第11話 乳 兄 弟
鶯の初鳴きが聞こえ、山桜が咲き、若葉が萌えた。
初夏の準備が整ったのだ。まだ若い佐紀は、夫に死に別れ、稲村ケ崎の山中の屋敷に仕えて初めての夏を迎えようとしていた。
「キャー」とか「ぉわー」とか、日に何度も喚いているのは、新参の乳母だ。
蛇、
百足が怖くて、この鎌倉では生きてはいけない。
新参の乳母を笑っていた晴秀だが、若い妻に云われて、屋敷の周りに結界を張った。
晴秀は、端麗な
「佐紀どの、もし屋敷内で蠢く物を見かけたら、それは
以来、佐紀をからかう蠢く虫は屋敷内から姿を消し、極楽となった。
佐紀は、若いご主人さまを
その日は、奇しくも源実朝十二歳が、従五位の下にて征夷大将軍に任じられた日であった。
翌年正月が来て晴隆は、はや二歳を数えるがまだまだ乳離れは終わらない。
九ケ月年嵩の佐助は、とうに母の乳を忘れてしまったような顔をしている。
そんなある日、薄曇りで彼方に海は見えなかった。
しかし、木々を激しく揺らし海風が暴れ、ここに居るぞと喚いている。
元々病弱な晴隆の母が風に吹かれて亡くなった。まだ二十歳、儚い命であった。
その後は佐紀が、この屋敷の女主の役も担い、晴隆と佐助を育ててきた。
二人が動き出すと佐紀の仕事は、倍増した。
結界が緩んだのか、毛虫イモ虫の類が屋敷の内を蠢く。
幼い男児が大切に持ち帰った宝物だ。
毛虫に声を上げて逃げ惑う乳母に晴秀は、端麗な顔を真っ直ぐ向けて諭す。
この幼虫は、成長すると美しい蝶になるのだと。
佐紀は、信頼するご主人さまの言葉とはいえ納得がいかない。不信顔を隠せない佐紀の両脇にその袖を握った晴隆と佐助がいた。
二人は、幼顔の瞳を輝かせ晴秀を見つめていた。
自然を相手に天文・生物或いは医薬・漢文・言語と教育は、進んでいく。
室さまが亡くなり、佐紀を後添いにとの話もあったが、切ない心を隠した佐紀は「とんでもない」と畏まり己を捨てて、この家の男達に仕えた。
極楽屋敷にも憂いはあるものだ。廊下を滑る佐紀の足音が忙しない。
「母上、何事ですか」
息子の声に佐紀の目尻が、シワシワきりりと上がる。
「佐助、そなたは何をしておる。若さまは何処じゃ」
「はあ、その‥‥‥」
「その、何じゃ」
「出かけられました」
「そなたは、なぜ、ここにおる」
「付いてくるなと‥‥‥」
「それで、従者が務まるのか。それでご主人さまの恩に報いることが出来るのか」
佐助が生まれる前に父親は戦で亡くなっていた。乳飲み子を抱えた佐紀が、晴隆の乳母となって早や十七年が経とうとしていた。
佐助の声が何時になく尖っている。
「母上は、何時もそれじゃ。分かっているさ。若の傍を離れるなと云うのであろう。じゃが、若はもう子供ではない。付いてくるなと云われて、遊女屋の中まで付いて行くことはできぬ」
「まあ、遊女屋などとそなた等は、そのような悪所へ出入りしておるのか?」
「あぁ、例えば、例えばの話です」
「忘れてはならぬ。有難いことにご主人さまは、若とそなたを分け隔てなく訓育なされた。その辺の武辺者は、弓馬に長けても
「されど、おれは若の従者でしかない。御家人にはなれぬ。一生、若の我がままを聞いて生きるのだ」
「そ、そなたは、若が嫌いなのか?」
「はい、嫌いでございます。若は、我が母を奪った。まだ、その胸が恋しかった頃、若が現れて‥‥‥」
「何と、そのような‥‥‥」
(とうとう、云ってしまった)
佐助は、恥ずかしさと情けなさに涙をこらえて屋敷を走り出た。
佐助は、主ではあるが、友であり、弟でもある晴隆が好きだ。
(この我がまま者)と、常に思いつつも、その大らかな気質を好もしく思ってもいる。
思春期の誘いを素直に受けとめ、おおらかに発散する晴隆。銭があれば女子の胸で、銭がなければ荒れ狂う波頭に、思うがままにぶつける。
女子は、遊女も含めて頬の赤い若いのは嫌いだ。脂粉重やかな年上が好きだ。亡き母上の面影を慕ってか、口うるさい乳母を慕ってかは、もちろん知る由もない晴隆だ。
波乗りする二人を覗きに来る浜の女子は、晴隆の目に入らない。もっとも潮焼けした女子どもは、
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