陽炎の弟子/第二幕.ⅳ

 第二兵舎から第一兵舎へと移動中、幻光蝶が横切る。それを目で追うと、目の前に尻尾を揺らす白い物体が目に入った。


「待ってたにゃろ」


 にゃろ丸だ。日暮は眉をひそめる。

「……あたしは待ってない」

 日暮は不快感を含ませ、言った。

「そう言うにゃ。あの時、お前は気絶していたから、道を覚えていにゃいと思ってにゃ。こうして、迎えに来たにゃろ」

「――って! なんで、知ってるの!?」

 驚くのは早かった。にゃろ丸は受付の際に預けられた日暮の風呂敷と柳織鞄を持っている。

「ちょっと、それ! あたしの……! ど、どうやって!?」

「秘密にゃろ」

 本人は茶目っ気たっぷりのつもりなのだろうが、その仕草が余計に苛立ちを募らせる。

「そもそも、あんたは何者――いや、何猫なにねこなのよ!?」

 日暮は尋ねた。

「しいて言えば、幻光蝶とおにゃじ存在であり、違う存在にゃろ」

「はい?」

 曖昧な返答に日暮は困惑する。こういうところは、あの館にいた男と似ている。

 あの飼い主にして、この飼い猫ありだ。


「そう、難しい顔をするにゃ。にゃろは万象ばんしょうでありにゃがらも、万象にゃらざるもの。そこにあって、そこにはずにゃのに、あるという存在にゃろ」


「……余計、わけわかんないんだけど」

 にゃろ丸の返答に、日暮の頭はますます混乱してくる。

「だいたい、万象ってなによ! 森羅万象しんらばんしょうっていう言葉なら、あるけど」

「それを説明すると、長くなるにゃろ。それに……」

 にゃろ丸は意味深げに、言葉を止める。

「なに?」

「……いや、にゃんでもにゃい。とりあえず、主人あるじの元へ行くぞ。――あ、荷物はお前のだから、自分で持てよ」

 にゃろ丸は荷物を押しつける。

「なによ、それ!」

 彼の身勝手極まりない行動に釈然としないまま、日暮は乱暴に風呂敷と柳織鞄を持つ。

 そして、館――〝書庫〟へと向かった。

〝書庫〟に辿り着くなり、


「わっちの言ったとおりになったようだな」


 主である銀髪の美男――書庫番は読みかけの本に栞を挟んで閉じ、当然のように言い放つ。

「……肆番隊隊長・燈籠の命令により、〝書庫〟謹慎および世話係を命じられた日暮 空です。――よ、よろしくお願いします」

 日暮は不本意極まりない感情を滲ませながらも、自己紹介をする。

「ああ、よろしく。――さっそくだが、仕事をしてもらうぞ。

「あの!」

「ん?」

「う、うつせみとは、あた……いえ、自分のことでしょうか?」

「他に誰がいる」

 至極当然のように答えられ、日暮は困惑する。

「……自分は日暮 空という名前であって、うつせみではないのですが……」

「わかってる」

「だったら、ちゃんと名前を呼んでいただけませんか?」

「ああ、だから呼んでいる。うつせみ、と」

「ですから! そうではなく!」

 話が噛みあわないことに、日暮は苛立ちを募らせる。


「……ヒグラシは蝉。そらは『から』、『うつ』と読むことができる。だから、『空蝉うつせみ』。――お前ではないか」


 なにがおかしい? と言わんばかりの態度に、日暮は絶句した。意味不明で屁理屈このうえないが、わかったことはある。

(要するに、ちゃんと呼ぶ気はないのね)

 そちらがそういう態度ならば、こちらにも考えがある。

「わかりました。もう、うつせみで結構です。自分も『女男』とか『偏屈』とか、勝手に呼ばせていただきます。――

 最後の言葉は強調するように、わざとらしく言ってやった。書庫番は肩をすくめる。

「好きにしろ。やることをやってくれたら、文句を言わん」

(よし!)

 勝ち誇ったような優越感が日暮の心を満たした。思わず、笑みが零れる。

 が、甘かった。彼は淡々と日暮に告げる。


「お守りのことは、もうどうでもいいようだからな」


 そうだ、忘れてた!

