陽炎の弟子/第四幕.ⅰ
あれから、三日が経った。
いつものように本棚の書物を整理していた、日暮の手がふと止まる。
(ちぃちゃん……、どうしてるかな)
磯崎のことが頭をよぎったからだ。
竈馬小隊の衛生兵がやって来たりするものの、磯崎のことは訊きにくかった。
今、〝書庫〟にいるのは日暮だけだ。いつものように、書庫番は出かけている。にゃろ丸も彼に言われたのだろう。一歩引いて、彼女を見守っている。
(ちぃちゃん……)
心の中で親友を呼んでも、その返事が返ってくることはない。
たった数日のはずなのに、随分と離れてしまったような気がする。
振り払うかのように、日暮は首を横に振った。
そもそも、こんな思いをすることになったのは――。
コンコン。
扉が叩かれる音で、日暮の思考は遮られた。
「はぁーい」
返事をし、玄関の扉を開ける。
「仙道くん!」
そこには、リクが。
「書物を借りに参りました。――入っても、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
そう促すと、リクは「失礼します」と一礼をし、中へと入った。
そして、さっそく、あちこちを眺め始める。
「なにが必要なの?」
「武術関係の本と銃火器関係の本を」
「そこの棚に固まっているから、気になった物を持ってきて。本の題名とか書き留めるから」
「わかりました。……お一人ですか?」
「うん。――どうして?」
「ここには、美しい書庫番がいるとお聞きしたものですから……」
日暮は肩をすくめた。
「残念だね。その人なら、出かけてるの」
「いつ、お戻りに?」
「さあ?」
「さあって……出かけ先は?」
「わかんない」
書庫番は行き先も告げず、気まぐれな時間に戻ってくる。
当初は、日暮も「どこへお出かけですか?」、「いつ戻りますか?」と訊いたものだが、返事が返ってきたことは一度もない。にゃろ丸に尋ねても、「さあにゃ」と返すだけだ。やがて、日暮は訊くのをやめ、「いってらっしゃい」と彼を送り出すだけになった。
「……大丈夫なんですか?」
リクは目を瞬かせ、不安げな表情を浮かべる。
「平気。あの人、暗くなる前には戻ってくるから」
心配をするだけ損だ、ということを大いに学んだ。
「そうなんですか。――ところで、あの時は訊きそびれたんですが……」
「なに?」
「お守りが戻ったこと、磯崎さんにはお伝えしたんですか?」
磯崎の名を聞いた瞬間、日暮は顔を曇らせた。
「ひぐらしさん?」
リクの呼びかけに、日暮は暗い表情を振り払い、わざと明るく振る舞う。
「ご、ごめんね! ぼぅっとしちゃって! ――ちぃちゃんは、まだ知らないよ」
「そうですか」
「ね、ねえ! 他に、なにか変わったこと、ない?」
磯崎の話題を遠ざけるために、日暮は尋ねた。
「変わったことですか? そうですね……」
リクは顎に手を当て、しばし考えた後、言う。
「この隊の副隊長のことでしょうか」
「副隊長?」
「ええ。入隊式はおろか、未だに新兵たちの前に現れていないので……」
「言われてみれば、そうだね。あたしも知らないや」
もっとも、第一・第二兵舎から離れすぎている〝書庫〟に送り込まれた時点で、部隊との接点をほとんど断ち切られてしまった日暮が副隊長のことなど知るはずもない。
「で、副隊長がどうかしたの?」
「その存在を巡って、いろいろ噂が飛びかっているんです。『実は副隊長は存在しないんじゃないか』、『副隊長が死んでしまって、それ以後、副隊長を任命していない』とか、あるいは『小隊長から副隊長を選定中』など、様々です」
「……想像力豊かだね。みんな」
想像で倒れた自分が言うのもなんだが……。
「あと、女性たちの間で一番人気があるのが『隊長と副隊長の友情物語』ですね」
「なにそれ?」
「これは、副隊長死亡説を下敷きにしたようなものでして……。二人は親友で、副隊長は戦死か病死。もしくは、なんらかの理由で除隊。燈籠はその親友以外を副隊長とは認めず、任命しなくなったというものです」
それはもはや、美談だ。
「明々さんは『本人に聞かせてやりたいね~』と仰っていましたが……」
それは燈籠に、だろうか? それとも副隊長に、だろうか?
