第166話 因果
錬金工房の中は赤の染料をぶち撒けたような惨状で、鉄錆と臓腑の臭気が蔓延している。
誰かが気を使ってくれたのだろうか、祖父上の遺体は腰から下に布が被せられていた。
アリシアもいる。
瞳を閉じて、まるで眠っているみたいだ。
どれほどの苦痛を感じたのだろうか、恐怖に苛まれたのだろうか
生きたいと渇望したはずだ。
それなのに俺は、何も出来ずに、ただ地を這う地虫のような情けない有様だった。
「……今はお休みください」
いつも俺を叱ってくれるシリウスが、まるで子をあやすように喋るではないか。
俺を心配してくれているのだろう。だが、それは不要に過ぎる。
「これからの事を決めよう」
「せめて明日、いえ……お二人の葬儀を終えてからとすべきです」
「父王が待つと思うか? 今だ、今……全てを決める」
アリシアを治療するためには、一度命を奪う必要があった。
俺という人間は返す返すも卑劣で──アリシアが死んでくれて、俺の手で殺さなくて済んだと、どこか安心している。
唾棄すべき、人間以下の人非人だ。
死ぬべきだ。俺はやはり死ぬべきだった。
生まれてくるべきではなかった。
母と妹を苦しめるために生まれてきたのだ、俺は。
「暗殺者は王国法に則り、私情を挟まずに裁け」
「御意」
「クロードの家族を探す部隊を編成しろ。ベルナとご両親の治療のために、治癒ポーションを持っていくように」
「クロード本人は如何されますか?」
「誘拐が嘘であれば……金のためにこの企てを画策したのであれば、暗殺者と同じように裁判にかけろ」
シリウスの顔を見ずに言う。
あの暗殺者は正当な復讐者であり、俺は殺されるべきだったのだ。
今は捕縛されているだろうが、殺すほどには恨んでいない。
「ごめんねアンリ……私を恨んで……」
足元にふれる布地の感覚。下を見ればクリカラさんが居た。
「恨むことなんて何もないです。クリカラさんが無事で、本当に良かった」
「あの男は、私たちの世代で何とかすべきだった……」
「親の不始末は、恥は……子が雪ぐもの。俺の責務です」
「…………あんな男の言うことなんて聞かなくていいよ」
だが主導権は敵が有している。こちらは防戦一方。
誘われているのならば、剣を片手に征かねばならないだろう。
「こんな体じゃ、涙も出ないよ……」
クリカラさんが自分の頭を何度も殴る。
罰するように頭を抱え、床にうずくまる。
俺は膝を床に付き、頭を撫でるが、返事はなかった。
「主……今この局面を鑑み……臣下として進言します」
「何だ、言ってくれ」
「建国しましょう。独立を宣言し、教皇猊下と連名で文書に調印し……シーリーン様とサレハ殿の名を利用し、ダルムスクを後ろ盾にするのです」
「何人死ぬと思う? その諫言が俺のためだと言うのなら、お前を罰する必要がある」
「ですが、アロウ殿と妹君の死を、無駄にしてはいけません!」
シリウスの力強い手のひらが、俺の両肩に食い込む。
殺して、殺されて、血の螺旋が出来る。
渦に巻き込まれるのはいつだって弱い人だ。
誰かが住む家の数だけ、人生がある。
俺が俺の旗を掲げようものなら、暖かな灯火がどれだけ消えるだろうか。
「主としての最後の命令だ。この地の領主をサレハとする。シリウスはクリスタと共に後見人となり、まだ幼い弟が成人するまで面倒を見るように」
「…………分かりました。ですが、私はいつまでもお待ちしております。二君に仕えるほど……軽い男だと、思ってほしくないのです」
シリウスが歯を食いしばり、涙を流した。
外からは人の気配を多く感じる。なるほど……俺を待っているのだろう。
「丁重に弔ってくれ。俺は皆と話す」
「畏まりました……」
外に通じるドアを開ける。
人垣が生み出すざわめきが、俺の存在を認めて、ぴたりと止んだ。
