陽炎の弟子/第五幕.ⅰ
日暮は相変わらず、〝書庫〟での仕事に追われていた。
本の貸出と整理、〝書庫〟内すべての掃除。洗濯、食事の支度。覆い茂る雑草類の除去――雑用ばかりの毎日。
時折、思う。
(あたし、なんで軍人になったんだろう)
理由はちゃんとあるはずなのに。
(いつ、お姉ちゃんの病気が治せるのやら……)
深いため息をつく。
日暮の姉・
そんな兄姉たちに、なにかできることはないかと思いついたのが――医者になること。
最先端医療ならば、軍のほうが学べるのではないかという安易な思いつき(勘違い?)で、士官学校の入学を決めた。
不安がなかったわけではない。
軍属になるのだから、猛反対されることは覚悟していた。だが、そんな心配は杞憂に終わった。兄と姉、その時はまだ生きていた母も賛成してくれたのだ。
まさか、賛成してくれるとは露ほども思っていなかった日暮は思わず、兄に訊いた。
――い、いいの……? あたし、軍人になっちゃうんだよ!?
年の離れた長兄はにこやかに笑みを浮かべて、
――お前がやりたいなら、やればいい。
と、頭を撫でてくれた。その直後、
――俺たちでは、お前を守れないから。
と、兄は呟いた。それがなにを意味するのかは、日暮にはわからない。
(お兄ちゃんは、なんであんなことを……)
その言葉が、今でもひっかかっている。
「はあぁ……」
深いため息とともに、
「物思いにふける年頃にゃろか?」
ふいに聞こえたにゃろ丸の声に飛び起きた。彼は日暮の目の前に鎮座し、尾を揺らしている。
「物思いにふけりたくもなるよ! そもそも、お母さんのお守りを返してくれないから、こんなことに……!」
「落としたお前も悪いにゃろ」
指摘され、言葉に詰まる。言葉の代わりに、にゃろ丸を鋭く睨んだ。
(相変わらず、わけわかんない
にゃろ丸よりもよくわからないのは、書庫番である。
(あんなに、外見は綺麗なのになぁ……)
黙っていれば、好感が持てる人物だ。黙っていれば!
「あ。――そうだ、にゃろ丸」
日暮は思い立ったように、声をかけた。
「にゃろ?」
「ずっと訊くのを忘れてたけど……」
「にゃんだ?」
「
にゃろ丸が目を見開く。
「随分と前のことにゃのに、よく覚えてるにゃろ」
感心されてしまった。
「自慢じゃないけど、記憶力はいいの! ――不愉快なことまで、結構覚えてるのが困るけど」
最後のほうは小声だ。
「じゃなくて! あんた、言ったじゃない。『にゃろは万象でありながらも、万象ならざるもの。そこにあって、そこににゃい。にゃいはずにゃのに、あるという存在にゃろ』って!」
日暮はにゃろ丸の真似をしながら言ってみた。彼は失笑した。
「ぷくく……っ! に、似てにゃいにゃろ」
「うるさいわね! それはいいのよ! ――あなた、あの時は説明するのが長くなるからって、教えてくれなかったじゃない!」
「そうだったにゃろ……。うくくっ……」
まだ笑っている。やがて、落ち着きを取り戻したにゃろ丸は、
「いやぁ、笑ったにゃろ」
笑いすぎて溢れた涙を拭った。
「――そうだにゃ。訊かれたことには、ちゃんと答えねばにゃらんにゃ」
「――で、万象ってなんなの?」
改めて、日暮は問う。
「
「……万物事象って、なに?」
「この世を形成、存在するすべての物事や物体を指すにゃろ。それは、視えるもの・視えないもの・人工物・自然物を問わずにゃろ」
「ちょっと待って。視えないものも……ってことは、
「そうにゃろ。幽霊もその
にゃろ丸はうなずいた。さらに、続ける。
「幻光蝶はそれぞれの
「そして、『平和と繁栄の象徴』……」
日暮は呟く。脳裏に、亡くなった母の穏やかな眼差しが浮かんだ。
「幻光蝶という存在の解釈は人間が勝手に行っているが、万象――万物事象においては、そんにゃものどうでもいいにゃろ」
にべもない言い方をするものだ。
「過程・結果、繁栄・衰退、誕生・死――循環して、運行してゆく。人の営み――そこには人の意思や行動もあるが、これらもすべて万象の
言葉では表現できないが、なんとなくわかる。
「その万象を扱うことができるのは、地母神とその末裔たちにゃろ」
日暮は思い出した。自分が生まれた故郷のことを。
かつて、その名を冠した都が存在した。
帝都の南、世界の南東に存在していた専守防衛国家――
この
遥か昔、
その中心となったのは、三人の男と一人の女
