がしましょうか?」

「……自分でやる」

 顔無は観念したように、黒い外套を脱ぎ、面を外した。

 その顔を見た瞬間、日暮の目から自然と涙が溢れていた。

 悲しいわけではない、嬉しいわけでもない。言葉にできない感情の昂りによるものだ。

 あの手の感触は間違いではなかった。日暮の胸が熱くなった。

「ちぃちゃん……っ!」

 震える声で、親友の名を口にする。

「やはり、秘密を持っていたんですね」

「……それは、あなたもでしょ。仙道くん」

 磯崎に返され、リクは苦笑した。

「そうですね」

「え……?」

 日暮は目を見開く。リクが言った。


「ぼくは、指名配属された新兵ではありません。あなたとひぐらしさん――いえ、かまどうま伝電でんでん


「ええっ!?」

 さらに、リクは驚愕の事実を告げる。


「ぼくは燈籠の弟子です。ついでに、半年前に武者修行に出かけた兵士でもあります」


 日暮は、この度肝を抜く事実に唖然となった。リクは自分たちと同期配属ではなく、先輩だったのだ。しかも、伝電はおろか異動してきた竈馬よりも、だ。

 彼が燈籠の弟子というのには、さすがの磯崎も驚いている。

「嘘は言ってません。任務で素性を隠す必要があったんですよ」

 日暮は思わず、燈籠を見た。

「ほんとだよ」

 燈籠は答える。

「さあ、今度はあなたの番ですよ」

 リクが磯崎の言葉を促すが、日暮はそれを遮った。

「ま、待って! あ、あたしにも実はあるの! 秘密が……!」

「……知ってるよ」

 口を挟む日暮を磯崎が遮った。

「幻光蝶――万象が視えること、触れられること。そのせいで、いじめられていたこと。全部知ってるよ。親友になる前から、ね」

 日暮は目を見開く。磯崎が立ち上がるのと同時に、日暮も立ち上がった。

「わたしは、ある人の命令であなたを監視するように言われたの。医者になりたかったのは、本当だよ。父に長生きしてほしいから……」

 ぽつり、ぽつりと磯崎は続ける。

「わたしの家は、五人囃子ごにんばやしの一族に仕えててね。父の主治医になった人が、その人だったの」

 五人囃子も三人官女のような存在であったが、公都での地位は、そんなに高いものではない。よくて、中流貴族もしくは豪商ぐらいだ。

「でも、父を人質にとられてしまった。逆らえば、命はないと脅されて……」

「ひどい!」

 それは磯崎だけに限ったことではない。

 その者は自分の患者の中から、士官学校に入れるだろう年代の若者を選定し、その家族を人質にして、無理矢理入学させ、同志――駒として迎え入れていたのだ。

「あの人に協力している人の中には、帝都に恨みを持っている人もいるけど……。ほとんどは、わたしのように家族を殺されるという脅しに逆らえないだけなの」

 日暮同様、華宮事変のことが曖昧な世代。もしくは、最後の神子に心酔する者たちである。

「けど、いいの!? お父さん、人質なんでしょ!?」

 話を聞き、磯崎がどれだけの危険を冒したのか、日暮はようやく察した。

 裏切り者になった、ということは、人質である磯崎の父親を敵はどうするだろうか。最悪、見せしめに殺されることも――。

「……うん」

 磯崎の表情が曇る。それはそうだろう。血の繋がった者と赤の他人。命の選択を迫られれば、天秤に掛けるまでもない。だが、磯崎はすぐさま顔を上げて、言う。

「……けど、体が勝手に動いちゃったから」

「えっ……!?」