皆が居る。ガブリールが駆け出してきて、俺に体を擦り付けてくる。
「サレハ……俺の弟よ、前に」
「はい、兄様」
「辛きを知り、弱さと強さを揃え持つサレハだからこそ出来ることがある。周りの人を頼りにし、諫言をよく聞き入れ、立派な大人になり、皆とシーリーン様を守るんだ」
返事はない。双眸に溜まる涙をもって、返答としよう。
「トール、シーラ。草原で出会ったあの日から、二人の存在が俺の支えになった。二人が食卓を囲むのを見ているだけで、俺は救われた気持ちだったよ」
二人が深く頷いた。
エルフの長い人生、帰るべき場所は祖国の方がいいのだろうか。
それはこの地で安寧に暮らす中で、答えを見つけて欲しい。
「オーケンさんはクリカラさんと再婚しないんですか?」
「性格が不一致しておるでの。もしお前さんが一人の男として、畑を耕す余生を送るなら考えてもいいぞ」
ガハハとオーケンさんが大笑した。
この人も好きだ。こんな人の息子に生まれ、鍛冶師になる人生も歩んでみたかった。
「教皇猊下……思えば、貴方とは仲良くなれませんでしたね」
「相性が悪いわよ。私は……男の趣味は良いほうだからね」
「ははは、それと……
「分かった、後でクリスタに持っていかせるから」
すべきことがある。そのために必要なものは、きっと少ない。
「セヴィ兄は……まだ蛙化が治ってないんですね……俺はもう男の体に戻れてますし、時間が経てば治ると思いますよ」
「げここ」
「サレハを守ってくださいね」
「げこ」
「何言ってるか、全然分からん」
最後までアレな兄だった。
この人はこの人で楽しく暮らすだろう。
放っておけばいいというのは気楽なものだ。
「ナスターシャ・クンツ」
「はっ!」
「これからは馬房で寝るのはよせ、風邪をひいてしまう」
えー、という顔をするナスターシャだ。
面白い女人であった。そのうちケンタウロスと所帯を持つかもしれない。
「エーリカ・フォン・シェール」
「は、はっ!」
「今、遠くで働くマティアスとの調整役は君にしか出来ない。大役だぞ?」
「めっちゃしんどいです……団長も手伝ってください……」
エーリカが泣き顔を見せた。
きっとこの子は生涯に渡って要らぬ心労を負うのだろう。
そんな時は横に立つ友と語らい、英気を養って欲しい。
「フルドは友だちと仲良くするんだぞ。大人の言うことは聞いたり聞かなかったりでいい、楽しく過ごすんだ」
「領主さま……どこか、いっちゃうの?」
「少しだけ、お別れだ」
フルドが駆け寄ってきて、俺の腰にしがみついた。
鼻の奥がツンと痛くなる。まるで槍で突っつかれているようだ。
「つよい戦士になって……領主さまをまもってあげる……」
「ありがとう……」
見上げる顔に涙の跡が目立つ。
アリシアと祖父上のために泣いてくれたのだ。
頭を撫でると、腹に顔をうずめ、泣いてしまった。
「リリアンヌ」
「はい」
「俺を好きだと言ってくれてありがとう」
「ずっと、お待ちしております」
「……今この場をもって、婚約を破棄する。俺を忘れ、どうか幸せになってほしい」
「嫌です」
「……領主の裁判権をもって下級裁判の即時判決を下す。婚約は破棄だ」
「聴覚が消滅してしまいました」
「この場にいる全員が証人だ。幸せになるんだ、それと俺を忘れろ……いいな?」
「聴覚……私の聴覚は……どこに落ちているのでしょうか……?」
分かっているのか、分かっていないのか、ぜんぜん分からない。
だが時間が経てば俺のことなぞ綺麗さっぱりと忘れるだろう。
そう願おう。どんな将来となるかは分からないが、幸せになってほしい。
「解散だ! 皆は務めを果たせ! 泣いている暇も、悔やむ暇もない! 俺は俺の役割を果たそう。アーンウィルは、皆の止まり木だ。俺が決して無くさせはしない!」
