第23話 現れた女

「シュンレイ!」

 地下駐車場に煙児の声が響く。

「シュンレイ! しっかりしろ! シュンレイ!」

 叫ぶ煙児の前で、シュンレイはただぐったりと横たわっている。そしてまた、ヨハンもその隣に横たわっていた。

「クソ! 一体何なんだ!?」

 煙児には現在の状況がわからない。なぜ、ヨハンがシュンレイに注射をしたのか。シュンレイは。全て謎だった。

「チィッ――」

 焦る煙児。とにかく病院へ運ばなければ。そう思い、シュンレイを担いだ。

「えん、じ――」

 その時、シュンレイの意識が目を覚ました。

「シュンレイ!」

「煙児――」

 煙児の名を呼びながら顔を上げるシュンレイ。しかし、次の瞬間煙児は違和感を覚えた。

「シュン、レイ――?」

 それはまるで、今までと別人のような、顔。

「お前、一体――!?」

 その瞬間、シュンレイの右肘が煙児へかちあげられた。

「な――!?」

 すんでのところで顔をそらして避ける。しかし、シュンレイもまた間髪入れずに攻撃を続ける。かちあげた右手をそのまま下へ、手の平を使って煙児の金的に打ち込む。

「く――!」

 煙児は顔をそらしたので金的が見えていない。しかし、かつごうとして背中に回していた左手からシュンレイの動きを。煙児は左足を上げてシュンレイの金的を阻む。そしてそのまま膝蹴りをシュンレイの下腹に――、打ち込めなかった。

「くぅ――!」

 一度上げた足を下げる勢いでシュンレイの右足を踏む。形は違うが、斧刃脚ふじんきゃくの変形した打ち込みだ。踏んだ足に入れる力とシュンレイの抵抗する力、それを利用してシュンレイを。シュンレイが前のめりに倒れる。がしかし。

「ふ……!」

 シュンレイは倒れる力に逆らわず、自ら倒れ込むことで煙児の左足から自分の右足を開放させる。そのまま前転へつなぎ、反転しつつ起き上がる。

 二人の間に少しだが距離が生まれた。それは恐ろしいほど高度な功夫クンフーによる攻防だった。

「シュンレイ、お前――」

 いまだに驚きを隠せない煙児。しかし、シュンレイはそんな煙児をあざ笑うかのように口を開いた。

「ふふ、煙児。強いのね」

 相変わらず。そう言ったシュンレイの口調は最早シュンレイのそれではない。

「てめえ、誰だ……」

 煙児は問いかける。相手はシュンレイであってシュンレイではない。そう判断したのだ。

「わからないのも当たり前だけど、傷ついちゃうわ、煙児」

 そう話すシュンレイ。その言葉のイントネーション、そして何よりもその表情。それが煙児に思い起こさせる。ある人物を。

「まさか――」

 思い出したが信じられない。当たり前だ、その人物はもう、この世にいないのだから。

喫華きっか……」

 それはもう死んでしまった煙児の思い人、喫華そのものだった。



 ●



 薄暗い資料室。そこにいるのは手元の薄明かりで資料を漁る一人の男。カタメだった。

〇暴まるぼうの極秘資料、これか……」

 〇暴、警察の中でもヤクザ組織に対抗するための部署の通称だ。今カタメは美市のとなりの市にある警察署の資料室を隠れて探っていた。

 美市の周囲の市は美市のヤクザ組織を警戒している。そのためそこの警察組織はそれぞれ様々な方法でヤクザ組織と接触を図り、その組織の情報を集めているのだ。

「さすがにまだ警察が腐敗しきってはいないな。資料の内容が詳細だ」

 資料をめくりながら呟く。そして目的の資料を探し当てた。

「これだ……」

 資料には『コルネオ・ファミリー』の名前が書いてあった。

 カタメは資料をめくりながら、一枚一枚写真を丁寧に撮っていく。そこにはコルネオ・ファミリーの構成員とその情報が子細に記してあった。

 何枚目かをめくった時、カタメは戦慄した。

「そんな――!?」

 カタメが見つけた構成員ファイル。そこに載っている写真は明らかに喫華だった。



 ●



 煙児と喫華の戦いは続いていた。二人の高度な功夫が激しいぶつかり合いを見せる。

「クソ――!」

 しかし、押されているのは煙児だ。喫華の攻撃に容赦はない。金的、膀胱、みぞおち、人中など、およそ人体の弱点とされる場所を的確に狙い、流れるように打ち込んでいく。対して煙児は多少の攻撃はするものの、急所は狙わず防御に回ることが多い。それも当たり前と言える。なにせ相手はシュンレイであり、且つ、喫華なのだ。

