陽炎の弟子/第二幕.ⅱ
(なんなのよ!? あいつは!)
日暮は心の中で悪態をつくが、目の前を走る猫には痛くも痒くもない。
兵舎からはだんだん離れてるが、日暮はそのことに気づかない。とにかく、猫を捕まえることに必死だった。ようやくお守りを見つけたのだ。あの猫を逃すわけにはいかない。
猫との距離はなかなか縮まらない。苛立ちが募る。
走る速度を上げ、猫との距離がようやく縮まり始めた。
(捕まえられる!)
確信した。日暮は心の中で頃合いを見計らう。
(……三、二、一。今だ!)
一気に猫に飛びかかる。手が猫の尻尾をかすめたものの、猫は捕まらなかった。そのまま、顔からすべり込む。
「いったぁっ!」
起き上がろうとする日暮の目に、ある建物が映った。
(家……?)
ゆらり、ゆらり。猫は尾を揺らした後、丸い背中を向ける。
猫が向かった先は、日暮が目にしている二階建ての一軒家。
「待って……!」
立ち上がり、土埃を払い、猫を追いかけた日暮は、その全貌を目の当たりにする。
洋風の造りで、まるで別荘のような佇まい。外観の壁をつたう
猫は扉の前で、日暮を待っていた。
日暮が扉まで近づく。
猫は中に入って行った。しかも、扉を開けずに。
(すり抜けた!?)
日暮はまじまじと、扉を見た。確認してみるが、なんの変哲もないただの扉だ。すり抜けられるような仕掛けも、なにもない。
どうしたものか。扉の前でうろついていると、
ギィ……。
扉がかすかに開いた。
「はよう、入ってこい。
扉の向こうから、あの猫の声が聞こえる。
(なんなのよ、一体……!)
ひとまず従うしか、道はなさそうだ。
扉の隙間から中をのぞく。薄暗い。不気味さに、体が震えた。
扉がいきなり勢いよく両開きに開いた。
「わっ!」
背中を押され、そのまま館の中に転がる。
バンッ! と扉が閉まる音に続き、ガチャリと鍵の閉まる音が。
驚いて扉に飛びついたが、どうしたことか、扉はピクリともしない。
「無駄にゃろ」
振り返る。あの猫がいた。
「お守りを返して!」
猫を捕まえようと飛びかかる日暮の足が、なにかにつまずいた。
「わっ!」
そのまま日暮は倒れる。
「いったぁ。なによ、これ!」
悪態をつきながら足元を見ると、そこには雪崩を打った本。どうやら、この山に足をとられたらしい。
「乱暴に扱うにゃ。
別の本の山に乗った猫は後ろ足でのんびり頭を掻いている。
「そのご主人さまは、どこにいるのよ!」
話の通じないこの猫の代わりに飼い主に文句を言ってやろう、と日暮は考えた。
「そこにいるにゃろ」
猫が指す方向を見る。本の山から見えるものに、日暮は一気に青ざめた。
なんと、白い足が放り出されている。なんとも血色が悪い
「し……、しし……死んでる!?」
「失礼にゃ! 生きてるにゃろ!」
「け、けけ……けど……」
日暮は立ち上がり、本の山を慎重に避け、その足の持ち主へとおそるおそる近づく。
その時、閉ざされていた
「わっ!」
眩しさに目がくらむ。陽射しが入り、内部が明るみとなる。
目に入ってきた光景に、日暮は目を見開いた。
玄関から
壁は窓と振り子時計以外、本棚で埋め尽くされていた。びっしりと計算されたかのように、整列されている棚。本が斜めに倒れている棚、本と本の間に隙間がある棚。絨毯が敷かれた床も、本で埋め尽くされている。
「なに、ここ……」
だが、もっと驚くべきことが待っていた。
白い足の
顏は、この世のものとは思えぬほど美しく。
三つ編みに結われた白雪のような髪。
透き通った肌。
白の中に、ひときわ目立つ紅い羽織。
その魅力的な容姿は、
(綺麗な人……)
日暮の心を一瞬で捉えた。
猫の周りを飛んでいた黒と銀の幻光蝶がひらひらと、花の蜜に引き寄せられたかのように、その人の唇に留まる。
はぁ……。
かすかな吐息に、幻光蝶はその場から離れた。
「ん……」
身じろいだ。その人はゆっくりと起きあがる。
開いた瞳は、羽織と同じ赤――いや、ほのかに橙色にも見える。
常人ならば、奇妙な色だと思うこの奇異な瞳でさえ、この人の美しさを引き立てる宝石のようだ。
「……わっちの眠りを邪魔するのは、お前か」
日暮の美しい夢は一気に醒めた。
(声、低っ!)