「ど、どうでもよくないですよ! そ、それにちゃんとお守りはあるんですよね!?」

「ぬかりはない。あれは、ある者たちにとっては至宝だ。粗末には扱えん」


「え……」


 日暮の顔から血の気が引いた。

 初耳だ。そんな価値ある物だとは、まったく知らなかった。

 そして、それを平気で落とした自分が、なんだかとんでもない重罪人になったような気分だ。


「怒鳴ったり、青ざめたり……せわしい娘にゃろ」


 にゃろ丸は嘆息する。もちろん、書庫番も。

「とにかく、お前にやってもらいたいのは、ここにある本の山を分野別に仕分けること。とはいえ、夕食まであまり時間はない。できるところまでで、かまわん」

 お守りのことを気にするあまり、とっさに返事ができなかった。

 彼は呆れ果て肩をすくめる。

「……返事」

「――は、はいっ!」

 彼はにゃろ丸に、

「あとは任せる」

 と言い、奥の扉の向こうへと行ってしまった。

「……つ、疲れた……」

 彼の姿が見えなくなるなり、本の山へとへたり込む。

「にゃにもしていないうちから、疲れてどうする」

 にゃろ丸の指摘は、もっともだ。

「だって、知らなかった……。あのお守りが至宝だなんて……」

 まだ気にしている日暮に、にゃろ丸はため息をつく。

「あいつの手許にある間は大丈夫にゃ。にゃろが保証する」

(猫に保証されてもなぁ……)

 心の中で日暮はぼやくが、これ以上考えてもしかたがない。それに、にゃろ丸はあの書庫番に絶対的な信頼を寄せているようだし、とりあえず信じるしかない。

「お守りのことよりも、与えられた仕事を果たせ。にゃろが教えてやる」

「……はいはい。わかりましたよ、にゃろ丸さん」

 自分は罰を受けたのだ。誠心誠意、自分のやるべき仕事をしよう。そう決意をした日暮は顔を上げる。


「――にしても……」


 ふと、気づいた。

「随分と高価な物が置いてあるね」

 天井から吊るされた三つの小さなシャンデリアが部屋を照らしている。

 窓はあの時と同じく窓掛カーテンで閉め切られている。陽射しがくれば、置かれている椅子に腰かけ、白の卓上布テーブルクロスが敷かれたまる卓子テーブルで優雅な時間を過ごせそうだ(残念なことに、椅子と卓上には本が積まれている。ただし、窓方向を向いて置かれた揺り椅子には本がないことから、書庫番の指定席と思われる)。

 また、床には絨毯が敷かれていた(これまた残念なことに、本の山で埋め尽くされ、美しい刺繍を目にすることはない)。――自身の生活とは、まったく違う空間である。


「あたり前にゃろ。ここは、あいつの邸宅だ」


「えっ!? そうなの!?」

 日暮は驚いた。これが、個人邸宅とは。

 見慣れない『洋館』であるせいか、この館からは人々の生活にある独特のにおい――生活臭を微塵も感じない。

「まあ。あいつの場合は、生活するためというより、本を保管するという目的が大半を占めるがにゃ」

「……でしょうね」

 足を放り出して、床で眠っていたぐらいだ。生活能力が皆無であることは察しがつく。

(まさか、華族かぞくとか財閥ざいばつ。もしくは、最上位の柱皇族ちゅうおうぞくじゃないでしょうね)

 日暮もくわしくは知らないが、士官学校にはその出の者たちも通うため、よく見かけた。

 帝都には、帝都を支える柱皇と血を分けた一族――柱皇族がいる。柱皇と海公、参番隊の隊長が代々受け継ぐ二つ名〝きのえ〟は、この一族からの輩出が原則となっている。それゆえ、八色蟲隊の壱番隊・弐番隊・参番隊は〝皇公将おうこうしょう〟と総称され、八色蟲隊の中でも特別視されているのだ。

 その柱皇族の分家――特に、〝皇公将〟を輩出する分家を財閥。〝皇公将〟以外の分家と軍中枢部で躍進を遂げたなど、柱皇に功績を認められた一族を華族と呼んでいる。

 それ以外にも商売などで成功し、巨万の富を得て、その過程で邸宅を建てた可能性もありうるが……それはないだろう。

 仕分けを頼まれた本の山は冊数が尋常ではない。冗談抜きで、書店が開けるのではないかと思うぐらいだ。並の資金では集められない。


(まあ。書庫番さんの美貌を考えれば、タダでもらったっていう線もありえるけど……)


 果たして、本を貢ぐ人間がいるのだろうか……。

 そんなことを考えている間に、時間はどんどん過ぎていく。

 考えることをやめ、日暮は本の山から適当に一冊を手に取る。手に取ったのは、随分と紙がボロボロとなっている本だった。これは本なのか? という疑問さえある。

 マシな本はないかと思い、探してみる。ふと、ある本が目に留まった。ところどころ紙が色褪せてしまっているが、まだ新しい本だった。中を読んでみる。どうやら詩集のようだ。

 その本を見るなり、にゃろ丸が尻尾を言った。

「おお。それは探していた詩集にゃろ。渡したい人がいると主人あるじが言っていた本にゃろ」

「……一応、あの人にも友だちはいるのね」

 その事実に驚きつつも、にゃろ丸に本を渡した。

「この詩を書いた人物はにゃ、愛していた女性を親友にとられてしまったんだにゃろ。その境遇がとても、渡したい相手に似ていてにゃ。わざわざ取り寄せてもらった物にゃのだ」

