第170話 ビッグ・フィッシュ
牢獄に鈴が鳴る。
残響のような澄んだ音が二呼吸の間残り、
まるで熱い水を体内に流されるかのように、魂の輪郭が
「俺は継承権を放棄し、かつてターウだったアルファルドを滅するために、兄上にあらゆる力を貸し与えよう」
アンリが鈴に誓約を交わす。
「私は王位を奪い、アーンウィルの民と拝月騎士団を生涯に渡り保護し、アンリをあるべき場所で滅しよう」
ヨワンが鈴に誓約を交わす。
聖鈴が音叉のように揺れ、不可視の感覚が魂を揺らす。
得も言われぬ充足感がヨワンを襲い、現実感が刹那、薄れた。
「これで誓約は成されました」
「これからどうするのだ?」
「あと十日ほどありますし、王都観光でもしようかなと」
王都の、観光?
ヨワンは人生において一度たりとも聞き間違えなどしなかった。
だがこの時、この言葉は何かの聞き間違えなのではないだろうか、と思わず疑ってしまう。
「秘密裏に経営している娼館がある。そこでなら姿を隠すに適しているだろう。私が手配しよう」
「女遊びをしたと勘違いされれば、元婚約者が悲しむんですよね……いや、むしろダメ男だったと見放して貰えるかも……うーん、兄上はどう思います?」
「知らぬ」
「冷たい。血と誓約を交わした弟に向かって、なんて冷たい」
檻から出るヨワンにアンリが続く。
歩を進めれば看守や衛兵が平伏し、子犬のように震えていた。
「今日、この時、この場では何もなかったと心せよ」
返事の声は誰からも返ってこない。ただ伏して許しを請うのみだ。正しく賢明な彼らは、正しき選択をしたと言えよう。
この場に不釣り合いな王子二人は揃って牢獄を出て、日の光に晒される。
「いい天気です、兄上」
第三監獄の前は大きな川が流れている。
庶民は「ボースハイトに逆らった政治犯が夜な夜な魚の餌にされている」と口々に噂しており、なるほどそのせいだろうか釣りをしている者が多い。
さぞ大きな魚が釣れるのだろう──とヨワンはほくそ笑んだ。
それにその噂には語弊がある。魚ではなく〝豚〟の餌にしているのだ。滅多にしないことだが、そういった処理は時には必要となる。
「お爺さん、釣り竿二本貸して下さい」
アンリが川べりの老爺に声をかけている。
老爺は三本の釣り竿を石で固定して置いており、アンリはそのうちの二つを指差していた。
どうやら目が悪いようで王族だとは気づかなかったようだ。手に銀貨を握らせられた老爺は儲かったと喜んでいた。
「どうぞ」
アンリが釣り竿を一つ差し出してくる。
ヨワンは言葉の真意が掴めず、目を瞠目させた。
「兄上は遊んだことがありますか? 俺はありますけど」
「平民のように遊んだりはせぬ」
真意──釣り、釣り竿、それが二本。
故事に曰く、ある賢人は釣りをしながら時を待ち、あるべき時に力を発揮して偉業を成し遂げたとある。一つの釣り竿は自身が楽しむため、もう一つは話し相手を誘うために用意したとも言われていた。
そういった暗喩を含んだ提案なのだろうか? とヨワンは小首を傾げた。
(なるほど、まだ策があるというのか。戯れに聞いてやろう)
二人の王子は揃って腰を川べりに下ろす。
白煉瓦で整備された川べりはそれなりに清潔で、服が汚れる心配はさほどない。
アンリは針に虫を付けて、釣り竿ごと渡してきた。
ヨワンは作法を知らぬのでアンリのやり方を真似る。
アンリはグレートソードを担ぐようにして肩に竿を掛け、遠心力で振り抜く。まず一つポチャンと着水の飛沫が上がり、少し遅れてもう一つ。
すると長閑で何も考えてないかのような風が、ヨワンの頬を撫でた。
「トゥーロン兄上とは釣りをしなかったのですか」
「あいつは好きだったが、私はそうではなかった。それに父王の目もあった」
「そうですね……俺も釣りを覚えたのは、王宮を出てからです」
浮きはピクリとも動かず、何も釣れはしない。
なるほど、時を待て──という事なのだろう。
それがこの話し合いの肝だと、アンリは告げているのだ。
「祖父上を殺したのアルファルドで、俺は助けようとしたけど、俺を恨む者のせいで出来なかった。それに手招きをしたのは釣りを教えてくれた人です」
「そうか」
「因果を辿れば俺の馬鹿さがあります。けどもっと辿れば、祖父上とターウの因果があって、その先は三千年分も続いている」
「それが王家の──アルファルドの罪だ。私たちはさながら因果の終着点に立っていると言えよう」
終わらさなければいけない。
そうでなければ、人間種は箱庭に放たれた虫から進化できない。目の前に流れる川が全てだと信じている魚と同じ、哀れなものになってしまう。
「……! …………っ!!」
後ろで小さな足音を聞き、ヨワンは首を後ろに向けた。
第三牢獄に向かって走る少女はカルラで、薬籠を必死に抱えていた。
(不味い、見られるわけには……!!)