見た目はどんな男でも振り返りそうな美女なのに、その声は男性そのもの。
よくよく考えてみれば、帯を腰に巻いている時点で男性と判断すべきだった。
ふあぁぁ。
欠伸をした後、美男はゆっくりと立ち上がる。
燈籠と伝電に比べれば身長は低く、気怠そうなせいか迫力もない。だが、その仕草は妙な色香を纏っており、さながら遊女のようだ。『わっち』という彼の一人称も、それにひと役買っている。
美男は日暮に見向きもせず、
「にゃろ丸、本の上に乗るな」
猫を注意した。
「これは失礼」
ぴょい、と猫は軽やかに本の山から退いた。どうやら、この猫は、にゃろ丸というらしい。
「あ、あの……あなたが、この猫の飼い主ですか?」
「そうとも言えるし、そうとも言えん」
(どっちなの!?)
曖昧な返答に、日暮は困惑する。だが、困惑ばかりもしていられない。とにかく、お守りを返してもらって、一刻も早く兵舎に戻らなければ。
まずはひと呼吸。
「と、とりあえず。その猫が、母の形見であるお守りを返してくれないんです。返すように言ってくれませんか?」
ずいぶん、おかしな頼みだ。それは重々承知している。だが、あの変な猫が素直に言うことを聞きそうな彼に頼まなければ、お守りは返してもらえそうにない。
「悪いが、それはできない」
「どうしてですか!?」
「このお守りがなんなのか、お前は知らないからだ。だから、返せない」
「なんですか、それ! だったら、あなたは知っているとでもおっしゃるんですか!?」
「ああ」
男の澱みのない返答に、腹が立つ。
なぜ持ち主の自分が知らなくて、赤の他人がお守りのことを知っているなんて言うのだ。
「だったら、教えてください! このお守りがなんなのかを!」
「断る」
ぴしゃりと男は言った。
その態度が、余計に日暮の癇に障る。
「拾っておいて、持ち主に返さないって! どういう神経してるのよ!」
怒りのあまり、思わず我を忘れた。敬語を使う余裕もない。
「わっちから見れば、形見の品を落としたお前の神経を疑う」
ぐっ、と日暮は言葉に詰まった。だが、ここで負けてはいけない。
「……いい訳しないで! とっとと返してよ!」
「断る」
「だから、なんでよ!?」
「とんでもないことになる」
「どうなるっていうのよ!」
「そうだな。悪人に利用される」
「はぁっ!? わけわかんないこと言わないで! お守りを返さないあんたのほうが、よっぽど悪人でしょ!」
「心外だな」
「だったら、返して! いますぐに!」
さあ! と勢いよく、日暮は手を差し出した。
だが、男は怯まない。頑なに「断る」という態度を崩す気もないようだ。
「それより、いいのか?」
「なに!」
「戻らなくて」
「お守りを返してくれるまで、戻らない!」
「それはかまわんが、このままだとまずいことになるぞ」
「なにがまずいのよ!」
「見たところ、お前は衛生兵。今日入ってきたばかりだろ?」
途端、日暮の顔が怒りから恐怖へと変わる。
「いいのか? 脱走兵とみなされれば、どんな末路が待っているやら……」
その末路とやらが、ろくなものではないことを、日暮は本能的に察した。
「嫌だろ?」
こくこく、日暮はうなずく。
「わかったなら、ひとまず戻れ」
そうしたいのは山々だが、お守りのことが気がかりだ。
日暮の心情を察したように男は言った。
「ちゃんと預かっておく。だが、今のお前に返すつもりはない」
(今のあたし?)