 それを聞いた日暮は、その詩集を即座に取り上げる。

「にゃにをする!」

他人ひとの失恋に、塩を塗り込むようなことをしないで!」

「渡す相手は、もう妻子持ちにゃろ」

「そういう問題じゃない!」

 相手を思いやる心のなさに、日暮は深いため息をついた。

 取り上げた本を目立たない箇所に置き、本の仕分けを再開する。

「ところで、これだけの本をどこに収納する気?」

 この部屋にも本棚はあるが、どの棚を見ても、びっしりと棚に収められており、新しい本を入れられる隙間などが見当たらない。

 すると、にゃろ丸は揺り椅子の奥へと向かった。その行動に首をかしげながら、日暮はにゃろ丸の元へと向かう。そこには、本棚が二対に並んでいるものの、棚と棚の間が不自然に空いている。にゃろ丸は懐をまさぐり、一本の鍵を取り出す。その床には鍵穴があり、彼は鍵をその穴に差し込んだ。カチリ、と音が鳴る。にゃろ丸は白い手(前足)を器用に使い、その床を右方向へと滑らせた。地下へと下りる階段が現れる。


「地下!?」


 日暮は驚いた。

「肆番隊だけでなく、各隊の隊長・副隊長を含め、八色蟲隊の兵士たち全員に本を貸し出しているにゃろ。軍事関係や医学書にゃど、頻繁に貸借される書物は棚に。貴重文献と機密書物にゃどは、すべてこの地下書庫に収められているにゃろ」

「なるほど」

 一旦は納得した日暮だが、ふと思い立つ。

「でも。本の貸出なら、軍事議事堂の中にある蟲皇ちゅうこう図書館としょかんを利用すればいいじゃない」

 帝都内最大の図書館なら、本の所蔵数もこの館の比ではないはずだ。

「あの図書館は事実上、〝皇公将〟隊の専用にゃろ。あと、距離の問題にゃろ」

「……そうでした」

 にゃろ丸は床を元に戻し、鍵をかける。

「さあ。夕飯までにできるところまで、やるにゃろ」

「できるとこまで……って」

 部屋一面に積まれた本の山に、心が折れそうだ。

 ふと、思い立つ。

「……ところで、夕飯って食堂で食べるの?」

「いや。ここから、食堂は遠いにゃろから。作って食べるにゃろ」

「作るって……、誰が作るの?」

 その問いに、にゃろ丸は日暮の顔をじっと見る。

「……あたし?」

無言の訴えを日暮は察した。にゃろ丸は、こくりとうなずく。

「……材料は?」

「にゃい」

「……もしかして、ご飯も炊かなきゃ……だめ?」

「にゃろ。ついでに、米もにゃい」

「…………」

 しばしの沈黙が続く。静寂の中、少女と一匹は言葉を発することはない。

 聞こえてくるのは、玄関側にある本棚と本棚の間に鎮座する柱時計の振り子が揺れる音。

 その時計の長針が十二を指す。――ボーン、ボーン、と午後五時を知らせた。

「ふ……」

 日暮が一音を発し、


「ふざけんなぁぁぁぁっ!」


 叫んだ。彼女はにゃろ丸に一気に詰め寄る。

「材料がないことは、まだ大目にみる! けど、米がないって! あんたたち、どんな食生活してたのよ!」

「にゃ、にゃろ。お、落ち着け……!」

「これが落ち着いていられるか! ここから、食堂で材料やら米やらをもらってきたとしても、どれだけの時間と労力がかかると思ってるのよ!」

「にゃ、にゃろは、猫まんまでよいにゃろ。あ、鰹節をお忘れにゃく」

「米もないのに、どうやって猫まんまを作るのよ!」

「き、気合いで……」

「気合いで、どうにかなると思ったら大間違いよ!」


「騒がしいぞ」


「た、助かったにゃろ……」

 にゃろ丸は飼い主の登場に安堵する。

「どうした?」

「どうもこうもありませんよ!」

 日暮は書庫番に詰め寄った。

「食事の材料と米がないって! どういうことですか!?」

「ああ、それか。すっかり忘れていた」

「忘れていたって……。今まで、どんな生活してたんですか!」

「それ、関係あるのか?」

 書庫番は大真面目に返した。

「大ありです! そもそも、なんであたしがご飯を作らなきゃなんないんですか!」

「お前が書庫番わっちの世話係だから」

 うぐっ。日暮は言葉を詰まらせる。

「世話係が食事を用意するのは、当然のことだと思うが」

 言い返せない。

「わかったなら、さっさとしろ。――まずい物を出したら、承知しないからな」

 書庫番はそう言って、また奥の扉へと姿を消した。

 日暮は彼の姿が見えなくなるなり、


「あー、もうっ!」


 と地団駄を踏む。衝撃で本の山が崩れ、

「にゃろぅ!」

 にゃろ丸が埋もれた。

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