第21話 機械術
「シュンレイ――!」
煙児は振り返ろうとした、しかし。
「く!?」
目の前にインリーが迫る。インリーの動きは
インリーが飛び込むような突進と共に右肘を前に突き出す。ただ前に突き出すように構えられただけだが、その突進力とインリーの体重を合わせ突き込まれる肘は当たれば簡単に相手を吹き飛ばす凶悪な業だ。功夫では蹴りや頭突き、相手を攻撃するための主な体の部位をすべて拳と表現し、体には全部で八つの拳があると定義する。インリーはまさにその体全体でひとつの拳なのだ。
インリーが地を蹴る。まさに飛び込むように肘が打ち込まれた。
対する煙児は両手を前に突き出す。右手を上に、左手を下に。右手は手を開き、左手は拳を握る。右手の外側にインリーの肘を乗せるようにしてそのベクトルをそらす。そして開いた手の指はそのままインリーの両目に突き込まれる。高度な中国武術になると攻撃と防御の概念が存在しない。攻撃は防御であり、防御は攻撃である。太極図に示される通り、表裏一体の業となるのだ。
対するインリーはそらされた肘のベクトルにそのまま身をゆだねるように身をひねる。体全体のベクトルがそれたことで煙児の目突きの範囲外へ体が流れて行く。しかし、煙児が付きだしたのは両手だ。右手による目突きはインリーの視界を隠すいわばフェイントも含んだ動作。煙児の左拳がインリーの脇腹に吸い込まれていく。
だがその時、煙児は己の目を疑うことになる。
飛び込んできているインリーが、空中で回転したのだ。
その回転は通常人間を含むすべての動物が慣れ親しんでいる横への動作ではない。縦回転だ。インリーは空中で身を縮め、そのまま空中を前転するようにして縦回転。そうすることで煙児の左拳よりもさらに上に自分の体を上昇させる。胸だ。インリーは胸を中心として縦回転を行ったのだ。普通の人間が大道芸などで披露する体の中心を軸にした縦回転ではなく、胸を軸とした高度な回転。それを行うことで体が浮いたかのように空中へ躍り出たのだ。そしてその高空から、縦の回転力をそのまま右足に乗せて振り下ろす。通常では考えられない、空中回転によるかかと落としだ。
煙児は驚きに目を見開き、しかし冷静に対応した。何故ならインリーが縦回転することは知っていたからだ。インリーの肘と交差した右腕、そこから次にインリーがなにをしようとしているのかをその筋肉のわずかな動きや伝わってくる力の大きさなどから知ることができる。それは高度な
煙児の脇腹に衝撃が食い込んだ。
空中で地面へと落とされる寸前、インリーが左足を突き込んだのだ。衝撃と痛みで煙児は後方へたたらを踏む。その間にインリーは受け身を取って立ち上がる。再びお互いの距離が開いた状態になった。
にらみ合いながら煙児は思う。
まずい――。
功夫の技量で言えば明らかに煙児の方が上だ。しかし、インリーはそれを超えるほどにその身体能力が高い。これではシュンレイを助けに行くどころか、徐々に自分が追い込まれてしまう。
シュンレイの方へ一瞬だけ視線を向ける。
シュンレイが男の足運びだけで投げられているのが見えた。圧倒的な力量差だ。幸い男はそのサディスティックな性格から勝負を一瞬で決めるつもりは無いようだったが、明らかにシュンレイが勝てる見込みは無いとわかる。
「使うしかないか――」
煙児は苦々しく言うと、懐に手を伸ばした。
●
シュンレイは油断なく構えた。一つずつ確認するように動いていく。肩幅に広げた足に均等にかけられた体重。これはいつでも素早く状況に対応した足運びができるようにするため。左手を軽く前に出す。これはとっさに防御できる左腕を前に出すことで自分の急所を隠し、相手に対して攻め込ませる隙を作らないため。そして右手に持ったヌンチャク。片方の持ち手を右手で掴み、もう片方の持ち手は脇に挟む。これは素早く敵を攻撃できるようにやや後ろに置く。
確認しながら構えたその構えは初心的なものであるが実に有効なものだ。構えとはそれ自体で多くの意味を内包する。その全てはつまり、より戦いの中で動きやすくするためであり、相手に簡単に攻め込ませないようにするためのものだ。初心者が使えるものとはいえ、その有効性は実に高い。
「くくく、鍛錬を始めてから日が浅いとはいえ、なかなかの功夫じゃないか」
寸鉄男が言う。しかしその誉め言葉は相手が上であるという事実を強調している。
シュンレイは思う。自分は弱いと。しかし、だからこそ油断をせず冷静に考える。
煙児が教えてくれたことを思い出すんだ――。
思い出し、実行する。それはまず、相手の戦力を把握することだった。相手が優れているところ、自分が優れているところ。それぞれを見出し、自分の有利を最大限に生かし、相手の有利を封じるのだ。
相手の強さ、それは功夫の技量の高さ――?