 意外な言葉に日暮は面をくらった。

「今だから白状するけど。わたし、あなたのことを心の中で嘲笑わらってたの。『なにも知らない、おめでたい子』って」

「ひ、ひど……」

「まあ、ちょっと嫉妬していたのもあるの。あなたはわたしにないものを持っていたから」

「ちぃちゃんにないもの?」

 日暮は首をかしげる。


「……自分の意志――信念よ」


「そんな! それだったら、ちぃちゃんだって! ここにいるみんなも、誰でも持ってるよ!」

「磯崎さんが言いたいのは、そういうことではありませんよ」

 リクが口を挟んだ。

他人ひとにどう言われようとも、後ろ指をさされようとも、自分の信念は曲げず、貫く。ついでに、それを相手に伝える勇気も持ち合わせている。――そういうことですよね?」

「……ほとんど、言われちゃった」

 磯崎は肩をすくめる。日暮は頭を抱えていた。

 二人の言おうとしていることが、わからないからだ。

「ひぐらしちゃんは、思ったことをすぐに口にするでしょ? 普通はしたくてもできないの」

「なんで?」

「他人の目があるから。それがあるとね、嫌われたくないって思うの。だから、自分の意志とまったく違うことを――あたりさわりのないこと、もしくは相手に同調するようなことを言って、『群衆』に合わせるの。そうすれば自分は危険じゃなく、安全な場所にいられるもの」

 処世術、というやつだ。リクが口を開く。

人間ひとは孤独が嫌いなんです。自らを孤独に追い込もうとする人間の気持ちなんて、群衆に慣れ親しんだ者たちには理解できませんし、しようとも思いません。その逆もしかり、ですがね」

「んー。わかるような、わからんような……」

 日暮は腕を組み、考え込み始めた。

「でも、体が勝手に動くってことはそういうことだったんだって思った。頭ではわかってても、理屈じゃないんだって」

「け、けど……」

「もちろん、父さんは大事よ。たった二人きりの家族だから。でも、やっちゃったものはしょうがないよ。間違っていても、なじられようとも、自分の心に濁りを持たせるくらいなら……自分の意志を貫かないとね」

 嘘偽りのない磯崎の本心であった。

「それに、父さんならこう言ってくれるわ。『友を見捨てるな。友は生きている間に、どれほど巡り会えるかわからない。一生の財産たからだ』ってね」

「すばらしいお言葉ですね」

 リクは感動していた。

「ひぐらしちゃん」

 磯崎は体ごと、日暮に向き直る。


「友だちごっこは、もうおしまい」


 日暮は気づいた。その意味をはき違えていたことに。

「……今から始めてくれないかな。磯崎千鶴子は日暮 空の親友だ、って胸を張りたいから」

 磯崎は右手を差し出した。それを見た日暮は涙ぐみながらも、笑みを零す。

「あたりまえだよ。磯崎千鶴子は、日暮 空の大親友だもん」

 その手を握り、固い握手を交わした。

「ありがとう、……」

 真の親友となった二人を見守る肆番隊の面々。


 ――チャキ。


 人間の耳には聞こえない。だが、その音に反応した者がいた。

「伏せるにゃろ!」

 にゃろ丸だ。


 ドギュゥゥンッ!


 発砲音が響き渡る。僅かな間にも関わらず、リクと明々の反応は早かった。瞬時に、明々が磯崎を、リクが日暮を引き離したのである。二人が左右に分かれた瞬間、燈籠は素早く、下肢にまかれている刀帯に収められた短刀の一本を抜き、人間業とは思えない妙技をやってのけた。

