第11話 死闘

 逆さに吊られたシュンレイはあられもない姿だった。吊るされている右足はまっすぐに伸び、左足は真横に開脚している。逆さになって半ばめくれ上がったスカートを抑える手はしかし、今は胸を抱いていた。上半身のシャツはもうないも同然だった。ブラジャーなどすでに飛ばされている。顔が赤いのは恥ずかしさか泣いているからか、はたまた吊るされていることによるものなのか、もうわからない。ただ、最初についた傷以外に傷は一つもない。幸いではあるがそれは男の技量を示しているようでシュンレイには癪に思えた。

 胸を抱いたまま、涙で腫れた目を男に向ける。悲しみも、恐怖もまだある。涙も止まらない。だがそれ以上に、この男が喜ぶのが悔しかった。

「ふむ。上半身にはない、か――」

 意味のわからないことを男が呟く。しかし、男は一瞬訝しんだその顔を、再び邪悪なものへと変化させた。あからさまに下劣なものが感じられる笑顔。シュンレイはこの先何をされるかがありありとわかった。

「ふふ、じらすのも終わりにするか」

 男がワイヤーを振るった。ワイヤーの先端、そこにつけられた小さな錘。それは風を切り裂いてまっすぐにシュンレイの下半身へと飛び行く。

「――!」

 声にならない悲鳴。ワイヤーはスカートではなく、その下から覗く下着、それも開脚した足の付け根すれすれを引き裂いて飛んで行った。

「……!!」

 ひやりとした感触が下半身を襲う。それは寒空の空気であり、同時にシュンレイの恥ずかしさと恐怖がないまぜになったものだ。

「ふ、ははは」

 唐突に、男が笑う。

「まさかこんなところに隠しているとはな――」

 男はシュンレイの下半身を見つめる。そこにはくっきりと、短剣の入れ墨があった。

「――!」

 シュンレイは呻く。怖い、苦しい、恥ずかしい、様々な感情が渦を巻いた呻き。そして最後に、言葉が出た。

「煙児――」

 祈るような言葉。それは助けを呼ぶでもなく、ただこの状況で自分がを想像したときに浮かんだ名前だ。その名前に対して謝罪を込めた、祈りの言葉だ。

 ごめん、煙児――。あたし――、あたし――!

 心の中、強く思ったそのとき。

「きゃ!?」

 急にシュンレイの体が落ちた。右足を縛っていたワイヤーが突然切れたのだ。

「誰だ!?」

 シュンレイよりも早く誰何の声を上げたのは男だった。

「ぬ――!?」

 しかし、男に答える声の代わりに飛び来たものは石礫だ。鋭い、石礫というにはあまりにも鋭いそれを男はすんでのところでかわす。男の背後、暗闇の中で甲高い音が響く。壁か何かに礫が当たったのだろう。それは石が砕けるというよりも、穿音だった。

 かわした男のシャツ、その胸の部分が鋭利に切り裂かれている。普通の礫ではないことは明らかだ。しかしそれに驚いている男ではない。すぐさまワイヤーを礫が飛んできたほうに向かって飛ばす。しかし、飛ばした先の闇から返ってきたのは思いもよらぬ感触だった。

「なに!?」

 撃ち抜くつもりで飛ばしたワイヤー。だが、実際には飛ばしたその先が逆にこちらを引っ張っている。

 次の瞬間、男を引っ張っていたワイヤーが大きく左へと力の方向を変えた。

「く――!」

 男はたまらずワイヤーを離す。男の手から解放されたワイヤーは左方向に生えているやや大きな木の幹に吸い込まれていく。その幹にはワイヤーの先を絡めた鉄の棒が突き刺さっていた。鉄の棒、それは引きちぎられたかのような細いパイプだった。

「現代的なワイヤーだが、その実使い方は流星錘りゅうせいすいか――」

 男に対してシュンレイを挟んだ逆方向の闇から、えんじ色がにじみ出る。

「やってくれるじゃねえか、大道芸野郎」

 煙児だ。

「煙児――!」

 シュンレイが顔を上げる。その顔は涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだった。そんなシュンレイを覆うようにえんじ色がふわりと飛んだ。

「そいつを被ってろ」

 煙児は甚平を脱ぎ捨てながら、男に向かって歩いていく。

「暗器の煙児か。目にするのは二度目だな」

 男が言う。

「ああ、俺も二度目だぜ、タコ男」

 約三メートル。それだけの距離を開けて煙児は足を止めた。

「ふん、怒っているのか?」

 タコ男の台詞に、しかし煙児は動じない。

「変態タコ入道のへらへら面よりはましだね」

「貴様――!」

 タコ男の腕がしなる。ワイヤーが煙児めがけて飛んだ――。



 ●



 空気が唸る。それは空気を切り裂く手刀だ。普通の手刀とはやや違う。腕をまっすぐに伸ばし、まさに断ち切るかのように振るう。恐ろしい威力を秘めたそれは、空気を唸らせカタメへと振り下ろされる。速い。普通の人間が対応できるスピードではない。しかし、カタメはそれを受け止める。いや、正確にはいなしている。警棒の腹で手刀を横から抑え込み、その軌道を変えて作った安全圏へ体を滑り込ませる。手刀も人間業ではないが、それをいなすカタメも人間離れした業だ。