彼らは世界を開拓し、先住民たちを統率し、やがて子孫とともに文明を発達させたという
やがて、その中心となった四人を、
――それが
また彼らの末裔たちは、
帝都・蟲皇を統べる〝
武都・獣騎を統べる〝
文都・魚官を統べる〝
公都・華宮を統べる〝
と称され、〝四都神の
「地母神とその末裔たちは万象を操る力のほかにも、不思議な力を持っていたにゃろ。それは、時の
「…………」
「万象も時代ごとに姿や形を変えてゆく。それと同時に、消滅してゆく万象も存在するにゃろ。文明――特に、
時代の移り変わりとともに、文明と文化はもちろんのこと、人の思想なども変化していく。
万象は自然が生み出したものと同時に、人の〝想い〟が具現化したものでもあるため、受容されなければ、忘却の彼方へと消え去り、やがては死滅の道を辿ってしまうのだ。だが、その〝死〟に気づくのは、ごくわずかな人間だけである。
「ゆえに万象は尊きものであり、時に畏怖すべきもの。そして、崇高にゃるものにゃのだ」
「よくわかったわ。――で、結局。あんたはなんなの?」
「にゃろ?」
「万象なの? それとも、単なる異形な猫なの?」
日暮は尋ねる。
「にゃろは万象であって、万象にゃらざる存在にゃろ。万象といえば、そうであるのと同時に、そうでにゃい存在にゃのだ」
「なにそれ」
日暮は呆れた。
動物型の霊――つまり、彼の言うところの万象を視たことはある。しかし、にゃろ丸みたいなのは視たことがない。
「ん? ちょっと待って」
ふと、気づく。
「……その理屈でいくと、あんたも崇高なるものであって、そうじゃないものでもあるって、解釈できるんだけど……」
後者はともかく、前者はどうだろうか? 首をかしげたくなる。
「そうにゃのだ! にゃんだったら、敬ってもよいのだぞ?」
えっへん! にゃろ丸は誇らしげに胸を張った。
「敬いません!」
日暮は一蹴し、
(こいつを敬うくらいなら、あの書庫番を敬うっての!)
心の中でごちた。
ふう、日暮はひと息をつく。背中を背もたれに預け、椅子をぎっこんばったん動かす。
小難しい話をしていたので、頭が痛かった。
ゆらゆら椅子を動かし、顔を天井に向けて、背を反らしていると――。
視界に、見知った顔を捉えた。
見間違いか、と思ったのだが……。
「ひぐらしちゃん」
「うえっ!?」
その声に驚いた日暮は
「いったぁ……!」
「だ、だいじょうぶ!?」
駆け寄ってきたのは、磯崎だった。
「ち、ちぃちゃん……! なんで……!?」
「扉を叩いたんだけど、出てこないから。入ってきたの」
にゃろ丸との話に夢中で、気づかなかった。
「とりあえず、ひぐらしちゃん。その状態をなんとかしないと……」
今、日暮は仰向けの状態で磯崎と話をしている。上から見ると、なんとも間抜けな姿だ。
日暮は腹筋の要領で上体を起こすと、磯崎がそれを支えた。彼女の補助のおかげで、なんとか起き上がり、倒れた椅子を元に戻した。
「ご、ごめん。猫と話しててさ」
「猫? どこにいるの?」
磯崎の反応に日暮はにゃろ丸がいた
「あ、いや……」
気まずい空気が漂い始める。
(あ~。どうしよう……)
一度、ぎくしゃくし始めた空気を元に戻すのは、なかなか難しい。あれから、日も経つというのに。こういう時は、自分の記憶力が恨めしい。
静寂が日暮の思考を焦らせる。
「ひぐらしちゃん」
その静寂を破ったのは、磯崎だった。
「な、なに……? ちぃちゃん」
内心怯えつつも、日暮は答える。
「この前は……ごめんね」
「え、あー……」
反応に困ったが、すぐさま言葉を返す。
「あ、あたしのほうこそ、ごめんね!」
彼女はふっと悲しげな笑みを浮かべた。
「……ちぃちゃん?」
日暮は訝しげに見る。
「友だちごっこは、もうおしまい」
「え……!」
バンッ! 勢いよく玄関の扉が開く。
「なに!?」
現れたのは、能面を被った集団だった。
ずかずか押し入ってきた彼らは、あっという間に二人を取り囲む。
「……ちぃちゃん!」
「ごめんね」
磯崎は手早く、日暮の口元を布で塞いだ。
独特の甘い臭気が鼻孔をくすぐる。
(こ、これは麻酔!?)
全身麻酔として用いられる
意識が遠のく。
――友だちごっこは、もうおしまい。
磯崎の言葉が無情にも頭の中で響き、日暮の意識は闇の中へと沈んだ。
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