 なんと、銃弾を真っ二つに割ったのである。

 その割れた銃弾のひと欠片を書庫番は拾い、観察する。

「……紅炎改式ぐえんかいしき六.五ミリ狙撃銃。倉庫から盗み出された物か」

 燈籠もすごいが、銃弾だけで銃火器の銘を当ててしまう書庫番もすごい。

 日暮たちは銃弾が飛んできた方向を見る。

 と光の行列ができていた。それは幻光蝶ではなく、松明たいまつによるものだった。

 能面の集団を松明の光が照らし、ざっざっ、とそれらが規則正しく行進してくる。

 その行列が左右に割れ、真ん中を歩いてくる者がいる。左目が露になった大鬼神だ。


「なぜ、裏切った……!」


 大鬼神は磯崎に問う。

「知らない。体が勝手に動いたんだもの、しょうがないでしょ」

「父親がどうなってもいいのか!」

 大鬼神の脅し文句に一部の面たちが震え上がったが、もはや磯崎には通じない。

「もう、うんざりなのよ! あなたの野望のために、親友を利用されるぐらいなら! 父さんには悪いけど、わたしは日暮空を守ることを選ぶ!」

 磯崎の言葉に日暮は感激のあまり、目をうるませた。

「守る、だと? その小娘を騙していた分際で、なにを抜かすか!」

大鬼神は磯崎の決意を嘲笑った。

「それとお前! よくも、俺の計画を台無しにしやがったな!」

 燈籠を指し、大鬼神は忌々しげに叫んだ。

 燈籠は「知るか」と歯牙にもかけてない様子で無視する。

「偉大なる俺を無視するなぁ!」

「本物の『偉大なるお方』は、ぎゃんぎゃん吠えねぇよ」

「そのとおりだ」

 書庫番はうなずいた。日暮と磯崎――リクと明々、にゃろ丸も同感である。

大鬼神の訴えは負け犬の遠吠えだ。正直みっともない。

「そもそも、お前。自分が有利だと思ってるみてえだが……。俺とこいつ、ミンちゃんとリクがいる時点で、不利なんだぜ?」

「はっ! 小娘どもと同期入隊の新兵と、ただの書庫番になにができる! 服を着た妙な猫まで連れやがって! そいつも兵士って言い張るんじゃねえだろうなぁ!」

「にゃろう!」

 さすがのにゃろ丸も癪に障ったらしく、毛を逆立てた。

「ふん! まあいい。どのみち、貴様らに勝機はない!」

 少人数で自分たちに勝てるものか。と勝ち誇る大鬼神に対し、


「数だけが、戦ではないぞ」


 書庫番が苦言を呈す。彼は大鬼神にほとほと、呆れているのだ。

「犠牲を払わず、いかにして勝利するか。それが、戦闘における基本中の基本だ」

「はん! 書庫番ふぜいが、なにを言うか! 戦いに勝利をもたらすのは、数だ! それは我らの都を滅ぼした貴様ら――蟲どもの浅知恵と同様ではないのか!」

 見下しているような、いないような。どちらにしろ、その『蟲どもの浅知恵』と同様の手段をとるあたり、芸がない。

 それを聞いた書庫番は盛大にため息をつく。

「まだ、うちで小隊を率いていた時のほうが、策士に見えていたぞ。――

 日暮に衝撃が走った。

「う、嘘でしょ? 竈馬さんが、そんな……!」

 大鬼神の正体が――理知的で温和な、あの竈馬? とても、信じられない。

「本当だよ」

 磯崎が書庫番の言葉を肯定した。

「竈馬――羽竈田はかまだ竜馬りゅうまが、わたしの父さんを人質にし、空ちゃんの監視を命じた張本人だよ」

 ますます、日暮の目は見開かれていく。

「バレちゃあ、しかたねえ」

 大鬼神は左目が欠けた面を剥ぎ取り、投げ捨てた。


「……ったく。慣れねえことはするもんじゃなかったぜ」


 あの優しく言葉をかけてくれた面影はどこにもなく、悪党の顔つきだった。

「みひゃ~、えらい違いだね~」

「化けの皮が剥がれてしまえば、こんなものですよ」

 リクは身も蓋もないことを呟く。


「おい、顔無! お前に罰を与えなきゃなぁ!」


 竈馬が取り出したのは、蓋がしてある瓶。中は真っ黒だ。蓋を開けると瓶を逆さにする。

黒い塊が、と落ちた。砂鉄を粘土質に固めたような物に見えるが、奇妙な動きをしている。一部が触覚のように伸び、中心が大きく風船のように膨れ上がった。

 やがて、人型となっていく。

(なんなのよ、これ!)

 まるで、影が実体化したかのようだ。

 影と違うのは、顔の造形がこと細かく再現されているところだろう。

(ちぃちゃん?)