「ふふ、どうしたの煙児? あなたの功夫はそんなものじゃないでしょう?」

 喫華となったシュンレイが言う。煙児が手を出せないのを知っているうえでの挑発だ。

「チッ……!」

 煙児は右腕を振った。こうなれば殺さない程度にダメージを与えて抑えるしかない。そう判断した。

 煙児の振るう右腕。それはただ振るわれるのではない。しなるような動きを持って喫華の左胸を狙った。鉄砂掌てっさしょう。人体を水の塊であると捉える中国武術における必殺の一撃だ。鞭のようにしなった腕から叩きつけられる手の平。その衝撃は人体という水を揺らし、その衝撃で内臓を破壊する。左胸を狙ったこの攻撃は心臓を止めるものになる。心臓が止まれば脳に酸素は運ばれず、すぐに失神する。そうなれば動きを封じた後に心肺蘇生をするだけだ。

 しかし――。

 喫華も当然ただ攻撃を食らうことはしない。煙児の右腕に向かって。しなりきる前の腕に抱かれるようにして右腕を止める。そしてその勢いを利用してそのまま右腕を振り抜く。狙いは煙児の顔。そして振るわれた右腕は――。

「鉄砂掌……!」

 煙児の声。しかし煙児は驚きながらも冷静に対応する。左腕を差し込むようにして鉄砂掌を阻み、そして阻んだ左腕をそのままたたんで肘をだす。そしてそのまま上から押し込むように体重をかける。超至近距離からの体当たり。それは八極拳の頂肘と呼ばれる肘打ちの一種だ。八極拳はその激しい威力によって『二の打ち要らず』、一撃で相手を倒せるとすら言われる達人がいたほどの拳法だ。これが当たれば鉄砂掌どころではないかもしれない。だが煙児は迷わなかった。それほど喫華の功夫が強いのだ。

 しかし、ダメージを受けたのは煙児だった。

「ぐは――!?」

 煙児の胸に、激しい衝撃が走る。一瞬息が止まった。意識が飛びそうになる。煙児を襲った衝撃は鉄砂掌だ。それは喫華の右手からではなく、左手から放たれていた。煙児の肘が届く前に喫華は腰を落としてわずかにかがみ、煙児との隙間を広げた。それによって到達が遅くなった肘打ちよりも先に、落ちるスピードを利用して横に回転するかのように放った左手による鉄砂掌がヒットしたのだ。

 しかし、煙児は倒れそうな自分を奮い立たせた。力を振り絞って左足で前に飛ぶ。

「!?」

 箭疾歩。八極拳における飛び込み、踏み込みだ。鉄砂掌を身に受けながらも肘を打つ姿勢を崩さず、無理やり踏み込んで前に出る。すなわちそれは肘打ちが喫華に当たるということだ。

 喫華が肘打ちによって吹き飛ぶ。だが、その吹き飛びは弱く、喫華は数歩を後ろに飛ぶだけで着地した。鉄砂掌によって肘打ちの威力が減衰しているのもあるが、その上で喫華はしっかりと肘を右腕で受け止めていた。素手の格闘においての真正面からのガードである以上ダメージはあるものの、腕の骨が折れるほどではなかった。

 対する煙児は息ができない苦しさでついに片膝をつく。

「ふふ、煙児――」

 喫華はそこでとどめを刺すでもなく、ただにこやかな笑みを浮かべた。

 煙児はその間に鉄砂掌を。再びの衝撃によって心臓の鼓動が戻った。

「かっは――!」

 目の前が白黒する。しかし、ふらつきながらも煙児は立ち上がる。喫華を見た。

「ふふ、ねえ煙児。それは使わないの?」

 それ。喫華が指すそれは今も煙児の左腕に巻き付く縄鏢じょうひょうだ。

「あなたは暗器の煙児でしょう? 暗器を使わないあなたの功夫なんて完成したものとは言えないわ」

「……」

 喫華の言葉に、煙児はためらう。確かに喫華の言う通りだ。煙児の功夫は暗器あってこそ。しかし、それは人を殺す道具だ。喫華ほどの武術家とやり合った場合、勝ててもそれは相手を殺す可能性が高い。煙児にとってそれは手を出したくても出せない選択肢だ。

