陽炎の弟子/第五幕.ⅲ
はっ! と日暮の意識が弾けるように覚醒した。
(ここは……)
もちろん〝書庫〟ではない。ゆっくりと上体を起こす。
あるのは、
それが、日暮の意識を徐々にはっきりとさせた。
(そうだ! 能面の集団が突然やってきて。ちぃちゃんに薬をかがされて……)
意識を失っている間に、この場所へと連れてこられたようだ。
「お目覚めになりましたか?」
「わぁ!」
日暮は思わず飛び退いた。至近距離で迫力ある
「これは失礼。驚かせてしまいましたな」
くつくつ、と大鬼神は笑った。対し、日暮は大鬼神の態度が気になった。なぜ自分に対して、こんなにもかしこまっているのだろう。
彼だけではない。
周囲にいる神楽舞で使用される能面をつけた連中も、日暮を崇拝するかのように
(な、なんで……)
疑問には、すぐさま大鬼神が答えてくれた。
「あなたさまが現れるのを待ち望んでおりました。
(え、えっ? 神子!? あたしが!?)
たしかに、万象を視る力を持っているが……。
だからって自分が地母神の末裔であり、滅んだ公都の統治者であるはずがない。きっと、なにかの間違いだ。
おそるおそる日暮は口を開く。
「あ、あの……。な、なにかの間違いだと思いますが……?」
「あなたは、
「そ、そうですけど……」
なぜ、母の名を知っているのだろう。
「ならば、あなたさまは神子の一族であらせられます」
「ちょ、ちょっと待ってください! 母は神子さまにお仕えする
三人官女――神子に仕える三人の女性のことで、神子の優秀な右腕・左腕・両足であった。神子の世話はもちろん。万が一、神子になにかあった場合――もしくは、新しい神子をその一族から選定する場合のみ、神子としての権限を与えられる『代理人』としての役目も果たすのだ。彼女らは、〝時〟を与えられし聖獣の眷属と例えられることから、別名『運命を紡ぐ
「……お母さまが、そう仰られたのですか?」
「は、はい。く、くわしくは話してくれませんでしたが……」
間違いない。生前の母はそう言っていた。
「つくづく、秘密主義を徹底されておられる。そういう点では、この軍隊も同じか……」
「どういうことですか?」
日暮は尋ねる。
「失礼。こういう可能性があったかもしれないことを忘れておりました。神子を継ぐ女性は自身の
「たとえ、そうだとしても。あたしが神子だなんて、なにかの間違いです!」
信じられなかった。
なんの根拠があって、自分を神子だと主張するのか……理解不能だ。
「あなたを神子と判断するのには、もうひとつ理由があります。あなたがお母さまから『お守り』として、ある首飾りをいただいているはずです」
日暮は驚く。そのことは、親友とここで知り合ったリクしか知らないはずだ。
「あれは
ますます、目を見開く。
書庫番が言っていた。あのお守りは、ある者たちにとっては『至宝』だから、と。彼は『ある者たち』がなんなのか、わかっていたのだ。ということは、あの書庫番も彼らと同じく自分と同じ華宮出身なのだろうか。そんなことを日暮は考えた。
「万象理玉は万象――万物事象を操るために必要な装置なのです。それは、地母神――神子の力を発動させる動力源。あなたさまだけに許された崇高な力なのです」
「……仮にそれが事実だとして、あなたたちの目的はなんなんです?」
「公都・華宮の再興です」
大鬼神は答え、続ける。
「我らは
大鬼神が手を差し伸べた。
「その奇跡の力を以って、我らが
さあ、と大鬼神は手を差し出す。
日暮は混乱した頭で考えた。
公都が滅んだのは、四都暦一九三五年・三月一日。
日暮がまだ十歳(満八歳)の時だ。なぜ、そうなってしまったのか。
その時は、理解できなかったし、兄が義姉と共に、心労を患った母と病弱な実姉。さらには、生まれたばかりの息子を守るのに必死だったように、日暮も彼らを助けるのに必死だった。
