第16話 横浜中華街にて
美市から電車などで2時間かからず。その街の見た目は異国情緒にあふれているが、実際は美市からあまり離れていない場所、それが横浜中華街だった。
朱色と金色の独特な色合いとデザインが見る者を圧倒する、関帝廟。その入り口で渡された名刺を頼りに道を確認する女がいた。マリエ、マダム・ローレライのボディーガードだ。
「この近くですね」
マリエは名刺の裏に書かれた地図に従って歩く。その歩みが向かう先は大通りではなく、横へそれる小道へと進んで行く。小道は狭く、土産物屋が軒を連ね、色とりどりのチャイナ服などが目を引く。その道の半ばにその店はあった。
「
好吃とは美味しいという中国語で、菜館はレストランのことだ。つまり、美味しいレストラン。なんとも陳腐な名前と言う他ない。店構えは開放的で、一階は折り畳み式の壁を開放した外から丸見えの店だった。奥に狭い階段が見える。二階席もあるようだ。食事時ではないからか閑散としており、店員らしき恰幅の良い中年女性が小さな丸テーブルで新聞を読んでいる。
マリエはためらわずに中へ入った。店員の女性は新聞から顔も上げない。しかし、マリエは特に注目を引こうともせず、ただ普通に話しかけた。
「すみません、うなぎを持ち帰りでお願いします」
その言葉を聞いて、初めて店員が顔を上げる。
「かば焼きでいいかい?」
女性の言葉に、しかしマリエは首を振る。
「揚げ物でお願いします」
「あいよ、少々まっとくれ」
言うと店員は立ち上がり、厨房に向かって叫ぶ。中国語だったのでマリエにはわからなかったが、今の会話で良かったはずだ。
やがて店の奥から豪快な油のはねる音が聞こえる。旨そうな匂いも漂ってきた。どうやら本当に調理しているらしい。その間店員はずっと新聞を読んでおり、マリエは立って待たされるままだった。
確かに符合通りのやり取りだったはずですが――。
マリエは少し心配になった。あらかじめローレライから聞いていた符合。それはこの店である人物に合わせてくれるという趣旨のものだったはずだ。しかし、うなぎの調理は続き、マリエは待たされるだけだった。
美味しそう――。
ローレライに頼まれた使いだが、まだ昼食を摂ってなかったマリエの胃袋には刺激的な匂いだった。
やがてうなぎの揚げ物ができたらしく、紙袋に無造作に入れられたそれを厨房から出てきた料理人が店員の女性に渡した。
「はい、美味しいよ」
女性はそう言ってマリエに紙袋を渡す。封もされていないそれはマリエにとって悪魔のささやきだ。しかし、マリエの目的はうなぎではない。
「あの――!」
言いかけたマリエを店員はやんわりと静止した。
「二階だよ」
奥の階段を示す。店員はにっこりと笑っている。
「どうも、ありがとうございます」
ややぎこちなくなってしまった礼を言いながら、奥の階段へ向かった。
●
階段を上がった二階、そこはたいして広くもない普通のレストランという風情だった。やや天井が低いのが特徴的ではある。
マリエは用心深く、その場所へと歩を進める。
「――!」
悲鳴を上げる暇もない。なんせ気づいたときにはもう死んでいたからだ。
マリエの喉に突き刺さったフォーク。声帯ごと貫かれ、息を止められたまま意識を失い階段を転げ落ちていく。
そんな自分が見えた。
マリエはどくどくと唸る自分の心臓の音を聞きながら、隣の柱に刺さったフォークを抜いた。
「ずいぶんと荒々しい歓迎ですね」
落ち着いて声を出す。死んだ自分は幻だ。ただの食事用のフォークを殺人的な業で投げつけるその技量と、相手の類稀なる強力な殺意。そういったものが不意を突かれたマリエに自分が死んだと錯覚させたのだ。
「はっはっは」
マリエの声に、しかし二階の奥の席、窓際のそこに座る老人は、は、とも、か、とも聞こえるような笑い声で答える。
「死んだ自分を見て、なお相手に言い返す。肝の座ったお嬢さんだ」
マリエは老人に歩み寄り、フォークを返した。
「うむ。まあそこに座るといい」
老人の言葉に従い、テーブルの向かいに座る。うなぎの紙袋をテーブルの上に置いた。
「話は食べながらで良いぞ。うちのうなぎは旨いからな」
老人の歳は見た目から判断して七十は超えているだろう。だがそれに似つかわしくない茶目っ気のあるイントネーションだ。
「後でいただきます。それよりも、用件を先に済ませてください」
「やれやれ、真面目なお嬢さんだ」
そう言うと老人はお茶を一口啜り、話を切り出した。
「話は弟から聞いておる」
弟。それが誰だかマリエにはわかる。