考えて打ち消す。それではただの大雑把な思考に過ぎない。シュンレイの集中力が上がっていく。
やっぱり、武器だ――。
武器。中国武術でいう機械類。それを持っている以上、それを利用した動きが多くなる。目の前の男が持つ武器は寸鉄。その中でも
相手の最大の得意技は、接近戦――!
寸鉄は握りこんだ拳による打突を強化する武器だ。そして先ほどの点穴針の使い方からするにやはり相手と接触しての戦闘が最大の武器なのだろう。実際に相手に手が届く間合いならば相手の功夫も最大限活かすことができるはずだ。
対するこっちの有利は――。
シュンレイの思考が右手に集中する。そこに掴んだヌンチャク、それが自分にとっての最大の利点だ。
シュンレイは決心した。決心してヌンチャクを振りぬいた。
●
「ほう……」
寸鉄男が声を上げた。目の前ではシュンレイがヌンチャクを振り回している。それは空手や拳法の型のようにしっかりとして美しい動きだ。
「なるほど。リーチを活かして戦うつもりか」
男は思った。このシュンレイという女、あながち才能がないわけではないなと。こちらの強みと自分の強み、それを考えた上でリーチを活かすという戦術を選んだのだ。この場面で冷静にその思考ができる人間は数少ないだろう。
ゆえに、男は口にした。
「さすがは我らの妹と言うべきか」
言われ、シュンレイの顔に驚きと恐怖、そして興味の色が浮かび上がる。
寸鉄男は口の端を吊り上げながら続ける。
「くっくっく、知りたいか? 自分の本当の過去を――」
シュンレイの動きが目に見えて鈍る。男の言葉に揺さぶられているのだ。
「私と共に来るか?」
意外な言葉。
「お前の過去を思い出させてやるぞ?」
明らかに動揺するシュンレイ。それ見て男が思うことはしかし、邪悪な思考だ。
嘘は言ってはいない。だが、――。
だが、思い出したこの女自身がどうなるかは、別問題だがな。そう心の中で呟く。それは人を壊すことに何の躊躇もない、悪魔の様な思考だった。
●
いつしかシュンレイはヌンチャクを振る動きを止めて男の言葉に聞き入っていた。
「あたしの、本当の過去……」
気にならないはずがない。本当の自分が何者なのか、知りたくないはずがない。
「あ、あたし――、あたしは――」
迷った。シュンレイの冷静だった思考が乱れる。
「あたしは――!」
瞬間、くぐもった声が聞こえた。煙児だ。煙児がインリーに脇を蹴られてたたらを踏んだ。しかし、なおもインリーに向かって構えを取る。
「煙児――」
シュンレイの思考が、瞬時に冷静さを取り戻す。まるで何かを開放したかのような、そんなすっきりとした感覚さえあった。
「あたしは、あんたなんかと一緒に行かない!」
言い切る。
「あたしはあたしだし、煙児が言ったもん――。あたしの過去を探してくれるって!」
例え過去がどうあれ、今の自分はシュンレイという人間だ。そしてそれは譲れない。シュンレイという女として、煙児を愛する一人の女として、譲れない思いだ。
「ふ、そうか」
男の顔は、しかし笑みに満ちた。
「ならば腕ずくで回収するとしよう!」
その顔は相手を傷つけることに、それができるという事実に喜びを見出す外道の顔だった。
●
寸鉄男が前に出た。それは不思議な動きだった。素早くシュンレイにむかって飛び込むような動き。だが、両の足は床から離れていない。まるで床の上をすべるような動きだ。その動きを利用して飛び込む男は、とても低い姿勢。背筋をまっすぐ伸ばしているのに両足を広げたその構えがシュンレイよりも低い。
「この――!」
シュンレイはヌンチャクを振り回す。当てるためではない、牽制するための振り回しだ。しかし、男は滑り込むように下から迫る。