その
ふと、日暮の脳裏にある光景が過ぎった。
母は新聞を読むのが、日課だった。だが、その時だけはいつもと様子が違っていたのだ。
ぽつり、母が呟いた。
――すべてを受け入れましょう。
(そうか……、だから……)
途端に、日暮の疑問がすべて解けていく。
あの戦争に誰よりも胸を痛めていたのは――他ならぬ母だったのだ。
(お母さんは、最後まで〝神子〟として、生きていたんだね……)
敵を欺くには、まず味方から。というわけではないが、母はそれを実践していたのだろう。
公都の最後の統治者――神子として、民を憂い、愛し、間違いを犯さぬように。
自分の子らに、公都の死を受け入れさせようと努めていたのだ。
帝都への恨みを持つ者たちに同調しないように。流されないように。
そして、三年前。この世から去ったのだ。
意を決した日暮は口を開いた。
「申し訳ありませんが、その手を取ることはできません」
「なぜです!?」
大鬼神は激しく動揺し、周囲にいる彼らの同志たちも、ざわついた。
「それは、あたし自身が帝都を恨んでいないからです」
「なんと……!」
彼は驚愕する。まさか、拒否されるなどと、夢にも思っていなかったのだろう。
「あ、あなたはここにいる蟲どもが、なにをしたのかをご存知ないのか!? 我が故郷を滅ぼしたのだぞ!? 宣戦布告もなく! 身に覚えのない罪状を突きつけて!」
遡ること、四都暦一九三四年・九月十八日。
帝都は、公都に宣戦布告なき軍事介入をした。公都が帝都にその理由を問いただしたところ、こう返答された。
――神子が、
公都側からすれば、身に覚えのないことである。よって、『侵略』と解釈した公都は、自警団である
この出来事は〝
「それだけではない! 都を滅ぼされた我々に蟲どもがなにをしたのか! 我々に、華の誇りを捨てよと要求し、畜生のごとく貪る愚行を行ったのですよ!?」
それ以後、帝都内では公都が崇拝する地母神崇拝者の弾圧が横行。それに反発し、暴徒化した旧公都の住民たちの苛烈さも相まって、帝都内は混乱を極めていた。しかし、
「ふざけるな!」
日暮は怒鳴った。気迫ある怒号に、同志たちが「ひっ!」と悲鳴を上げ、怯む。
「華の誇り? あんたが、それを語るか!」
大鬼神に対し、もはや敬語ではなかった。
「あんたの言っていることは間違いじゃないわ! けど、あんたのやろうとしていることは、あたしたちの
「なにぃ!?」
「侮辱だ!」
「我々の苦渋の日々を否定するのか!?」
怯んでいた彼の同志たちが、口々に抗議する。
あるまじき暴言に、慈愛の神子の末娘であっても許せないのだろう。
しかし、そこで怯む日暮ではない。彼女は、たくましい少女であった。
「それは否定しないわ。苦しい日々があったのは事実だもの」
「ならば、なぜ!?」
苦しい日々や蹂躙される屈辱を否定しないのであれば、大鬼神の考えに賛同するはずである。
まして、彼女は神子の末娘であり、素質を持つ者。民たちの意を無下にはできないはずだ。
「あれから、もう七年だよ? いまや、ここで生まれた子どもたちは、自分たちの
七年という歳月は、人間の心を変化させるには充分すぎる。
日暮と同世代の者たちですら、曖昧な出来事。彼女たちより、下の世代たちは、そんなことがあったことさえも知らない(覚えていない)はずだ。たとえ、肉親から聞かされたとしても、現実味を帯びず、遠い昔の話のように感じるだろう。
ましてや、統治者である神子が公都の滅びを受け入れたのだ。華宮の者の中にも、彼女に倣う者は大勢いたことだろう。そもそも、ほとんどの住人は日常を生きるのに、精一杯のはずである。
大鬼神がやろうとしていることは、その恩恵を仇で返すこと。絶対に賛成できない。
パァンッ!
