第19話 罠

 朝。煙児たちの朝は遅いことが多い。賞金稼ぎの仕事もガールズバーも、夜が本番だからだ。しかしその日は前日にどちらもなかったため、比較的早めに朝を起きて過ごしていた。

「ひゅわ~――。」

 寝ぼけたあくびをしながら、シュンレイは歯を磨いていた。歯を磨きながら窓辺に立ち、朝日を浴びる。

「ふぶう~」

 みょうちくりんな声と共にあくびだかため息だかわからない、そんな吐息。と、がたんという何かが落ちる音がした。

「郵便屋さんかな……」

 その音は郵便受けに何かが投函された音だ。玄関を開け、郵便受けを確認しにいく。

「あれ――?」

 その時目に入ったのは去り行く郵便屋ではなく、去り行く人妻、エプロン姿の女性だった。その人妻らしき背中は小走りに離れていった。

「んー?」

 不審に思いながら郵便受けを開ける。そこには確かに手紙が入っていた。ただし、宛名もなければ切手すら貼っていない。

「むむ――」

 去ってゆく人妻、宛名の無い手紙――。

「怪しい」

 シュンレイの疑念は煙児に向けられた。

「まさか煙児、あの人妻と何かあるんじゃ――」

 言いながら手紙の封を破る。しかしそこから出てきたのは煙児に宛てたとは言いがたい内容の手紙だった。

「これ……」

 読み終わったシュンレイは走った。手紙を握りこんで、寝間着代わりのシャツと短パンのまま。家を飛び出して駆け抜けていく。

「おい、シュンレイ。朝飯できたぞ」

 そう言って出てきた煙児はしかし、開け放たれた玄関だけを見ることしかできなかった。



 ●



 そのタワーマンションには地下駐車場が二つあった。地下一階はマンション住民の契約駐車場。そして地下二階は住民以外の契約者が使える駐車場だ。しかし、現在の地下二階駐車場はほとんど人がいなかった。人どころか車の影も少ない。なぜならその駐車場のスペースすべてが同じ人物の契約スペースとして使われていたからだ。

 人影のほとんどないその駐車場に、くぐもった声が響く。

「ん! んん! んぐ!」

 声の主はヨハンだ。手足を縛られさるぐつわを噛まされている。

「あんまり騒ぐんじゃねえぞ、ガキが」

 声と共にヨハンはまるでサッカーボールのように蹴り飛ばされた。

「ふご!?」

 蹴り飛ばされたヨハンの鼻から吐しゃ物が出る。さるぐつわで口から出れなかった吐しゃ物が鼻に回ったのだ。蹴られた痛みと鼻に吐しゃ物が詰まった苦しさでびくりびくりともがき続ける。

「チッ、面倒なガキだぜ」

 ヨハンを蹴り飛ばした男、ガラの悪い白人がヨハンに再び近づく。

「ん!? んごも!?」

 息ができず、苦しそうに暴れるヨハン。そのヨハンにしゃがんで手を上げる。

「ほらよ」

「げぼふ!」

 ヨハンは男に後頭部をひっぱたかれた。衝撃で鼻に詰まった吐しゃ物が噴き出る。息はできるようになったが目の前に火花が散る。

「ふが……、ぐ、うう……」

 ヨハンはただ弱々しく泣いた。

「よーし、いい子だ。最初からそうやっておとなしくしてればいいんだよ」

 そう言って立ち上がった男は腕時計を見る。時計の針はそろそろ十時を示すところだ。

「そろそろ来る頃だな」

 男は呟くと、声を張り上げた。

「てめえら、しくじるなよ!」

 返事はない。しかし、そこかしこで返事の代わりに武器を構える音がした。



 ●



 シュンレイは全力で走る。走りながら思う。無事でいてくれ、と。

「ヨハン――!」

 思わず声に出す。手紙の内容は簡潔なものだった。ただ、ヨハンを預かっている、そう書かれていた。あとはお決まりの文句だ。返してほしければ指定の場所まで来いと、そういうものだった。

「ヨハン――!」

 声に出しながら、シュンレイは駆けていく。あの小走りに去っていった女性、あれはヨハンの母親か何かだろう。ヨハンの家族も脅されているに違いない。

 あたしのせいだ――!

 心の中で謝罪する。

 あたしに近づいたからヨハンが狙われたんだ――!

 いつしか涙も流れていた。

 ごめん、ヨハン――!

 走り行くシュンレイ。しかし、その行く手を遮るように出てきたスクーターがあった。煙児だ。

「――!」

 煙児はシュンレイの前に滑り込むとそこで急停車。しかしシュンレイは構わず突破しようとした。

 煙児が抱きとめるようにシュンレイを捕まえた。

「離して!」

 シュンレイの叫び。しかし煙児はそっけない。

「帰るぞ」

「やだ! やだ!」

 シュンレイはそれでもなお、振りほどいて前に出ようとする。

「ダメだ」

「嫌だよ! あたしの、あたしのせいでヨハンが――!」

 煙児はしかし、それでも静かに否定した。

「ダメだ。お前が行けば奴らの思うつぼだ」

「じゃあ――!」

 シュンレイの動きが止まる。

「じゃあ、どうしろっていうの……?」

 泣き顔。それを煙児の胸に押し付ける。

「あたしのせいで危険な目にあってる、なのにあたしは行っちゃいけないの……?」

 その声に対する煙児の答えは、しかし残酷だった。

「お前は弱い。お前が行っても助けることはできないだろ」

「――!!」

 勢い、顔を上げてシュンレイは叫ぶ。

「じゃあ、じゃあ煙児が助けてよ!!」

 そう叫ぶシュンレイはしかし、煙児の言いたいことはわかっていた。

「俺が助けに行く間、誰がお前を守る?」

 予想通りの答え。それはもう、この事態になってようやくだがシュンレイにはわかっていた。うつむき、涙する。ヨハンを追い返していた煙児。自分を弱いからと言った煙児。すべてはだったのだ。

「煙児、ねえ。どうしたらいいの……?」

 泣き崩れるシュンレイに、煙児は頭を掻いて見せた。

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