「――!」
シュンレイのヌンチャクによる牽制。それを男は下からかいくぐって見せた。
「ふ――!」
しかしシュンレイもただそれを見ているわけではない。近づかれたらお終いだ。ゆえに近づかれない動きをするしかない。呼気と共に突き蹴りを放つ。それは男の左腕に突き込まれる。だが、吹き飛んだのはシュンレイだ。そしてそれはシュンレイの思惑通りでもある。シュンレイの突き込んだ蹴りはダメージを与えるものではない。後方に飛び退くためのものだ。
距離を取ってシュンレイは再びヌンチャクを振る。
「ふふ、なかなかどうして、思ったよりも鍛えられているな」
男の誉め言葉はしかし、獲物に対するそれだ。遊び応えがある。そう言っているのだ。
シュンレイは一見冷静に対応している。だが心の中は焦りつつあった。
相手の構え、踏み込み、すべてが低い。ヌンチャクのリーチを活かしきれない――!
そう、相手の不可思議な動き。それによってシュンレイよりも下から迫りくる独特なその歩法。それはリーチを有する武器にとってすべからく苦手な動きだ。通常リーチのある武器は地面にぶつからないように動く。それは自分の動きが鈍らないようにするためだ。そのために重心が上になる動きが多い。もちろんそれにも例外はあり、地面すれすれを打つ動きや地面に向かって直接打つ動きもある。だが、シュンレイにはまだそれらの動きは高度なもので使いこなせてはいなかった。
ヌンチャクを振り回す手は止めずに、思考だけを回していく。
どうする――!?
煙児が助けに来るまで逃げに徹する。そういう戦術も考えた。だがそれはすぐに却下した。助けがいつになるかわからない以上、逃げ続けることは不可能だと考える。そもそも攻撃と防御ならば防御の方が断然に上の技術だ。である以上、敵の攻撃を受ける側に回り続けていればいつかは敵の動きに捉えられてしまう。
どうしよう――、煙児――!
祈るように、思考を巡らせた。
●
煙児は懐から取り出したそれを素早くインリーに投げつけた。
「――!」
インリーが避ける。避けたそれは短剣だ。小さな、しかし確かに刃がついた短剣だった。
インリーが避けた短剣、しかしそれはインリーの横を飛び過ぎることはなく、一瞬空中で止まる。短剣の柄から赤いひもがまっすぐに伸びている。紐の先を掴んでいるのは煙児だ。煙児が紐の先を掴んだことで、一瞬短剣の動きが止まったのだ。
煙児はひもを掴んだ左手を不思議な文字を空中に描くかのような動きで手繰る。すると煙児の左腕にひもの先端が巻き付き固定され、さらに紐の先にある短剣が煙児の元へと戻ろうとする。そこに右手を下から支えるように出すことでひもを操り、下に弧を描くような軌道で短剣が煙児の足元へと戻り、からからと音を立てて床の上に落ちた。
煙児はひもを回す。左手に結び付いたひも。それを右手を使って長さを調節し、縦に回し始めた。ひゅんひゅんという風を切る音が聞こえる。
インリーの動きにためらいが出た。相手の能力にリーチと破壊力がプラスされたからだ。
「あまり使いたくはねえんだがな……」
煙児が回しているひも、それ自体は
インリーは冷静な思考で分析する。縄鏢について知識があるわけではない。だが目の前の男が刃物を持ったという事実。それだけで危険だ。錘なら破壊されるだけですむ。当たった場所が破壊されてもまだ動ける場所であれば無理やり接近して相手に攻撃を与えることも可能だ。しかし縄鏢は刃物を使っている武器だ。刃物をまともに受ければ、そこがどこであろうと致命傷につながる危険性がある。おいそれと突っ込んでいい状況ではない。