 日暮がふと、異変に気づいた。磯崎の顔がひどく青ざめているのだ。

 磯崎にとって、その顔は見覚えがあった。いや、知っているどころではない。

 皺くちゃな顔と右目にある泣きぼくろ、病のせいで隙間だらけな前歯。

 は、呻くような声で言う。


「チィィ、ヅゥゥ、コォォ……」


「いやあああああぁぁぁぁ――――っ!」

 磯崎は絹を裂くような悲鳴を上げ、その場で泣き崩れた。

 黒いは磯崎の父親だった。

「お前が招いた結果だ!」

 竈馬は「裏切り者の末路はこうだ」と言わんばかりの表情を浮かべる。

「人質はいずれ死ぬ奴らばかり。どうせなら、死んだ後でも俺の駒にしてやろうと思ってよ。に変えたのよ!」

「は、羽竈田さま。ま、まさか……!」

 額に『てい』と書かれた河童の面が尋ねる。

「ああ。どのみち死ぬ運命なんだ。を完成させるために、

 悪びれた様子もなく答える竈馬に、河童は「ひっ!」と短い悲鳴を上げた。恐ろしくなったのだろう。彼は背を向け、拠点がある方向へと逃げ出したが、突然と地面から生えた手に足首を掴まれ、転倒する。


「ひ、ひぃぃっ!」


 河童が悲鳴を上げる。地面が盛り上がり、人の姿をした土が襲いかかった。


「ぎゃあああっ!」


 肉と骨が噛み砕かれる音が山中に響き渡り、血飛沫が山中に生えた草木に飛び散る。無情にも、血まみれになった黒い外套と河童の面だけが残った。

 その惨状におののいた一部の面たちの混乱が始まった。一目散に拠点へ引き返す者。燈籠の元へ駆け込もうとする者。拠点へと引き返す者は、木や土が人型へと変貌した万象もどきに喰われていった。一方、燈籠たちの元へ駆け込んだ者たちは、味方のはずの能面たちに踵骨腱アキレスけんを撃ち抜かれ、足止めされる。

 それを止めたのは、紅炎零式大型拳銃を持つ書庫番、明々とリク。明々は得意とする暗器で銃口を塞ぎ、銃の暴発を誘発させた。リクは予備用の小太刀を使い、銃身を斬り落とす。

 書庫番は逃げ惑う能面の一団に構わず、銃で妨害する能面の手だけを狙い、撃っていた。その正確さは精密機械のように的確である。

 それでも、竈馬は余裕の表情であった。

 なぜなら、銃撃する能面たちよりも、自身が生み出した万象もどきたちが、盾となるからだ。

 彼らに銃口を向ける書庫番に、にゃろ丸が警告する。

「無駄にゃろ! 万象とは言っても、この世ならざるもの! そんにゃ奴らに、人工物である銃火器は効かにゃいにゃろ!」

「ほう。奇怪な猫ながら、そういうことはわかるのか」

 竈馬は感心した。にゃろ丸は猫らしく「ふー!」と唸り、毛を逆立てる。

 磯崎はまだ泣き崩れていた。そんな彼女に、竈馬は言う。

「俺のために神子を騙してりゃあ、よかったものを。神子に感化されやがって。お前が神子と友情ごっこをしてる間に、お前の親父はこんな風になっちまったけどな!」

「――れ」

 横暴な竈馬に、拳を力強く握る日暮。

「あ?」


「黙れ!」


 日暮は竈馬を一喝する。その瞳は怒りに燃えていた。

 それを見た竈馬が嘲笑わらう。

「なにを怒ってるんですか? 神子さまぁ」

「これで怒らないっていう人がいたら、あたしはそいつをぶっ殺してるわ」

「衛生兵とは思えない台詞だな」

「それはあんたもでしょ? 死んでいく人々をこんな風に扱っていいわけがない。これは明らかな死者への冒涜――公都・華宮の教えと誇りに対する冒涜よ!」

「はあ!? 小娘がなにを抜かしてんだよ!」

「目的のためとはいえ、あんたは医者でしょ? こんなことして、なにも感じないの!?」

「はんっ! 俺はただ、上羽あげはの方針が気に入ったから衛生兵をやってたんだよ。ついでに、大紫もいたからな。懐柔できるかと思ったんだが、あの裏切り者――上羽に毒されやがって! 三人官女を代々務める家の生まれのくせに蟲どもに復讐する気が失せた、とかぬかしやがる! ……まあ、悪いことばかりじゃなかったぜ。あのクソ蝶のよかったところは命を選別しているってとこだ」

