第160話 代用品たち
皆が自分の為に動いていると、アリシアは理解している。
兄は時間の流れが変わった異界にまで伴ってくれた。
もう一人の兄と、祖父と呼ぶべき人は遠くの魔女の元まで出向いてくれたそうだ。
「セヴィ兄……なんて姿に……」
「げここ」
「祖父上……じゃない、アロウ。簡潔に教えてくれ」
中央庁舎の廊下。蛙のげこげこ言う鳴き声が、ただただむなしく響いていた。沈黙を打ち破るアロウの声には忸怩たるものがある。
「ターウ様、いや陛下がお若き頃の逸話のように……〝魔女の謎かけ〟に挑戦したのです」
「失敗したのか……」
「セヴィマール殿下の答えも悪くは無かったのです。が、魔女というのは生来、偏屈で意固地で意地の悪い化生のような者が多くありまして」
げこげこ、と蛙の声。アロウの手のひらで跳ねる蛙は怒りを顕わにしている。
「姿形を変える魔術か。高度だな」
「いえ、これは〝認識改変〟の魔術。より高度なそれです。実際、ここには人間の姿の殿下がおられるのです。ですが接する者、世界の法則まで騙して〝蛙が居る〟という現実改変を局地的に起こす……まさに嫌がらせの果てにあるもの……」
「げこっ────‼」
「うるさいです、兄上。ちなみに問いかけはどんな風でしたか?」
「ここげこ。げここ。げこ……」
「祖父上……」
「はい。〝王たる真の資質〟とは何か、が問いでした」
ターウ、もしくはアルファルド。
アロウが同一にして別の存在を語るとき、アンリを見るとき。心が大きく揺れているとアリシアにも分かる。恐らくきっと……重ねて見ているのだろう。
その視線は分かる。
今まで、ずっと感じてきた。
アンリがアリシアを見るとき、視線の先には違う人が居ると。そう感じてきた。
「殿下の答えは〝国を富ませ、兵を鍛え、諸人に恵みを与える先駆者〟でした」
「いい答え。やるじゃないですか」
「ゲココ」
「けれど、魔女のお気には召さなかったのです」
「……ちなみにアロウは問われなかったのか?」
「私めの答えは……人の猿まねですが、魔女殿の望むものでした」
重ねられてもいい。代用品でもいい。
寂しい気持ちはあるが、重ねる視線の中には本当の想いがある。その割合は日々を重ねるごとに増えていき、不純物は減っていく。
牢獄の暗闇の中では得られなかった想いを、兄達は与えてくれる。
「王とは民を勃起させる、扇情的な男であるべき、と答えました」
「…………ん?」
「王とは──」
「いや、聞こえていた。けど俺の耳がちょっとおかしくなって……アリシア、悪いが細くて尖った棒で俺の腐った耳を貫いてはくれまいか?」
「イヤ」
「頼む。俺は祖父上を尊敬したいのだ」
「いやー」
「そうか……」
困り顔が好きだ。眉が少し下がって、いつもの厳めしい顔が情けなくなる。けれど困らせるのは心が嫌な気分になる。
最近は食事を摂れなくなった。食べると気持ち悪くなって、戻してしまう。自分の体だからこそ、理解できる。
もう、限界だと。これ以上、生きている必要が無いのだと。
言えば、アンリはもっと困ってしまうだろう。今は最後の時間を一緒に過ごせるだけで幸せなのだが、まるで老人みたいな考えだとアリシアは内心で笑ってしまう。
「かつてのターウ様のお言葉です。この世界は酔わなければ正気ではいられません。だからこそあのお方は民との接し方を心に決められていたのです」
「父か、アロウ……実は……」
「実は?」
「いや、何でも無い。成果はあったのだな」
アンリは真実を語らないと決めたようだ。少なくとも今では無いと。
またアンリは嘘をついた──。優しくて不器用で、残酷な嘘を。
「こちらを」
アロウはアンリの手に薬瓶を握らせる。純白の液体は光を照り返すようで、どこか綺麗だった。
「感謝する、アロウ」