どう攻めるべきか。そう思考する。インリーに戦わないという選択肢はない。自分に下された命令は目の前の男を殺すこと。それが撤回されていない限りそれは必ず実行しなければならない。インリーの中に命令に背くという思考は存在しないのだ。
不意に、煙児が縄鏢で仕掛ける。回していた勢いを殺さず、アンダースローで投げ出されたそれは的確にインリーへ吸い込まれるようにして飛ぶ。
それに対して咄嗟にインリーがとった行動は、前に出ることだった。
飛び来る短剣、それとすれ違うように前に出る。縄鏢はひもを相手に絡みつかせることもできる。しかし、それは短剣で相手にダメージを与えるよりもはるかに小さな効力と言えた。ゆえにインリーは縄鏢の射程、その内側に入り込む。一気に近づいて縄鏢のリーチを使えなくさせるのだ。
しかし――。
「ひゅ――!」
呼気と共に煙児が縄鏢を戻す。再び下に弧を描く軌道で戻されたそれは、しかし今度は床に落ちず、煙児の体に巻き付いた。
「――!?」
インリーが急停止を選んだ。目の前に振り下ろされてくる短剣が見える。急停止したインリーはそのまま後ろに下がる。しかし、下がるインリーめがけて短剣は何度でも振り下ろされた。
インリーは見た。煙児が自らの体にひもを巻き付けることで縄鏢の長さを調節しているのを。
自らの体に巻き付けることで短くなった縄鏢を素早く振り回し、インリーを追い詰める。そのリーチは明らかに拳のリーチであり、インリーの間合いだ。今、インリーの間合いは縄鏢によって支配されている。
「く――!」
たまらずインリーが後ろへ大きく飛んだ。距離を広げる。だが、そんなインリーをあざ笑うがごとく、縄鏢は再びそのリーチを伸ばして襲ってきた。
たったひと振り。ただそれだけで煙児の体に巻き付いていた縄鏢が一気に解放され、短剣をインリーに飛ばす。
もはやインリーに勝てる間合いは存在しなかった。
「チイッ――!」
インリーは飛び来る短剣、それを掴んだ。高速で飛ぶ短剣を空中で掴むなど人間業とは言えない。しかしインリーはやってのけた。だが――。
「狙い通りだ。ありがとよ」
次の瞬間、インリーは地面に這いつくばる自分を自覚した。
「!?」
何が起こったのか、理解ができない。だが、地面に這いつくばったその一瞬、それはまさに煙児にとって絶好のチャンスだ。
煙児が素早くインリーの元へ走り寄る。インリーは予測する。
この男の行動パターンは聞いている。倒れた相手を踏み壊す――。
素早く跳ね起きる。膝立ちの状態にしかならないが、踏み抜かれる前に反撃が必要だった。幸い縄鏢の短剣はまだ自分の手の中だ。致命傷を与えるためには踏みに来るはずだ。
予測と共に、走りくる煙児に対して左の抜き手を放つ。
「あらよっと」
しかし、次の瞬間には激痛と共にインリーは再び地面に叩き落された。
「ぐあ!?」
抜き手を放った左腕、その手先から走る激痛に顔をゆがめる。
インリーの左手は煙児に掴まれていた。ただ握られているだけだ。しかし、握られた指は痛みと共に動かすことはできないでいる。
「くう!?」
なんとか抵抗しようとするが、あがけばあがくほど相手の良いように動きを殺される。ついには顔が地面についてしまう。完全にねじ伏せられている。
「悪いな」
そう言うと、煙児は足で縄鏢、そのひも部分を蹴る。まるで手品のような動きでインリーの首にひもが絡みついた。そして締め上げる。
「ん――!!」
インリーが意識を失うのに数秒もかからなかった。
「シュンレイ!」
インリーの気絶を確認するや否や、煙児はシュンレイを見た。
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