 いなされた手刀が、その手刀の形のまま今度は切り上げてくる。しかしそれもカタメはいなす。いなしながら距離を取った。相手、マフィアの男に向けて警棒を構え直す。その構えは警棒を両手で握り、切っ先を相手に向ける隙の無い構え――。

「正眼、か――」

「!」

 マフィアの声に、カタメは少々驚いた。

「剣道、いや、お前の業は剣術に近いな」

「イタリア系マフィアにしてはよく知っているな……」

 カタメはやや焦る。

。まさに言葉通りだ」

 日本刀の側面、そこをしのぎと言う。刃を潰さぬようにしのぎで相手の刀をいなす。それが剣術の防御法だ。

「……」

 カタメの顔にわずかな焦りが浮かぶ。

 奴は剣術について知っている。だが――。

 カタメはマフィアの使う業の正体を知らない。武術において相手の手の内を知ると知らぬでは勝敗に大きく差がつく。

 どうする――?

 ただでさえ人間離れした相手だ。いかにカタメが剣術の達人であろうが、相手の手の内を知らぬのでは戦いようがない。現にカタメは相手の業を防ぐので精いっぱいだ。

「ふ――」

 マフィアの呼気。同時にそのまっすぐな手刀が横から襲い掛かる。水平に飛び来るそれを、カタメは両足の力を抜いてかわす。均等に体重をかけられた両足の力を抜けば、即座に体は手刀よりも下へと沈む。だが、それはマフィアの狙い通りだ。

「――!?」

 蹴り。端的に言えばそれだ。手刀と同じく、まっすぐにのばされた足をそのまま、まるでバレエか何かのように突き上げる蹴りだ。しゃがんだ勢いのまま、蹴りに直撃するコースへとカタメが入っていく。

「おお――!!」

 さらに、マフィアの軸足がつま先立ちになる要領で床を蹴る。突き上げる蹴りの速度が猛烈に加速した。

「ふううう――!」

 カタメがとっさに取った行動は、だった。

「なに――!?」

 正座をすることでカタメの下半身がコンパクトに縮む。それによって起こるのは床への落下速度の上昇、そしてだ。マフィアが予測していたよりもはるかに低く、カタメが落ちる。

「く――!」

 マフィアの蹴りは宙を穿つ。そこにはもうカタメはいない。その蹴りの下、正座したままで、カタメは落下速度を保ったまま体を前に倒す。

「つあああああああ!!」

 落下するすべての速度と自重を込めた警棒を床すれすれに振りぬく。狙いはマフィアのつま先立ちになった軸足だ。つま先立ちになり、半ば宙へ浮き始めている軸足は無防備だ。カタメの全身の力を込めて振り払われる警棒。

「――!」

 無言の気合。マフィアの体が、蹴りの上昇力をそのまま使って胸を中心に空中でかがむ。結果として軸足が浮き上がり、カタメの全力を寸でのところでかわした。

「ちぃ――!」

 カタメはそのまま振りぬいた警棒と共に体を斜め前方へ弾けるように投げ出す。高速で離脱した勢いで床を転がり、転がりながら反転。その勢いのまま立ち上がり、再び正眼に構える。構え直したカタメの目の前には、マフィアがいた。床を砕いたかかとをそのまま引き戻し、ゆっくりと、しかし用心深く振り向く。その顔に浮かぶのは愉悦。壮絶な微笑みを浮かべている。

 こいつ、楽しんでるのか――!

 カタメの心の声に応えたかのように、マフィアが喋る。

「素晴らしい。実に素晴らしい」

 ゆっくりと手を叩く。

「君がこれほどの使い手とは思わなかったよ。渡されたファイルには剣道有段者としか書いてなくてね。いやまさか剣術、それも狭い空間を想定した特殊な暗殺剣とは。素晴らしい!」

 カタメの顎から、汗が零れ落ちる。

「褒めてもらえて光栄だが、そろそろ終わりだ……」

 署長室の外から重い足音が幾重にも聞こえる。応援、重武装の特殊警察隊が来たのだ。

 カタメは安堵した。今の正座からの一撃は虎の子だ。相手が単純な剣術と思っている間に仕留める最後のチャンスだった。このタイミングで特殊警察隊の到着はありがたかった。

「ふむ。無粋だな――」

 マフィアは言う。

「せっかくの素晴らしい戦いを邪魔されるとは」

 まったくもって仕方ない。マフィアの動きはそんなジェスチャーを含んでいる。

「では君との戦いはまたチャンスがあると信じよう」

「貴様、逃げられると思って――!?」

 瞬間、署長室が爆発した。



 ●



 ワイヤーが煙児めがけて宙を裂く。しかし煙児は冷静だ。片足の力を抜いて体を傾ける。そうすることでワイヤーをかわす。だがこのワイヤーはただのワイヤーではない。流星錘だ。

