自己肯定感、自信のなさの意味

 親、家とは、幼い子供からしてみれば、世界のすべてなのではないかと思います。

 無条件に守ってもらえる存在、無条件で愛してもらえる、信頼できる存在であり、そんな人と暮らす家は、どこよりも安全で安心できる場所。

 そういうところであることが理想です。


 ところが、機能不全家族に生まれてしまった場合、当たり前にもらえるはずの、安心、愛情がないわけです。

 かわりに与えられるのが、捨てられるかもしれない恐怖や不安であり、子供ですから、親に捨てられてしまえば生きてはいけないと思ってしまいます。

 つまり、死なないために嫌われないよう親にすがりつくしか方法がないんですよね。


 自信とは、自分の中心であり、他人に意識を向けていると育たないと思うんです。

 自信を持つためには、自己肯定感を育てよう!とか言う人もいると思うんですけど、そもそも自分を作るべき幼い時に他人に強く意識を向けるしかなかった人は、自分の中心どころか、自分という存在すら曖昧だったり、いないように感じたりするんですよ。

 ないものは育たない。私はそう思う。


 自己肯定感というのがどういうものかと考えると、先ほど述べた「幼い子供にとって親は世界のすべて」というところが私は重要だと思います。

 親から与えられる言葉、行動は子供にとって、この世界からのメッセージなわけです。

 つまり、「愛してる」「大好き」とかまってもらい、愛情をもらうということは、言い換えれば「あなたは世界から愛されている」→「この世界に存在することを許されている」というメッセージを受けとることが出来、自分の存在を信じることが出来る、確実に存在しているという実感が、自己肯定感に繋がるのではないでしょうか?


 それじゃあ逆に、機能不全家族で育った人はというと、

「無視される、家庭に居場所がない」→「世界に居場所がない」

「否定される、暴力を受ける」→「お前など存在してはいない、存在してはいけない、存在を許されない」

 とのメッセージを受けてしまうように思います。

 そして繰り返しこのメッセージを受けてしまうと、心や脳が「私はこの世界に存在していない、存在してはいけない、存在を許されない」と、強くインプットされ、自分で自分を傷つけ、隅へ隅へ追いやり、自分で自分を排除しようとしようとしてしまうなど、メッセージを送った親がいなくなっても、知らず知らずのうちに、刷り込まれたそのプログラムを自分で実行しようとしてしまうのではないでしょうか。

(物事を悪くとりすぎる、被害妄想、他人から嫌われていると思い込むなど)



 じゃあ、持てなかった自己肯定感はどうすりゃいいの?となるわけなんですけど、私の場合は、周りからそういう間違ったメッセージを受けてたんだなと気づけただけで、気持ちがすごく楽になりました。


 正直、普通に冷静に考えれば、存在が許されているとか、許されていないとかって、わけわからないんですよ。

 世界というならば、地球のことだと思うし、私たちは皆、地球が生み出している空気を吸って、生きることが出来ているんです。地球という世界に空気を吸うことが許されているから、今生きて存在している。もし地球に存在が許されていなければ、自分の周りだけ何故か空気がなくなって、とっくに死んでいるわけですよ。


 今生きている。だから、この世界は自分の存在を受け入れてくれていると心から理解し、安心できれば、自己肯定感は自然と芽生えてくるはずです。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る