第4話 マダム・ローレライ
狭い部屋だ。何もないただの狭い部屋。あるものは小さな窓と入り口のドアだけ。木造の床に窓からさした光が、今の時間が遅い朝だということだけを知らせる。
「……」
その部屋の中に、独特なポーズで寝そべる男、煙児がいた。
「……、ふう――」
腹式の呼吸。その呼吸と共に煙児の額を汗が流れる。煙児のその寝そべるポーズは、いや、これを寝そべると言っていいのだろうか? 右の肘を床に立て、その手で頭を支える。体はまっすぐで、伸ばした右足は宙に浮き、左の足だけが座禅を組むような形で三角を作り、床に立っている。左腕は背中に回し、そのまま微動だにしない。まるで座禅を組みながら無理やり横になったような姿勢で、床についているのは右ひじと左足だけだ。
「ふう――」
呼吸音。煙児はそのままピクリとも動かず、ただ時間と汗が流れて行く。
いったいどのくらいの時間が経っただろうか? 時計すらないこの部屋で、傾いていく日差しだけが時の流れを紡いでいく。と、唐突に部屋のドアが開いた。
「やっほー、煙児ー」
勢いよく開いたドアから緑と褐色のコントラストが入ってくる。シュンレイだ。
「ふう――」
しかし煙児は何も言わない。それどころか入ってきたシュンレイを見るでもなく、目を閉じ、ただ意識を集中させている。
「今日も鍛錬?」
煙児の顔の前に回り込み、膝を抱えて座るシュンレイ。
「ああ」
煙児はそれだけを答えた。今や額どころか全身に汗をかき、床に小さな水たまりをいくつも作っている。
「ふーん」
シュンレイは膝を抱えたまま、煙児を見つめ続ける。
「
それを最後に会話が終わる。二人はしばらくそのまま、ただ動かずにそこにいた。煙児を見つめるシュンレイの顔は、ただ笑顔だった。
●
昼下がり、ようやく寝そべったポーズから自分を解放した煙児とシュンレイは昼食を囲んでいた。たいして広くはないが、狭くもない。そんなリビングに最低限置かれたテーブルとテレビ。そこは煙児の家だった。
「煙児も何か食べるー? いろいろ買ってきたよ?」
昼食と言っても食べているのはシュンレイだけ。コンビニで買ってきたサンドイッチを齧り、机の上にはおにぎりも並んでいた。対して煙児はコーヒーを啜るだけだ。
「いらん。昼はあまり食わん主義だ」
煙児はもともと朝と夜の二食を基本とした生活をしている。これは特に理由はなく、本人の体質的な生活習慣だ。
「そっか。じゃあ余ったおにぎりは冷蔵庫に入れておくから、好きな時に食べてね」
シュンレイの言葉はまるでこの家が自分の家であるかのようだ。
「それ以前になんでお前がここにいる?」
ここは俺の家だ。そう視線で伝えるが、シュンレイは全く気にかけない。
「オーナーから言われてるもん。たまに様子を見てあげてねって」
鉤だって合鍵もらってるしー、とシュンレイは付け足す。
「大塚め、余計なことをしやがる」
大塚はオーナーの本名だ。しかしそんなことを口にする煙児の態度はシュンレイを拒絶するものでもなかった。
「人の好意には素直に甘えるんだよー?」
シュンレイはそう言いながらも、煙児がこれらの好意を無碍にしていないことはわかっていた。
「やー、朝から結構食べちゃった」
ごちそーさま。そう言ってシュンレイはテーブルのごみを片付け始める。もはや昼下がりなのだが、彼女にとっては朝食だった。深夜まで働く人間としてはよくある話だ。テーブルの上を片付けたシュンレイはおにぎりをもってキッチンへ向かった。煙児はテレビをつける。目的はニュースだ。
「――近年の日本人の肥満増加傾向に対し、糖分の取りすぎが問題視され――」
テレビを付けるなり報じられていたニュースに、煙児は舌打ちをする。
「酒だ煙草だ、そういうもんを禁止するからだろうが……」
小声でつぶやく。酒や煙草などが禁止、あるいは制限されたおかげでうなぎのぼりなのが菓子産業だ。多くの人間が酒と煙草の代わりを求めて甘いものへ手を伸ばした。結果として菓子産業は順調に業績を伸ばし、消費者は糖分を取りすぎる結果となっていた。
ニュースは続いて街角インタビューに変わっていく。肥満に対して質問される人々は、明らかに日本人ではない人種も多い。だが、“日本人の肥満増加”というニュースは何事もなく報じられていく。
「ふん」
煙児は軽く鼻を鳴らした。
「煙児は外国人、嫌い?」
キッチンから戻ってきたシュンレイが口にする。シュンレイ自身、日本人ではない。出身はベトナムだ。だが、“日本国籍は持っている”。
「別に」
煙児は短く答えた。
「ならいいけど!」
シュンレイはちょっと強めの語調だ。不機嫌ではない、否定されなかった安心と、煙児を信頼しての喜びによるものだ。シュンレイが再びテーブルを囲んで座る。と、同時に煙児の携帯が着信を告げた。
「……仕事が入った」
通話に出るまでもなく、煙児は言う。着信表示にはマダムとだけ書かれている。