その言葉に、日暮はひっかかりを覚える。
「どのみち、お前はまた、ここに来ることになる」
「当然です! お守りを返してくれるまでは……!」
「いや、お前の意思など関係ない」
「はぁ!?」
わけがわからない、と日暮は呆れる。
「それと、隊長にこう言え。――
「は?」
日暮は首をかしげた。
「そう言えば、大丈夫だ。騙されたと思って、言ってみろ」
「は、はぁ……」
そう返事をするしか、日暮にはできなかった。
「とっとと行け」
男は追い払うように手を振る。
その仕草にむっとしたが、兵舎に戻ることが先決だった。
本の山を避けながら、日暮は館から出て行った。
(なんなのよ、一体!)
背後にある館を睨みながら、日暮は来た道を戻って行く。
(あの女男! 何様のつもりよ!)
彼に見惚れていた自分が恥ずかしくなった。いっそのこと、口を開かないでほしかった。
(……ちぃちゃんと仙道くん。もう、午後の軍務中だよね?)
二人の顔が思い浮かんだ。もしかしたら、軍務中の今でも、さりげなくお守りを探してくれているのか。それとも、自分が戻らないことを心配しているのか。そう思うと申し訳ない気持ちになった。
怒りも鎮まり、冷静さを取り戻しつつある日暮は、ふと足を止める。
(ここ、どこ?)
周囲は見渡す限り、春の息吹で目を覚ました草木で覆い茂っている。
風が吹けば、桜の花びらがはらはらと舞い散り、地に落ちる。
あの時は、猫を追いかけることに必死だったから気づかなかった。どの方向から、この場所へやってきたのだろう。
「やれやれ、手のかかる娘にゃろ」
あの猫の声がした。彼はすぐそばにある木から軽やかに飛び、見事な着地体勢をとる。
(女男のほうもそうだけど、一番わけわからないのは、こいつなんだよね)
喋る。二足歩行。服を着ている。そして、周囲には幻光蝶。
幻光蝶が気になるのか、猫は「にゃろ、にゃろ」と戯れ始める。
「……なにしに来たの」
恥ずかしくなったらしい猫は、わざとらしい咳払いをした。
「失礼。――
猫は飼い主の真似をしながら、告げる。
その口ぶりに日暮の怒りが再燃した。
「結構よ! あの女男の飼い猫なんかに手助けされてたまるか!」
そう言い捨て、日暮は歩き出した。
この猫の手を借りれば、あの男に負けたような気がする。
それだけで、屈辱だった。
足早で進む日暮を、突如現れた幻光蝶の大群が阻む。
「な、なに!?」
幻光蝶の大群が過ぎ去った後。その向こう側を見ると、道と道との間に隔たりがある。先は急斜面。足を踏み外してしまえば、登ることは困難だろう。
日暮は思わず、息を呑む。この時ほど、幻光蝶が視えたことに感謝したことはない。
後ろを振り返ると、猫が尻尾をゆらゆらと揺らしている。――さあ、どうする? と言わんばかりの笑みだ。
「だ、だいじょうぶよ! げ、幻光蝶が導いて――」
突然、猫の耳がぴくっ、と反応したかと思うと、急に彼は姿を消した。
「ちょっと! どうしたの! おーい!」
「――ひぐらしさん?」
「うひゃあっ! ――せ、仙道くん!?」
振り返ると、リクがいた。今日一日で、驚くのは何回目だろう。
「な、なな、なんで……?」
「中庭に戻ったら、あなたの姿がなくて……」
「あ、ああっ。ごめん」
「集合時刻になっても、戻って来なかったので。燈籠に捜してくるよう、頼まれたんです」
日暮の脳裏に、医務室での明々の言葉が甦る。
――ああ見えて、燈籠は生半可な覚悟を持ってる奴が大嫌いなの~。今頃、残された彼らは地獄を見ていることだろうね~。
ついでに、館で出会った男の言葉も蘇った。
――脱走兵とみなされれば、どんな末路が待っているやら……。
明々に連行される形で、兵舎へと戻る。
そこには、鬼の形相――いや、鬼へと変貌した燈籠がそこにいた。
日暮はなんとか事情を説明しようとするのだが、恐怖のあまり声が出ない。
問答無用に燈籠は告げる。
「死を以って償え!」
そして、日暮の首がはねられた。
(お、終わった……)
――という豊かな想像力によって、日暮は魂が抜けたように気絶してしまう。
「ひぐらしさん!?」
リクが慌てて抱き止める。幸い、急斜面の方向には倒れなかった。
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