陽炎の弟子/第三幕.ⅰ
〝書庫〟にやってきてから数日が経ち、日暮の日常は忙しいものへと変わった。
朝早くに起床し、食堂から頂戴した材料で朝食を作り、洗濯に勤しみ、そこから本の山を分野別に仕分ける(本の山がなくなったら、拭き掃除も追加された)。
昼は、おひつの余ったご飯でおにぎりを作り、それを七輪で焼き、食べる(書庫番の好物らしく、文句ばかり言われる)。昼食後は、今度は分野別に仕分けした本を地下書庫へ所蔵する分と分ける。時折、返却にやってくる兵や貸し出し希望の兵などもやってきて、それらを把握するのも、日暮の仕事となっていた。
夜は朝食と変わらない過程で、ご飯の炊き出しから始まる(材料の在庫が切れそうな場合は、食堂を管轄している穂樽小隊に要請し、何日かの材料を
ある日の午後。
日暮は椅子に腰かけ、
床一面に溢れ返っていた本の山は、卓子の周囲にある分だけとなった。あとは、この本を片づけ、絨毯も卓子も外に出し、床を磨いて、絨毯の埃を払い、干す。日暮の頭の中で着々と仕事は進んでいる。が、最後の最後で彼女の体は悲鳴を上げ始め、こうやって伏すことが多くなった。
日暮の監視兼手伝いであるにゃろ丸も、日暮の働きを認めたのか、黙っている。書庫番も、日暮を特に咎めることはしなかった(相変わらず、焼きおにぎりに関しては、文句を飛ばしているが)。
窓から見える木々は、桜色から新緑へと染まりつつある。
だが、日暮はそれにさえ気づかないほど、疲労困憊していた。
休める時に休まなければ。
意識が完全に沈みかけた、その時。
コンコン。
気のせいか。扉を叩く音がした。
コンコン。
もう一度、扉を叩く音が響く。気のせいではなかった。しかし、日暮は動くことができない。
少し間があいて、
――ガチャリ。
扉が開かれた。
「失礼します……」
その声を聞いた瞬間、日暮は顔を勢いよく上げ、振り返った。
「……ちぃちゃん」
日暮は磯崎の顔を見るなり、感極まって、泣き出しそうになる。
「ちぃちゃん……っ!」
駆け寄って、抱きついた。磯崎は勢いで体勢を崩しつつも、日暮を受け止める。
「ちぃちゃん、ちぃちゃん……っ! うわぁぁぁぁっ!」
「ひ、ひぐらしちゃん! な、なに!? どうしたの!?」
日暮は泣いた。
いきなり泣き出した日暮に戸惑いながらも、磯崎は「よしよし」と日暮の頭を撫でてくれた。
「ご、ごめ……。ちぃちゃ……の顔……見たら……、ううっ……」
「ゆっくりでいいから、ね」
「うん……、うん……っ」
磯崎の優しい言葉に、日暮は何度もうなずく。
磯崎も親友が思ったより元気そうであることに、安堵の笑みを浮かべた。
次第に落ち着いてきた日暮が口を開く。
「それにしても……。ちぃちゃん、久しぶりだね」
磯崎と顔を合わせるのは、医務室以来だ。彼女の左腕――黒地に白字で『肆』と書かれた腕章が時の経過を表している。
「
「えっ!
正直、意外だ。
「伝電さんも、そうしたかったみたいなんだけど。明々先輩が仙道くんのことを気に入ったみたいで……。あの人、自分より後に配属された兵士には『先輩』呼びを強要しているのに、仙道くんだけは『さん』づけでも問題にしてないみたい」
「へ、へえ……」
やはり、伝電との勝負がきっかけだろうか。疑問を持つのと同時に、気に入られたリクに同情する。あの神出鬼没な眼鏡自由人の下で働くのは、骨が折れそうだ。
「でも、初日の時点で随分と減ったみたい。特に、零斑として行動していた
それを聞き、ふと思い出す。
(そういえば。隊長室に行った時、やたらと書類が多かったような……)
あの書類の山が除隊届だったのかと思うと、燈籠の訓練がどれだけ新兵の心をへし折ったのか、よくわかる。
「でも、よかった。ちぃちゃんが衛生兵として、活躍できるところに配属されて」
日暮はとりあえず胸をなで下ろす。
磯崎は衛生兵の総本山である陸番隊に配属されるべきだと、今でも思っているからだ。
「……よくないよ」
「えっ?」
思わぬ反応に、日暮は動揺する。
「罰を受けたって聞かされたから……。ひぐらしちゃんが、ひどい仕打ちをされてんじゃないかって、気が気じゃなかったんだから」
「ちぃちゃん……」
磯崎の泣き出しそうな表情に、日暮はまた泣き出しそうになった。
「だ、大丈夫っ! 本の整理とか、書庫番とその飼い猫のお世話をしてるだけだから!」
そんな気持ちを振り払い、親友を安心させるため、日暮は明るく言う。
「……ほんとに?」
「ほんと、ほんと」
だが、磯崎の追及は止まらない。
「その人に、意地悪されてない?」
「されてない、されてない」
やることはちゃんとやっているので、意地悪はされていない(細かい注意はされるが)。