「えー!」
シュンレイの明らかに不満を主張する声。だがそれをものともせず、煙児は携帯を手に取った。
「俺だ」
ほんの少し相手の言葉を聞いた後、わかったとだけ答えて通話を切った。
「行ってくる」
ぷう、と頬を膨らませるシュンレイに目も向けず、煙児は家を出て行った。
「煙児のばーか」
叫ぶでもなく、しかし強い不満を込めてシュンレイは呟いた。
●
カフェバー『フェルシガーバーグ』。大通りから少しそれたところにその店はあった。欧風の落ち着いた店構え。ランチタイムも終わりに近づいた店内は空いていて、ウェイトレスが手持ち無沙汰に立っているのが窓から確認できる。煙児は迷いなく、その店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ! おひとり様ですか?」
「ああ。二階席、奥の部屋を頼む」
「かしこまりました。少々お待ちください」
そう言ってウェイトレスが厨房の奥へ入っていく。そこで煙児は店内の隅、天井付近を見る。そこにあるのは防犯カメラだ。煙児はしばらく防犯カメラを見つめる。すると店内中央付近に向けられていたカメラが、明らかに煙児の方を見た。
ウェイトレスが戻ってくる。
「お客様、二階へどうぞ!」
ウェイトレスに案内され、厨房横の階段を上がる。二階は個室になっていて、狭い廊下に扉が並んでいた。ウェイトレスとともに一番奥の部屋へ向かう。奥の部屋、そのドアの前でウェイトレスは立ち止まる。
「マダムがお待ちです」
ウェイトレスが先ほどとは違う、静かな口調で告げた。煙児は遠慮なく、慣れた風でドアを開けて入っていった。
●
「待ってたよ、煙児」
部屋の中には大きなソファーに身を沈める、ソファーに劣らず大きな女性がいた。
「また太ったんじゃねえか? ローレライ」
ローレライと呼ばれた女は口を不満げに下げ、ため息のように言葉にした。
「ピスなんかで膨らむよりは砂糖菓子で膨らんだ方がましさ」
煙児は肩をすくめてローレライの向かいに座った。
「仕事か?」
煙児の言葉に、ローレライはうなずく。
「カタメからタレコミがあってね。このヤマは相手が悪くて警察じゃ手に負えないらしい」
「ほう。こいつか?」
煙児は自分の頬に傷をつけるしぐさをする。ヤクザ者を表すジェスチャーだ。
「ただのヤクザじゃないよ。気を付けて行きな」
ローレライは何処から出したのか、フラッシュメモリを手に取ると、目の前のテーブルに置いた。煙児が手を伸ばす。
「ま、最近の警察はぬるいからな」
煙児の言葉に、ローレライはため息をつく。
「あんたが警察やめた理由、なんとなくわかるよ」
煙児は軽く笑った。それは寂しそうな笑みだった。外国人の大量受け入れから少し時が経ち、警察組織にも外国の人間が入るようになった。しかしそれはいいことではなく、警察という組織の質を落とす結果になった。いくら日本国籍を持っていたとしても、日本へのアイデンティティが欠けた人間を大量に採用したならば、警察という組織がどうなるかは自明の理だ。警察組織の質が下がった今、大きな犯罪組織に対抗できるものは少ない。そういった意味でも賞金稼ぎが世にあふれ、自治と犯罪の温床の両方を担ってしまったのだ。ローレライは信頼できる賞金稼ぎを集め、警察とのコネで情報を共有し、腕のいい賞金稼ぎに仕事を斡旋していた。警察の評判を落とすような仕事だ。表向きにはできない。
「一応カタメのところもこのヤマに関わるそうだけど、当てにはできないね」
「だからこっちにタレこんだんだろ」
「カタメもなんで警察に残ってんだか……。孤軍奮闘じゃないか」
ローレライの言葉に、煙児は肩をすくめて笑った。苦笑いだ。
「あいつは責任感が強い奴だからな。残って守らなきゃならんと感じてるのさ」
「はあ」
ローレライはため息をつく。カタメも、煙児も、馬鹿ばかりだ。
「ローレライ、入れ墨の方は何か進展あるか?」
ほら、馬鹿な奴が馬鹿な話だ――。
そんなことを思いながら、ローレライは答える。
「特にないよ。カタメもあたしも手掛かりはつかめてない」
「そうか」
もともと期待はしていない。そう表情を作りながら、内心で落胆する。
「あんたもいい加減、諦めたらどうだい? 首筋に短剣の入れ墨なんて、それだけじゃ探しようがないよ」
煙児はあの夜、喫華とホテルへ入った男を探し続けている。喫華を殺した犯人はまだ捕まっておらず、動機もわからない。ただ、煙児が見た入れ墨の男の目撃証言だけが頼りでしかなかった。
「引き続き入れ墨については情報収集を頼む」
それだけ言うと、煙児は席を立った。部屋から出ていく煙児に、ローレライは呟く。
「カタメもあんたも、日本人は馬鹿な奴ばっかりだよ」
煙児は何も言わず、肩をすくめて扉を閉めた。
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