返事を聞かずに錬金工房に戻る。
血塗れの部屋の真ん中には
変わらずにある二人の遺体を一瞥し、心のなかで別れを告げる。
「どうしたんですか?」
クリカラさんが壊れた指輪の残骸を俺の方まで持ってきた。
「アロウさんが壊した指輪だけどね……あれは能力を奪う指輪だったみたい。アルファは色んな人の体を奪って、その能力を継承してきた。だけどね……もう壊れたから……アルファは自分の能力しか使えない」
「そう、でしたか」
「死を
もはやアルファルドの脅威は半減した。
祖父上が道を繋いでくれたのだ。
ならば俺は母の道を、手助けしよう。
「半分だけの魂では、ホムンクルスに定着しない」
「……うん。私、ずっと研究しておくから。アンリは心配しないで……」
「魂ならある」
「ないのよ……アロウさんの魂は輪廻に還っちゃったし、もう……」
「ここにある」
灰なる欠月を抜き、鞘を捨てる。
この剣は体を操作する特性を持つ剣、魂は体の延長線上にあり、奪うことが可能だ。
ならば与えることも出来るのではないか──と考えるのは当然の帰結。
「俺の魂をアリシアに、半分だけ与えて一つとする」
「そんなの駄目! 魂が欠け過ぎたら……輪廻から否定されちゃう……。アンリの魂は苦痛の中でさまよって……未来永劫救われないのよ!」
「その責め苦をアリシアに味あわせたくない。俺は兄なんです、兄でありたい」
祖父上が魔女から貰った薬瓶を開け、飲み干す。
これは意識を覚醒させたまま、あらゆる体の苦痛を感じなくさせるもの。
本当はこれを使って……アリシアを殺し、魂を取り出すつもりだった。
「────いくぞ、俺の魔剣よ」
魔剣が共鳴し、白く白く輝く。
俺の魂を喰らえるのだ、喜びに満ちあふれているのが分かる。
持ち手は熱を帯び、剣身の外殻が崩れ、光の剣身と変容する。
魂の融合──それは通常の手段では成し得られないだろう。
だが俺とアリシアだけは父母を同じくする兄妹であるのだ。
魂の性質は近しく、
「──────ッ‼」
心臓に、剣を突き刺す。
痛みはない。出血もない。ただ……喪失感だけがある。
生まれてから、今日この時までの思い出が瞬きの間に通り過ぎていき、体は水中にあるかのように不思議な浮遊感に包まれる。
死後の世界を、生きながらにして体験しているのか?
そう思えるほどに、時間と空間の概念は空虚になり、自己の認識が危うくなる。
「────っ……」
吐き気をこらえつつ、剣身を抜く。
傷口は無い。兄上の聖剣のように体を害する性質はこの場において失われたのだ。
「よくやった……相棒……」
汚れなき純白──俺という者は、腹の中は黒けれど、魂は白かったようだ。
魔剣は危険な輝きを一度放ち、そして夜が訪れたように輝きは色あせていく。
持ち手が風化したように崩れ去り、そして──魔剣は消滅した。
俺の半魂であろう白い光球は光に誘われる羽虫のようにフラスコの中に入っていく。寄り添い合う二つのそれは、次第に一つになり、輝きを増した。
「後のことは頼みました……」
「うん、うん……絶対に……アリシアを助けるから……」
ふらつく足元に活を入れ、無理矢理に立つ。
目に入るのは祖父上の黒剣、鞘を拾い──納剣する。
「剣身が黒くなったら注意しろ……か」
かつてオーケンさんに注意された言葉だ。
皮肉じみた運命に苦笑してしまうが、戦う力はまだ残されている。
残された役割は一つ。
それは王都にあるのだ。
俺は領主として、王子として、ボースハイトとフォレスティエ、あるいは一人の息子として──最後の役割を果たそう。
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