部下に遊び姿を見られるなど……恥の中でも最上位の恥であろう。
ヨワンは王家の誇りを守るべく、老爺の帽子を奪い、姿勢を低くした。
「え、いきなり……何ですか? 気持ち悪い……」
アンリが可愛そうなものを見る目つきをして、ヨワンにそう言った。
「黙れ。部下がいるのだ」
「ああ、あの子。薬籠……なるほど俺と会った兄上が怪我をすると思ったのですね。王宮襲撃の夜のように」
「やはりアレは貴様だったか。殺してやりたい気分だ」
「そのうち殺すんですから、今は我慢してくださいよ」
だが、負けて見えた景色というのは確かにあった。
それはそれとして腹が立つのには違いはないのだが。
「そこの少女。こちらに兄上がいるぞ!」
アンリが大声を出したので、ヨワンは正拳突きを腹部に入れた。
カルラは顔をぱあっと明るくさせ、駆け寄ってくる。
「……初めまして……君の、名は?」
アンリの息も絶え絶えな問いかけ。
カルラは当然だが答えられない。
「そんなに走ったら喉が乾いただろ」
アンリは水筒を手渡し、カルラは深く礼をしてから喉を潤した。
「あ、……あ、あ、れ? 声、が……」
するとカルラが、声を取り戻した。
掠れてはいるが、年相応に幼い少女らしい声だ。困惑と歓喜の中間にいるであろうカルラは、ヨワンをじっと見ていたが、俯いてアンリの後ろに隠れてしまった。
「古代の治癒ポーションか……現物を見るのは初めてだが、何という薬効か」
「ええ、水筒の底のボタンを押すと中の袋が破れて、中身が混ざるんです。友達が毒殺用に貸してくれたんですけど、毒は持ってなかったので」
カルラはヨワンに姿を見せようとしない。
怪訝に思ったアンリがこそこそと話しかけていたが、ヨワンまでは聞こえてこない。ときおり鼻をすするカルラは、どうやら泣いているらしい。
「……声を取り戻したら、兄上に捨てられるって言ってますけど? 人の性癖をとやかくいう気はありませんが……可哀想では……?」
「殺すぞ」
「なんて強い言葉……多分行き違いがあると思うんですけど……」
すすり泣きがまだ聞こえてくる。
アンリは困り顔で少女を慰めようとしているが、上手くはいっていない。
「兄上、この子をずっと側に置くと、宣言してもらえないでしょうか……?」
「大人になれば修道院長にでもさせるつもりだった。側に置く気はない」
カルラの泣き声がひときわ大きくなる。
釣り竿を貸してくれた老爺が心配気にチラチラとこちらを見てくる始末だ。
「どこぞの貴族の養子に出して、貴族位を与えましょうよ。そうしたら侍従として王宮で側仕えできます」
「はぁ……考えておく。だからカルラも泣くな。目立ってしまう」
養子になるのであれば礼儀作法や勉学に根を上げるだろう。そこで諦めさせるのも良い手だろうとヨワンは考えた。
「あ、あの、お怪我はされてませんか?」
「壮健だ。日に焼ける前に帰るがいい」
「魚が釣れたら、荷物持ち、します。待ってます、ここで……」
「…………」
「ぁああっ! 釣れてます!」
水面の浮きがピクリと動くに合わせてヨワンは釣り竿を上げる。
タイミングが合わなかったようで餌だけが取られてしまった。
「今日は終わりだ」
「餌は売るほどにありますよ。まだ勿体ないですよ、兄上」
「……終わりだ」
「ほら、虫どうぞ」
アンリが虫を無遠慮に差し出してきて、ヨワンは蹴立てるように立ち上がり、後ろずさった。
何かしらの幼虫はうねうねと蠢いており、茶色い矮躯も、その汚さ全てがヨワンの美意識から著しく離れているのだ。つまり──触れない。
「まさか……怖いのですか……?」
「そうではない」
「く、くははっ! 無敵のヨワンが……虫が、怖いなんて……はははっ!」
「そうではないっ!」
アンリが釣り竿を放り投げて笑う。腹を抑えて、眼尻から涙をこぼす程に、笑う。
「ははははっ!」
無貌とはとても言えない。アンリは確かに、笑っていた。
カルラも口元を抑え、微笑みながら見上げてくる。
「笑うなっ! お前たちっ!」
ガラにもなく、大きな声をヨワンは出した。
これほどに感情を発露させたのはいつ以来だろうかと、ヨワンは人生を振り返った。
だが探すのには、さほど労苦は要さない。
かつて弟と過ごした日々、その中には数え切れぬほどにあったのだ。
後年、ヨワンはこう語っている。
この日の出来事は、
アンリの公的死亡日より十日前であり、
ラルトゲン王国が歴史から姿を消す三年前であると。
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