「飼い猫に、ひっかかれたりは?」
「それもない!」
むしろ、いてくれて大助かりだ(飼い主に似て、上から目線なのが気にくわないが)。
「お世話ってことは、まさかご飯も?」
「う、うん……」
自分が料理のできる人間でよかった、と思ったぐらいだ。
「ご飯の味付けに、文句を言われたりしない?」
「それは……ある」
味付けではないが、焼きおにぎりの焼き加減について。
「掃除も洗濯も――、みんなやってるんだよね」
「うん」
「それ、毎日だよね?」
「……うん」
一日がそれで終わり、起きるか寝るかの記憶だけがはっきりしている。
「その人、なにをしてるの?」
「なにも……しないね」
二階にある自室に籠っているか、気まぐれにどこかに出かけているか。出かけた場合は、貸し出していた本や新しい本を持って帰ってくることが多い。
「…………」
「…………」
沈黙は長くは続かなかった。
「……ひぐらしちゃん」
磯崎が口を開く。
「……なに? ちぃちゃん」
「その人って、今はなにをしてるの?」
「えっ? 今は……自室に籠ってるけど……?」
「その人の自室って、どこ?」
「ああ。あの扉から廊下に出て、まっすぐ行くと、突き当たりに階段があるから――」
ふと、日暮は言葉を止める。磯崎はなぜ、こんなことを訊くのだろう。
(……まさか、ね)
その、まさかである。
「抗議してくる」
磯崎は迷いもなく、奥の扉へと歩いて行く。
「ち、ちぃちゃん!」
日暮は慌てて、扉の前に立ち、磯崎を止める。
「なんで止めるの!?」
「止めるよ! これはあたしに課せられた罰なんだから」
「いくら罰でも限度があるよ!」
「だからって、ちぃちゃんが抗議する必要ないって!」
日暮は怖かったのである。また、磯崎の迷惑になってしまうことが。
「た、たしかに。あの人は手伝わないけど、やることをやれば、ちょっとのことは黙認してくれる人だよ。あたしが居眠りしてても、起こさない人だから! だいじょうぶだよ! だからね、ちぃちゃん――」
磯崎をなだめるが、言葉を遮られる。
「よくないよ! だって、ひぐらしちゃんは――!」
「うるさいぞ」
扉が引き開かれ、磯崎の言葉を書庫番が遮った。
目を見張り、絶句する磯崎。
そんな二人に対し、書庫番は普段どおりだ。
「なにを騒いでいる」
「と、
訊かれた日暮は素直に答える。
「そうか。――で。その
書庫番は磯崎に尋ねる。しかし、彼女は書庫番のあまりの美しさに茫然としている。
この目の前にある美をどう表現したらいいのか。また、それがこの世に存在するという事実に、頭が許容範囲を超え、思考停止していた。
「ちぃちゃん?」
日暮が目の前で手を振っても、磯崎はただ一点を見つめたままだ。
すると、にゃろ丸が卓子の上に乗り、風船を膨らませ始めた。書庫番は黙って、両手で耳を塞ぐ。風船がある程度まで大きくなると、にゃろ丸は膨らませることをやめた。
(……嫌な予感)
その予感は的中する。
パァンッ!
にゃろ丸が鋭い爪を立て、風船を割った。日暮も咄嗟に、両耳を塞ぐ。
「うひゃあっ!」
耳を塞いでいない磯崎は、豪快な破裂音に驚き、悲鳴を上げる。
我に返った磯崎は、にゃろ丸のほうを見る。彼はにんまりと笑い、白い尾をゆらり、ゆらりと揺らしていた。
「ね、猫が。に、二本足で立ってる、笑ってる……!」
磯崎は信じられない光景に驚いている。
(まずいっ!)
彼のことを説明するのは、いろいろと面倒だ。
そう思った日暮が口を開きかけたその時、
「うつせみ」
書庫番が日暮を呼ぶ。
「兵舎に行って、まだ戻らない貸し出した本を回収してこい」
「え……、でも……」
「それが終わったら、すぐ帰ってこい」
指示を下すなり、書庫番は磯崎に向き直る。
「さて、用件を聞こうか」
磯崎は我に返ったのか、表情が険しくなる。そんな親友に日暮は不安を抱いた。
「ち、ちぃちゃん……」
「大丈夫だよ。わたしが、ガツンと言ってあげる!」
「この人に口で勝とうなんて、無理だよ!」
「そんなのやってみなきゃ、わからないよ」
「やったから、わかるんだってば!」
引き止める日暮だが、磯崎が退く気配は一向にない。
「いつまでそこにいる。はやく行け!」
書庫番の叱声が飛んできた。残念ながら、日暮は書庫番に逆らえる立場ではない。
貸し出した所属隊および所属兵の手作り感満載の貸出名簿を手にし、
「……じゃあ、行ってきます」
と言い、〝書庫〟を後にした。
ふと、兵舎へ向かう足を止め、後ろを振り返る。
(……ちぃちゃん)
後ろ髪引かれながら、本の回収作業へと向かった。
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