「いえ、最優の結果ではありません。魔女殿でもやはり難しいと。これは代用品……使い方と効用は後ほど……部屋まで伺いますゆえ……」
「ああ……」
アロウは蛙を肩に乗せて、背筋を伸ばしながら廊下を進む。だけど足取りには疲労が滲んでいて、この数日で老け込んだように見えた。
「おい盟友、良くない知らせだ」
陰から這いずり出てくるようにファルコが現れる。
「王位決定の
「これでヨワン、ミルトゥが雌雄を決するか」
「いや、ヨワン某と盟友だが?」
「ふざけるな、友よ」
「子細は書面にて机の上に。多忙を極める為、これで失礼するぞ。あと宣戦布告準備が進んでいるし、爵位を奪われた公爵家が反乱を起こしたりしている。北方の補給線は断絶して、さながら冥府の様相を呈していると」
またファルコの姿が掻き消える。
アンリは右を向き、二歩進み。振り返って顎を触りながら五歩進んで、廊下の壁に激突した。
「……アリシア、ここ最近は食が細いな。大丈夫か?」
アンリの言葉に、どきりと心臓が跳ねた。
「また食べやすい粥を用意させる。あとシーラに滋養薬をもらおう」
「あれ、苦くて……嫌い……」
「俺も一緒に飲むから。我慢しような」
「うん……ありがとう……」
きっと、兄妹でなければ、この人を本当に好きになってしまっていた。
けれど妹でなければ、この人は自分を見てくれなかっただろう。
「お兄ちゃん、今日は寒いね」
「暖かくして寝るんだ。風邪は絶対に引かないように」
「そっちのベッドで寝ていい?」
「……? じゃあ俺はアリシアのベッドで……」
「ううん、一緒に。サレハお兄ちゃんも呼んで」
「そう、だな。分かった……」
かつてアリシアはアンリの記憶に触れた。
濁った黒油の海、奥に奥に潜れば一つの棺があった。
固く、固く封印した記憶。忘れたいと強く願うが、絶対に無くさないと心に刻み込んだ五歳の記憶。
『アンリ、選べ。母の命、もしくは自分の命を』
五歳の
『黒龍と王族、二つの器を掛け合わせる。これは実験である。アンリよ……哀れな我が子よ、余はそなたの想いを尊重しよう。選んだ命は決して奪わぬと誓おう』
涙と吐瀉物に塗れながら、幼子は揺れる視線で父を追う。
『いや二つの命か。アンリが持つは一つのみ。数の理を考えれば、己を差し出すのは挺身とも言えぬな。さあ選べ。余はそなたの答えが欲しくて、躍動する心を抑えきれぬ』
『僕は……』
『どんな結果でも、父は受け入れよう』
『僕は……生きたいです……』
『なんと、生きたいと申すか。二つの命を奪ってまで?』
『ごめんなさい……ごめん、なさい……母上、申し訳……ありません……』
嗄れた声の主はアンリを優しく抱きしめた。
『気負うな、愛しき我が子よ。元を返せば霊薬を飲まぬお前の母が悪いのだ。あの馬鹿女はお前に背負わせたくなかったのだろうな。業を。だがその愚かさが息子を最も苦しめたのだ……なんと、悲しき巡り合わせか……』
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
『泣くな、アンリ……』
『……ぅうう……うぁあああぁ……』
『泣くなッ‼』
怒声。抱擁を解かれた幼子が迫力に気圧され、尻を床についた。
『恥じろッ‼ 誰の為に泣いている‼ 自分の為に泣く男は、世界で最も醜悪だッ‼ 次に泣けば貴様の命も奪うぞッ‼』
『は、はい。もう二度と……僕は、泣きません……』
『この日、この選択を、余の顔を、憎悪を、決して忘れるな。余の胸に剣を突き立てるその日まで、決してな。生きる力とするのだ、アンリよ』
『は、い』
『アンリ……これだけは、伝えておこう』
狂王が歩きだし、背中越しに息子に言葉を伝える。
『お前も、余も失敗作だ。だからこそ、余はお前を気に掛けるのかもな』
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