第165話 因果応報 赦
「久しいな……アロウ」
ありえない。居るはずのない、居るべきでない男がそこにいた。錬金工房の窓から影が侵入してきた次の瞬間には、アルファルドがそこに居たのだ。
アロウ・フォン・フォレスティエは黒剣の鞘を握りしめ、かつての主を老いた瞳で見つめた。
(彼我の距離は十歩、一呼吸の間に殺せるか?)
錬金工房の中にいる人間は四人。アロウとアルファルド、そしてアリシアとクリカラ。アロウは二人を生かし、一人に対処せねばならない。
相手の思惑なぞ分かろうはずもなく、背中が汗でじっとりと湿る。
「陛下、お久しゅうございます。本日は殿下にお会いに来られたのでしょうか?」
「余をターウと呼んではくれぬのか? あの日、お前が我が兄を弑した時、お前は俺を、俺を、ターウと呼んでくれたではないか」
「不敬かと、私はもはや、あなたの剣ではありません。共に夢を追う日々は日常に塗りつぶされ、記憶も灰色に滲んでしまいました」
アロウはアリシアを背中の後ろに置き、右足に僅かに重心を傾け、剣をいつでも抜き払えるように備える。
共鳴する指輪はなぜか反応しない。いや、遺物で守り、特別執行部隊が守護し、精鋭の獣人戦士が山のように居るこの地に、乗り込んできたのだ。
備えがある。それも大国が積み重ねた知識と、妄執によって練り上げられたそれを。
「実は王位の継承者を決めかねておる。アンリにするか、ヨワンにするか……」
「長幼の序を違えるは──」
「好かんと、確かに俺は、かつて言った。だが──兄を殺したのはお前だ。ターウは恨んでおるぞ、なぜ王位に押し上げた。なぜ、俺を孤独に追いやった。なぜだアロウ、マティアスもなぜ、皆は俺を捨てたのだ」
「貴方こそが王に相応しいと、全ての民が望んだのです」
「では、俺の気持ちはどうなるのだ!」
絞り上げるような叫びが、部屋に木霊した。
かつてのターウ家臣団の尽くが噂した。
──王は二重人格ではないのか? と。
王の責務が心を壊したのではないか、と皆が疑い、狂王アルファルドとして振る舞い始めた頃から、かつての家臣は一人、また一人と離れていった。
「余はアルファルドだ」
アロウはクリカラを見る。
彼女はうさぎの人形のふりをし、薬壺の横でジッとしてくれていた。彼女は肉体の死により体から放出する魔力はごく微量──これならばアルファルドに存在が露見する可能性は薄い。
「俺はターウだ」
アリシアは力量差に怯えている。
龍の翼も、尾も、力なく項垂れ、地に伏していた。
「そして今は、アルファルドでありターウである」
「何を言われているか、この老骨めには理解できませぬ」
「余はルド・アルファとして生まれさせられ、アルファルドとして三千年の時を生き、人を見てきた。多くの体を移り渡り、終の棲家をターウとした」
「寄生体とでも、言うつもりですか。ならば我が友を殺し、人生を奪ったのも……マリーの人生を壊したのも陛下であるのでしょうか」
それくらいの戯言に心が惑うはずがない。
今は剣の一閃、言葉の一つに多くの人命が懸かっている。
孫の行末を思えば、今ここで何を明かされようと、心は惑わない。
「それには語弊がある。余は弱ったターウの心につけ込み、体を奪った。だが強靭な精神は侵食を食い止め、余の中には確かにターウとしての心が残っておるのだ」
「陛下、今日はお帰りください。落ち着きましてから、改めて使者を出しますゆえ」
「お前の娘を犯し、生まれた子に苦痛を与えたいと願ったのは──紛れもなく、ターウの本心でもあった」
「おやめください、陛下」
「馬上から、地平を埋め尽くす兵を率い、弱者を蹂躙したいと願ったのもターウだ」
「ターウ様は若き頃から融和を願っておられました」
「そう、それは余も知っておる。皆がターウを聖人君子として扱った。立場が俺を縛り、使命と王の責務が俺の呪いとなったんだ」
窓ガラスからの外が見えない。先ほどまで僅かに舞っていたホコリが消えている。
ここは異空間、もしくは魔術結界に追いやられた──それも恐ろしく高度なものに。
「余はこの世の全てが憎い。だからターウと結託し、全ての新人類を滅することにした。
「世迷い言を仰っては困ります」
「出来るさ! 人類根絶は可能だ! 人類は数が減ると文明を維持できなくなる。だけどなあ、山に身を隠し、洞窟に潜もうとも──俺は
「矛盾している。ならば、されれば良い。ここに来て何をしたいと言うのです。親に褒めてもらうように、頭を撫でられるのが望みだと言うのですか!」
「その返しも予想内だ。俺が激高するとでも思ったか?」
アルファルドがアリシアに向かって人差し指を突きつける。
いつでも剣閃を放てるよう、渾身の気合を入れ、体内魔力と筋肉を同調させる。
「全てのフォレスティエに報いを。これはある復讐者の願いだ」
悲鳴が聞こえた。幼い少女が耐えきれぬ恐怖に、慄き、出した断末魔。
ドサリと背後で倒れる音をも、アロウは聞いた。
振り返り、アリシアを抱えるようにして顔を覗き込む。
「これは、魔術なのか……」
「苦痛は無いさ──これは余と俺、どちらの温情なのだろうな?」
アリシアの体から体温が急速に失われていく。