「それ、燈籠さんは知ってるの……?」
「よくわかりませんが……。おそらく、ご存じなのでは?」
「ふうん。選定説のほうは?」
「そちらは、もはや一人歩き状態でして。候補としては、
「へ、へえ……」
日暮は半ば感心した。――噂とはいえ、意外と真面目に考えてるんだなぁ。
「あ、ごめんね。長話させちゃって!」
「いえ」
「終わったら、声かけて」
「はい」
リクは本棚を物色し始める。
日暮は紙に書かれてある本の題名を確認しながら、本を棚から抜き出す。肆番隊・小隊および他の隊からの貸出依頼がある本を選定しているのだ。
二人はしばらく無言で、互いの作業に没頭した。
「ひぐらしさん」
「はいはい」
「これらをお借りします」
リクは五冊、分厚い本を持っている。
「わかった。題名書くから。ちょっと待ってて」
日暮は紙に本の題名を書き留める。末尾に『貸出、仙道リク』と記した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
日暮は本を渡し、リクはそれを受け取る。
「それでは、失礼します」
「あ、待って」
立ち去ろうとするリクを日暮は引き止めた。
「仙道くんに、お願いがあるんだけど……」
「なんでしょう?」
「ちぃちゃんに、お守りが見つかったこと、あたしは元気にしてるって伝えてほしいの」
リクは目を瞬かせた。
「ご自分でお伝えになったら、どうです?」
「そうしたいんだけど。あたし、ここから離れられないし……」
「でしたら、磯崎さんがここを訪れた時にでも――」
「あたしは、仙道くんに頼んでるの!」
思わず大きな声が出た。リクの驚いた表情に、
「……ごめん」
目を伏せる。
「いえ……」
二人の間に、微妙な空気が漂う。お互いに様子を窺う。声を発することはなかった。
この気まずい雰囲気に我慢できなくなったのか、
「それでは」
リクは日暮にそう告げ、〝書庫〟から立ち去った。
彼が去った後、日暮は椅子に腰を下ろし、
(あ~、あたしのばか……)
気を遣ってくれたというのに、
(これから、どんな顔で会えばいいんだろ……)
そうでなくとも、磯崎にどう接すればいいのか、わからないというのに。
(どうして、こうなっちゃったんだろう)
どこで間違えたのか、日暮は己の行動を顧みる。
リクに対しては、明らかに自分が悪かった。
だが、磯崎のことは――。
ふいに、あの書庫番の顔が頭の中をよぎった。
(それも、これも……)
彼の顔を思い浮かべ、ふつふつと怒りが湧きあがる。もう、抑え込むことはできない。
「全部、あの女男のせいだぁぁぁっ!!」
腹の底から叫んだ。抑圧された心情を吐露したことで、爽快感を味わう。
だが、日暮は気づいていなかった。当の本人が背後に立っていることを。
「ほう……」
その声が耳に届いた瞬間、背筋が凍った。日暮は顔を引きつらせたまま、おそるおそる振り返る。
留守のはずの書庫番が、そこにいた。彼の足元では、にゃろ丸が大きな欠伸をしている。
体中の水分が一気に外へ出た。額には脂汗。脇の下はびしょびしょ。心臓が破裂するのではというほど、早鐘を打っていた。
(な、なにか言わなきゃ。な、なにか……)
念じるものの、声が出ない。
ようやく出てきたのは、たった一言。
「お、おかえりなさい……」
「ただいま」
ここに来て、彼から一度も返ってきたことがないはずの挨拶を聞き、日暮は覚悟する。
(あたし、死んだ……)
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