「んふ、煙児、相変わらず優しいのね――」

 喫華がゆっくりと歩みを進めた。煙児に近づく。

「でも、優しい暗器使い殺し屋なんて、価値がないのよ」

 台詞と共に、喫華の右足が煙児の胸に突き込まれる。



 ●



 ローレライは紅茶を啜った。

 マダム・ローレライの部屋の中。その部屋にはローレライとボディーガードの女性が一人。しかし、そのボディーガードはマリエではなかった。

「間に合うといいんだがね」

 そう言うローレライの手元にあるタブレット。それはGPSグローバル・ポジショニング・システムによって地図に示されたシュンレイの居場所だ。

 万が一を考えてシュンレイには言わずにシュンレイの携帯には発信機となるアプリを入れてある。そして今朝方、煙児からシュンレイが飛び出していったという連絡があったのだ。

 ローレライは紅茶を啜る。この部屋で待つことしかできない自分に歯がゆい思いを持ちながら。



 ●



 煙児に突き込まれた蹴り。しかしそれは横からの蹴りで止められた。蹴りを止めた人物、それは煙児ではない。緑色のスカートを翻して前蹴りを放つその人物。

 マリエだった。

「煙児様、遅くなってしまい申し訳ございません」

「マリエ……」

 マリエという乱入者。それによって紡がれた時間を無駄にせず、煙児は呼吸を整える。

「あら煙児。私でもシュンレイでもない女の子に手を出してるの? 浮気はだめよ?」

 蹴りを戻し、構えながら喫華は言う。

「お気になさらぬよう。私、ぶっちゃけ煙児様はタイプではないので」

 言うが早いか、マリエの回し蹴りが喫華を襲った。

 喫華は腰を落としてマリエのハイキックをやり過ごす。同時に落とす勢いのままその場で反転。構えの左右をスイッチする。そしてその勢いを使って右拳を突き出す。

 しかしマリエは慌てない。打ち上げた自らのハイキック、それを下げるようにして。そしてそのまま拳の上に乗るようにジャンプ。空中で身をひねり、横回転を利用した振り下ろしの蹴りを繰り出す。空中にマリエのスカートが花のように開いた。

 対する喫華は突き出した右拳を引き戻しながら肘を軸に外側に回転。マリエの蹴りを外側へとそらす。そしてそのまま右肘を前にして飛ぶ。煙児がやった肘打ちと同じものだ。

 しかし、マリエは蹴りをそらされると同時に空中で逆の足を突き出す。突き出された足は喫華の肘を踏み、その反動でマリエは後方に飛び退る。床を軽く転がると両足を振り回して喫華を牽制しながらその勢いで起き上がった。まるでブレイクダンスのようだ。

「あら、カポエラかしら? あなた結構やるじゃない」

 牽制され、近づく機会を失った喫華が挑発する。

「そのロングスカート、邪魔じゃない?」

「いえ、この服は当店の制服ですので。この服で動くことには慣れております。お気遣いなきよう」

 マリエはしれっと答えた。

「感じの悪い子ねえ」

 その時、息を落ち着かせた煙児がゆっくり動いた。

「マリエ、シュンレイを――」

 しかしマリエは素早く答えた。

「わかっております。死なない程度にボロクズにいたします」

 煙児はただ、軽い舌打ちを一つだけ残して構えた。マリエも構える。

「あら、二対一ね。分が悪いわ」

 そう言って構えを解く。すると喫華はヨハンの傍へ飛び退く。

「ヨハンをどうするつもりだ!?」

 慌てたのは煙児だ。ヨハンはまだ十にもならない子供だ。敵に利用されているだけのはずだという思考がある。ならば殺させるわけにはいかない。

「大丈夫よ。大したことはしないわ」

 喫華は小柄なヨハンを持ち上げると床に叩きつけた。

「ごあ――!」

「ヨハン!」

 慌ててヨハンに近寄ろうとする。しかし、次の瞬間ヨハンから大量のスモークが発生した。

「これは――、煙幕!?」

 あたり一面一気に煙で満たされる。害のない煙のようだが肺に入れば苦しいのは違いない。それにスモークには色がついていてあっけなく視界が塞がれてしまった。

「ふふふ! 煙児! また会いましょう!」

 声だけを残して消えていく喫華の気配。

「クソ! 喫華!」

 叫ぶ煙児の声はむなしく響いた。

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