乾いた音が室内に響き渡った。平手打ちの勢いで、日暮はその場に倒れ込む。
その光景に周囲はどよめいた。
ふー、ふー、と大鬼神は唸っている。
「ふざけるなよ……!」
日暮は大鬼神をきっと睨みつけた。その反抗的な眼差しが気に食わなかったのだろう。彼は日暮の胸倉を掴んだ。
「俺がなぜ、この薄汚い蟲どもに下ったと思う!」
「……し、知らないわよ。そんなの……」
「それもこれも! 肆番隊のせいだ! お前を指名配属にしやがって!」
そう言われても、困る。日暮が指名配属されたのは不可抗力によるものだ。
「お前もだ、小娘!
(やっぱ、そういう魂胆なわけね)
なんとなく、そんな気はしていた。だから、彼の手を取らなかったのだ。
そして、書庫番がお守りをなかなか返してくれなかった理由も。初対面時のあの言動がなにを意味していたのかも。今の日暮には身に沁みるほど理解できていた。彼がはっきりと告げなかったのは、日暮が頭ごなしに自分の言動を否定する――ということを、わかっていたからだろう。
日暮の口角が自然と上がった。
こんな危機的状況にも関わらず、神経の図太い自分に正直、呆れている。
「なにがおかしい!」
大鬼神にはその笑みが癪に障ったようだ。
それでも、日暮は笑みをうかべたままだ。大鬼神は忌々しげに舌打ちをする。
「まあいい。神子――万象理玉さえ手に入れば、こちらのものだ。お前を支配する手は、いくらでもあるからなぁ」
ますます、日暮は笑んだ。
「ないよ」
ぽつりと呟かれた一言に、大鬼神は耳を疑った。
「なんと言った!?」
「お守りはないって言ったの。拾った書庫番さんが、返してくれないんだもん」
「でたらめを抜かすな!」
「嘘じゃないよ」
信じられない大鬼神は、怒号に近い声を上げた。
「俺は報告を受けたのだぞ! お守りが――万象理玉がお前の元に戻ってきた、と!」
日暮が目を見開く。
その時だった。
大鬼神の体が右の側壁へと突き飛ばされたのである。彼は壁に激突し、気絶。
一瞬のことに、誰も声を発することができなかった。
大鬼神を壁に激突させたのは、額に『
しかし、誰も狐が大鬼神の懐にいつ入ったのか、まったく気づかなかった。気配はおろか、足音さえも――彼が大鬼神に近づいていることすらも……。
もうもうと立ち込める煙に、日暮は激しく咳き込んだ。状況を把握する暇もない。息をするのに必死だ。
突然、ぐいっと手を掴まれた。掴まれた手の先を見る。
(この面、顔がない……)
首をかしげる日暮をよそに、顔無の面を被った人物は、彼女を立ち上がらせた。
「あ、ありがと……」
顔無は日暮の手首を掴んだまま、走り出す。
「うわっ! ちょ、ちょっと!」
悲鳴のような日暮の声に、唖然としていた周囲の時が動いた。
「裏切り者を逃がすなぁ! 神子も逃がすなぁ!」
額に『
他の同志たちも事態に気づき、まごつきながらも、その指示に従い、逃げる二人を阻んだ。
だが、そんな二人に救いの手を差し伸べたのは、大鬼神を突き飛ばした狐だった。
狐は軽やかな身のこなしで、二人を阻む面たちを一掃する。日暮と顔無は呆気にとられた。
(す、すごい)
日暮は素直に感心する。衛生兵であり、実戦経験も皆無である自分が、戦闘能力を判断するのはおこがましいが、素人目から見ても、狐の技量はそんじょそこらの一兵卒とは違っていた。
明らかに、戦い慣れをしている。
「ぐわぁ!」
悲鳴と凄まじい音が聴こえた。
狐の強烈な一撃で扉を守っていた扉番ごと、扉がふっ飛んだ。扉番の面は割れ、白目を剥いて気絶する。
「――こちらへ」
狐が先頭となり、顔無と日暮は闇夜の中へと駆け出して行った。
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