「ではあなたがウェンロン様の兄上の、リーロン様ですね」
「その通り。しかし様なんぞ付けられるとこそばゆいのう」
ウェンロン、先日ローレライに呼び出された老人だ。
「ウェンロンの奴はどうだ? ちゃんとやってるか?」
「はい。ウェンロン様はローレライ様が斡旋されている賞金稼ぎの中でも優秀な方ですので」
「そうかそうか。ま、安心だな」
ふう。と、一息つくリーロン。そして話を戻す。
「さて、短剣の入れ墨だったな」
マリエの顔が真剣なそれになる。
「詳しくはワシにもわからん。だが――」
だが。
「その入れ墨が何のためにあるかは、見当がつく」
「それは――?」
マリエは急かす。リーロンはしかし、髭をしごいて窓から遠くを見た。
「移民というのは、大変なんだよ」
急に語りだしたリーロンの声に、しかしマリエは耳を澄ます。この老人の言葉こそが、入れ墨の正体に近づくものであるはずだからだ。
「他人がすでに住んでいる土地に分け入り、そこに自分たちが住める場所を作り、なじみ、そして生きていく――」
リーロンの目がかすかな郷愁を帯びた。
「そうしてその土地に、自分たちだけの新たな文化を作り上げていくのだ」
「文化……」
マリエの反芻するような声に、リーロンはうなずく。
「そう、文化だ。元からそこにあった文化と自分たちが持ち込んだ文化。それがひとつになって、また新たな文化が生まれていく」
それは移民の流れ着いた土地の数だけの新たな文化が出来上がることを示している。
「そして生まれた文化を守るために、その土地の住民となった者たちは結束していく」
リーロンはそう言うと、右の腕をまくった。
「これを見なさい、お嬢さん」
「それは――」
リーロンの右腕、その二の腕には入れ墨があった。しかしその入れ墨は短剣のマークではない。リーロンの入れ墨は蛇のマークだった。
「これは短剣の入れ墨ではないが、たぶん似たようなものだ」
リーロンの言葉。マリエは聞き逃すまいと集中した。
「これはな、
「暗殺者……」
リーロンは入れ墨を仕舞って続けた。
「先ほども言ったように、移民がそこに根付き、独自の文化を作ることは実に大変だ。その作業の中で、自分たちを守るためにも、どうしても戦いは避けられない」
暗殺者、戦い。マリエの心の中に少しずつだがおぞましい想像が膨らむ。
「ゆえに中国の移民もその土地その土地で戦わざるを得なかった。そのために戦いの手段として中国武術が使われたのはよくあることだったのだ」
もともと武術が盛んな中国からの移民だ。戦いに中国武術を使うのはごく当たり前のことだろう。
「中国の武術は徒手空拳から様々な機械術、道具の扱いまで様々にある。特に暗器は恐れられた。武器を持っていない人間が、次の瞬間恐ろしい凶器を持って襲い掛かってくるのだから」
マリエは煙児を思い出す。煙児の極められた暗器術。それは確かに戦う相手にとっては恐怖でしかない。武器を持たぬ無力な人間だと思っていたら、どんなものでも凶器として扱うのだから。そんな人間が他にも日常に潜んでいると思えばそれは恐怖でしかない。
「そうして中国移民の暗殺者はハッチャットマンと呼ばれて恐れられたのだよ」
リーロンは一旦話を区切った。茶を啜って先を続ける。
「しかしな、これは仲間内でも恐怖であったのだ」
「仲間内――。移民同士で、ということですか?」
マリエの問いに、リーロンはうなずく。
「それだけの力を持った人間だ。仲間内でも恐れられてもおかしくはあるまい。だがそれではやはり不便なのさ。それでこの入れ墨だ」
リーロンは自分の入れ墨を服の上からさすった。
「これは自分がハッチャットマンであり、その上で同志を傷つけるつもりはないという表明のようなものなのさ」
つまり――。
「つまりこれは、ハッチャットマンの所属を表すものなのだ」
ハッチャットマンの所属。それはつまり短剣の入れ墨はどこかで作られた中国移民文化によるハッチャットマンの組織があることを示唆する。
「ではあの短剣の入れ墨は――!」
焦るマリエを、しかしリーロンは手で静かに制した。
「最初に言っただろう。ワシにも詳細はわからぬと」
マリエはやや浮き気味になった自分の腰をゆっくりと戻し、座り直す。
「ただ、この短剣の入れ墨を符合とするハッチャットマンの組織が存在し、それはそのマフィアとは別の存在だと考えるべきだろう」
その言葉で、リーロンの話は締めくくられた。
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