戦場で失血死する新兵のように、瞳から涙を流し──兄の名を呼んだ。
「すまぬ、アリシア」
「お兄ちゃんに、アリシアのこと……」
「ああ、……そんな……」
「忘れてって、伝えて……」
腕に感じる重さが強くなる。本当に、これで、死んだ。
妻を、ルティの心を守れなかった。
娘を、マリーを死に追いやってしまった。
孫を、アリシアにも同じ過ちを繰り返してしまった。
自分の人生は無価値だった。掃いて集める塵芥よりも価値のない、顧みられるべきのないものだったと、全てが囁いてくる。
「お前とアリシアの死をもって宣戦布告とする。後でアンリに伝えよう、お前が
「そうして新しい体を手に入れるつもりか、この化け物が」
「そうさな。人類根絶は次の体か、もしくはその次の体辺りから始めるつもりだ」
「巫山戯るなよ」
アリシアの体をそっと木床に横たわらせる。
黒剣を抜き、鞘を捨てる。
机を蹴飛ばし、敵に歩み寄る。己の技でアリシアの遺体とクリカラに害を成すつもりなど、毛の一本ほども無いのだ。
「剣は効かぬよ。俺の能力を知っているだろう」
「はい。ターウ様は御身を幽体とし、全ての物理干渉を寄せ付けぬ力を有されておりました」
能力を全力で開放させ、体に紫電を纏わせる。
周りに漏れて、仲間を傷つけぬよう、内に内にと集中すれば、己の内臓が灼ける音が聞こえてくる。
構えは抜剣術、しかして鞘は不要。
纏う雷の力が、鞘の機能を有している。
「最後に一矢報いるつもりか。それもまた一興」
「ほざけ」
脳裏に、ターウと共に見た黄金の小麦畑が思い浮かぶ。
穂先が一陣の風と共に揺れ、友は寂しげに笑った。
あの日、あの日だけはあの人は王子ではなく、一人の男だった。
「これは、貴方を諌めるためだけに、編み出した技です」
「そうか、俺に見せてくれ」
左目が焼け落ち、視界が狭まる。
己の体がどうなっているかは分からないが、死にかけているのだろう。
何かをターウが言っているが、聞こえぬのがもどかしい。
「剣とは
剣を放てる機能だけ、己に残されていればいい。
(血より大切なもの──ターウ様の本当のお心は、何だったのだろうか)
余計なことを考えてしまった。
これから死ぬというのに、要らぬ感傷だ。
今は未来に一つでも残せれば善しとしよう。良しとしよう。
己の人生は無価値だったが、もう一人の孫にはそう思ってほしくはないものだ。
「──────!」
ターウが叫んでいる。お前の技を見せてくれと。
アロウも叫び返し、雷の鞘に黒剣を滑らせ、渾身の斬撃を放つ。
「────」
ターウの体が幽体と化し、小麦畑で語らった時と、同じ顔をした。
剣先が体をすうと通り抜け、ターウが目を瞑った。
(無意味と思うたか、甘いぞ、主よ)
勢いを殺さずに、体を反転させ、己の臓腑全てを雷で灼く。
体内に蓄えた魔力が散逸し、体から出ていこうとするこの一瞬、この一瞬を待っていたのだ。
「取ったッ!」
全ての魔力を斬撃に回し、生命のすべてを込めた一撃をターウの〝左手〟に打ち込む。
「何をしたッ! アロウッ!」
ターウが叫び、
千々に裂かれた指を押さえ、信じられぬと一歩、後ろずさる。
元々、ターウの幽体化とは重なり合うもう一つの時空に体を移すもの。
別時空に行くも戻るも高度な魔力制御が必要となる。
そこを規格外の魔力で干渉すれば、制御は困難になり、体が戻ってくる。
この一閃では左手だけがこちらに戻ったが、それでも十分に過ぎる。
あの指輪には大きな力が秘められていて、それは恐らく、アンリの道を塞ぐ。
「この俗物がッ! 殺してやるッ!」
叫ぶ顔は知らぬもの。あれがアルファルドの怒りなのだろうか。
こうして見ると小物ではないか。人類根絶と宣うわりに、たった一人に心を動かされるようでは、孫に──アンリには敵いはしない。
「死ね!」
翳された手から、不可視の衝撃波が飛んでくる。
ふと下を見れば腹から下が消滅していた。
重力に誘われ地面に仰向けになれば、天井が見えた。
「愚物が、……くそ……一度、引く……」
アルファルドはスクロールを広げ、その場から姿を消した。
(クリカラ殿、あとはお頼み申した……)
顔を横に向ければ、クリカラが
この戦闘の混乱を利用し、裏で動いてくれていたのだ。
白く、淡く光る、美しい輝き。
あれがアリシアの魂なのかと、アロウは溜息を吐いた。
「ごめんね……アリシアを優先するから、貴方は助けられない……」
クリカラが申し訳無さそうに、背中越しに言った。
「アンリとアリシアに残す言葉はない?」
「ありませぬ……今は全ての言葉が呪いになりますゆえ……」
「分かった。貴方は立派よ。私が認めてあげる」
どんどんと視界が狭まっていく。
それは黒に侵食されるようで、出来るだけ、一秒だけでも長く孫の姿を見たいと、アロウは視界の中心にアリシアを捉える。
願うならば妻と娘が待つ場所に行ければと、アロウは願った。
だが己が行く場所はもっと深く、昏い場所だろう。
そこでターウを待つのも、また一興かと、アロウは微笑んだ。
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