第10話 頓 挫
由比ヶ浜は、好天に恵まれお祭り気分だ。
かもめも浮かれて鳴きわめき、半裸の男どものさんざめきに、波の音など聞こえない。
「用意は整ったか。間もなく御所さまがお出ましになる」
「人夫を並ばせろ。船引きの位置につかせろ」
浜には、海原の向こうの大空を目指して船首を上げた新造船の晴れ姿。
いよいよ将軍実朝が宋に乗り出す船が出来上がったのだ。
佐助も晴隆の後ろなどに控えていない。隣に並び立ち何時になく浮かれている。
「若、いよいよですね」
「ああ、ドキドキするな。あの大きな船が帆を上げて外海に乗り出すんだ。舳先に実朝さまがお立ちになり、おれ達も後ろに控えて鎌倉の山並みにお別れを云うんだ」
すっかり、宋に行く気になっている晴隆は出航のハレの日を夢想する。
「船を引く人夫は、数百人と云われています。天気も良いし、わくわくします。昨夜など眠れませんでした」
「おれも眠れなかった。実朝さまもきっと眠られなかったに違いない」
人々の声がひときわ高くなり、熱気がゆらゆらと上がった由比ヶ浜は出陣を上回る興奮に満ちていた。
「御所さまおなりー。一同、礼を以って迎えよぉー」
船を望む見物台が仮設されていた。
中央には正装束帯姿の実朝が座る。
従う御家人も仰々しく居並ぶ。
船は、動かない。
「さあ、みなみな力を合わせて、綱引け」
造船奉行の掛け声に人夫の掛け声がひときわ大きくなった、が。
船は、動かない。
「若、動きません」
佐助が晴隆にささやく。
「そんなに簡単に動いてたまるか。あんなに大きな船なんだぞ。それ、少し動いた。そのうちに、どっと動いて大海原に乗り出すぞ……」
「今一度、気持ちを揃えて、船引け」
「おー」
と、男たちが応じる。
かもめさえも「おかしいなぁ」と鳴き騒ぐ。
「動かない」
「動かねえ」
「如何したんだ」
人々のさんざめく声も次第に高くなっていく。
「佐助、おれ達も手伝おう。行くぞ」
「いかにも、さすが若さま」
晴隆と佐助が飛び出すと、ばらばらと数人が後を追う。
晴隆は、汗だくで船引く人夫達に混じり微力ながら役立ちたいと思ったのだ。
軸足が、ズズッと浜の砂にのめりこむ。綱を握った両手がジンジンと痺れ、左手の平に血が滲んだ。武術で鍛えた晴隆と佐助であるが、戦場の経験はなく、今、立ち向かっている相手は、小山のような大船だ。
日が西に傾き出していた。
人夫達の声に元気がなくなり、晴隆も汗にまみれて声が枯れた。
晴隆と佐助の助力を得ても、船は進水せず、ずずっ、ずずっ、と沈むばかりだ。
間もなく、
由比ヶ浜の上空に、薄く曇が湧いていた。
その雲に紛れて、大船の船尾に尻尾を巻きつけた白龍が身をくねらせて、陸に向かって引いている。
船の失敗を助ける悪戯だが、邪悪の味がする旨い餌だとほくそ笑む。
「えーい」「ほー」
人夫の声に呼応して、白龍が「えーぃ、ほー」とおとなしく叫ぶ。
生き生きと楽し気な白龍を冷たい目が射す。
「白龍、悪戯はやめろ!」
姿のない白虹が天外から声を震わせる。
「グワッグワッグワッ、白虹か。おまえにわしを止める力はないぞ」
得意げな白龍の顔が、少しだけ青味を帯びて光る。
やはり、大船は重かった証しだが、白龍の血の色は青いのか?
息を荒げた白龍が、尻尾を放すと、船は音もなく傾き出した。
「ああああぁー」悲鳴と共に男達が身を引いて逃げ出す。
晴隆も佐助も逃げた。目の前で造船奉行が倒れたが、誰も助け起こそうともしない。空を切る奉行の右腕を佐助が掴んだ。仕方がないので、晴隆も足を留め、左腕を掴むと、ちょうど仮設の見物台から実朝が立ち上がり、後ろ姿を見せた。
そして、日が暮れ、がんばったのに船は進水せず、その首を傾けて「どうしたの?」。
羨望と期待の熱気に溢れていた由比ヶ浜は、音を忘れて静まった。
原因は何か?
将軍の愚行を止める尼御台政子や執権北条義時の陰謀だと噂が舞う。
大船を砂浜で造った陳和卿が悪いのだと噂が立つ頃には、当の本人の姿はない。
もちろん、白龍が船を間に百人を超す人夫達と綱引きをしたことは、白虹以外は誰も知らない。
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