「どういうこと?」

 日暮は首をかしげる。

「ああ。上羽は自分の基準で治療する患者と、そうでない患者を分けてるんだよ」

「違う! あいつは、自分の力で生きようとする者だけに手を差しのべているだけだ!」

 書庫番は竃馬の言葉を否定した。

「まっ。そのおかげで、あの万象もどきを生み出す研究ができたわけだ。死んだ奴らをどうこうしようが、燃えちまったら、そこで終わりだからな。死んで終わりなら、俺の野望のために、有効利用しようと考えても、ばちは当たらねえと思うぜ」

 充分、罰当たりだ。

「だいたい、神子の自然主義は気に食わなかったんだよ」

 信じられない言葉が竈馬から発せられた。

「人は生まれ、やがて死ぬ。自然のあるがままに寛容し、受諾する。抗うことは許ず。近代化が進むこのご時世に、なにを甘っちょろいことを言ってるのかと思ったぜ。おまけに、軍隊を持たない。公都じこくを守るだけでいい。ついでに、万象――万物事象なんざ、神子や一部の人間が目にするだけのもんじゃねえか。視えないもんにすがっても、住む奴らが満足しなきゃあ意味ねえよ。それだったら軍事力を強化して、帝都・武都・文都――三都を手中に収めればいい。そうすりゃあ、公都が滅ばずに済んでよかったし、侵略者どもの施しを受けることなんてなかったのさ。――ほんと、ばかな女だったよ。

 この男は、最初から神子に敬意など払っていない。『公都復興』を大義名分とし、自身の野望に利用していただけだ。そんな男が、堂々と『華の誇り』うんぬんを語っているだけでも、許しがたい。

 だが、日暮が許せないのはそんなことではない。

 それは、親友から家族を奪ったこと。

 上羽の方針を自分の都合のいいように解釈し、死者を冒涜した術式は日暮の親友を完膚なきまでに叩き潰した。彼女の愛する父親を安らかに眠らせることもなく、『化け物』に変貌させてしまった。


(許せない!)


 爪が手に食い込むほど、強く拳を握った。

「うつせみ!」

 書庫番が日暮を呼んだ。

 振り向く。お守り――万象理玉が手に飛び込んでくる。

「今のお前になら、それを受け取る資格がある。思うがままに、やってみろ!」

 日暮はそれを首にかけると、竈馬にほえる。


「あんただけは許さない!」


 万象理玉が眩い光を放った。

 その光に当てられた万象もどきたちが苦しみ始める。

 徐々に、その体は泡のように消え失せる。

 そこに残ったのは、様々な大きさと色を持った幻光蝶。

 本来あるべき万象すがたへと回帰したのだ。

 その光景は、まったく万象を目にすることができない者にも視えた。

 みな茫然としている。

 泣き崩れていた磯崎も顔を上げ、その光景を視ていた。

 解放された魂たちが蝶の姿となり、群れを成して天に昇っていく。

 まるで、天の川だ。


『千鶴子』


 その中に、磯崎は父の姿を見つけた。

「……父さん、ごめんなさい。わたし……っ!」

『傷ついたかもしれないが、お前はよいことをしたのだ。胸を張りなさい』

「でもっ、でも……っ!」

 皺だらけの手が磯崎の涙を拭う。


『友を見捨てるな。友は生きている間に、どれほど巡り会えるかわからない。一生の財産たからだ』


 磯崎はとする。父は隙間だらけの前歯を見せて、満足げに笑った。

 やがて、父の姿は霧散し、幻光蝶となって、天へと昇っていく。

「さようなら、父さん……」

 磯崎は涙を流しながらも、笑みを浮かべていた。

「……き、奇跡だ」

「あ、あれが……神子さまの力……」

 万象理玉――神子の『奇跡の力』を目の当たりにした者たちが、口々に言う。

 やがて光はおさまり、天に昇っていく蝶の群れも視えなくなる。


(こ、これがお守りの力なの?)


 起きた出来事に、光を放った本人さえも信じられなかった。

 自分はただ、竈馬が許せないと思っただけである。

 気が緩んだのだろうか。途端に、ぐらっと視界が揺れた。

(あ、あれ……? ち、力が入らな……い……)

 足下がおぼつかない。意識が遠のく。

「ひぐらしさん!」

「空ちゃん!」

 リクと磯崎の呼びかけに答えることなく、日暮は倒れた。

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