「ふん――!」

 タコ男の手元から伝わる力によってワイヤーが刺突から横なぎへと変わる。それでも煙児は冷静さを失わない。横なぎに迫りくるワイヤーに対して、左の腕を盾のように差し込む。ワイヤーが左腕に当たると同時に煙児に巻き付くべくさらに軌道を変え始める。しかしその瞬間、煙児は左腕を大きく外側に回した。ワイヤーの軌道がそれによって横から縦へと変わっていく。結果、ワイヤーは煙児の左腕だけを捉えた。

「俺をなめるなよ――?」

 そう言ったのはタコ男だ。このワイヤーはタコ男の武器。扱いなれたタコ男なら捉えたのだ左腕だけでも十分だ。

「はあ――!」

 気合と共にタコ男が大きく後ろにワイヤーを引く。その恐ろしいほどの力はワイヤーを伝わり、煙児を大きく手前に吹き飛ばす――。はずだった。

「な、なんだと……!?」

 煙児は吹き飛ばされず、そこに立っている。いや、正確にはワイヤーの引きと同じだけ前に歩を進めている。

「どういうことだ!?」

 タコ男が左右へワイヤーを引く。しかし、やはり煙児は吹き飛ばない。ただ、引かれた方向へ同じように軽く歩み寄っている。

「流星錘を使うなら、擒拿きんな聴勁ちょうけいをもっと修練すべきだな」

「く、こいつ!」

 怒りに任せてタコ男がワイヤーを捨てた。そのまま煙児に向かって飛び出す。しかし――。

「うお!?」

 飛び出した瞬間、ワイヤーに足を取られた。ワイヤーを操っているのは煙児だ。

「馬鹿かてめえは。俺は暗器の煙児だぞ?」

 暗器とは、本来身の回りのものすべてを武器として使えるように修練する武術であり、機械術きかいじゅつ、専用の道具を使った戦闘法のみの事ではない。しかし、俗に暗器と呼ばれるそれらの武具を使いこなすのもまた暗器の術の内である。

「クソ!」

 タコ男が地面の土を投げつける。それもお見通しとばかりに煙児は避けるが、その隙をついてタコ男の足が煙児の束縛から逃れる。まさにその柔軟性はタコのごとくだ。

「ほお、なるほどな。まさしくタコ男ってことか」

 だが煙児に焦った様子はない。

「く、これ以上は無理か――」

 タコ男の呟き。しかし、煙児は逃がさない。

「逃げられと思うなよ!」

 煙児のワイヤーが飛ぶ。しかし今度はタコ男を捉えることは出来ない。ワイヤーが絡まるそばからぬるりと抜けてしまう。

「残念だな! あばよ――!」

 ワイヤーから抜け出しつつ走り始めるタコ男に、しかし煙児は落ち着いてワイヤーを飛ばす。ワイヤーがタコ男の右手を捉える。

「無駄だ――!?」

 タコ男が右手を引き抜いた瞬間、タコ男の足が止まった。

「ぐ、あ――!!!?」

 タコ男の頭を、ワイヤーではない、ひもが捉えていた。

「悪いな、自分用の流星錘ってのもあるんだ。さすがに頭蓋骨はタコみてえにはいかねえだろ」

 言うと、煙児は赤い流星錘を引き寄せる。タコ男が地面に倒れた。

「くそお――!!」

 タコ男がひもに手をかける、それよりも早く、煙児が飛んだ。そしてそのまま、タコ男の

「――!!」

 ぐしゃり、とも、ごきり、とも聞こえる不快な音。タコ男は痙攣した後動きを止めた。ぴくりとも動かない。

「殺した、の――?」

 シュンレイが問う。しかし煙児はやるせなく答えた。

「いや、顎を砕いただけだ。気絶してる」

 殺したいのはやまやまだが――。その台詞は飲み込んだ。

「良かった――」

 シュンレイが言うとともに、煙児に抱き着いて泣き出した。

「良かったよおおおお! 煙児いいいいいい!!」

「おい馬鹿、人の服に鼻水を付けるんじゃねえ!」

「だってえええええええー!!」

 煙児はシュンレイをなだめる。

「わかったよ、わかったから泣くな。ほら」

 シュンレイを抱き寄せる。片手だけだが、煙児の精一杯だった。その時――。

「――!?」

 そう遠くはないところで、爆発音が聞こえた。

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