第9話 洒 脱

 昨夜が新月であった。目を凝らさなければ見えない幼い月が首を傾げる。

 星は惜しみなく降っているが御所の外塀辺りは真っ暗だ。

 松明をかざし、夜警兵が二人呑気に、ぶらぶらと歩いている。

「惚れた女子の切り爪のような月だな」

「ほほぉ、また随分と粋な例えをするではないか」

「へへぇ、殿さまの受け売りじゃ」

「ふん、そんなことだろうと思おたわ」

「それはさておき、由比ヶ浜では夜もかがり火を焚いて、船の仕上げに大忙しだ。宋に渡る船も、もうすぐ完成するぞ」

「本当に、あの船で宋へ行くのか将軍さまは?」

「さあな、尼御台政子さまも執権北条義時さまも反対されているそうだ」

「だいたい将軍さまが宋へ行ってしまったら、鎌倉幕府はどうなるんだ?」

「おれに、そんな難しいことが分かるか。うん? 誰だ、誰か居るのか?」


 闇夜に大手を広げる松の根本に小さな影が臥していた。


「誰もおらん。犬でも通ったのだろう。さあ、行くぞ。交代の時間だ」

「そうか、まあいいか。御所に侵入しようなんて馬鹿者もいないか」

 警護の二人は、刀の鞘音をさせながら、遠ざかって行く。


「ああぁ、助かった。若、もう帰りましょう。御所に忍び込むなんて、やっぱり無理です」

 佐助の声が震えている。

「おまえは、ここに残れ。おれ一人で行く」

 偉そうなのは、晴隆だ。

「いえ、それはなりません。若の傍を離れるなと、申し付けられております」

「勝手にしろ。おれは行くぞ。あの松の向こう辺りが実朝さまの御寝所のようだ。あの木に登って、塀を越えるんだ」


 やがて

 塀の中が賑やかになった。

 バタバタ走る二つの影を、追う二つの影が勝ち誇って叫ぶ。

「捕まえたぞ」

「二人して馬鹿な奴だ。牢に放り込んでおけ」

「おれは、安倍晴隆だ。将軍さまのお見舞いに来た。実朝さまに会わせてくれ」

「何をたわけた事を云っているのだ。見舞いだと、将軍さまは病気ではないわい」

「やっぱりそうか。実朝さまは元気なんだな」

「おまえには関係ないことだ。さあ引っ立てろ」

「実朝さま、晴隆でございます。実朝さま」

「こら、騒ぐな。将軍さまがお目覚めになるではないか」

「何を騒いでおるのじゃ、静かにせい」

 吾郎佐の声に救われた晴隆が大声を出す。

「あっ、吾郎佐さま。晴隆です。安倍晴隆でございます。実朝さまのお見舞いに参りました」

「また、おまえか。こんな夜中に見舞いもないもんだ。帰れ、帰れ」

「こやつら、帰してよいのですか。御所に忍び込んだ極悪人ですぞ」

 警護兵の訴えに、五郎佐の顔が歪む。

「面倒だ。由比ヶ浜へつまみ出せ」


 闇の中から、ゆったりした呼びかけがあった。

「何の騒ぎだ。何か迷い込んだのか」

 実朝だ。

「実朝さま、晴隆でございます」

「おお、晴隆か。そなた、なぜ、わたしの見舞いに参らぬ」

「申し訳ございません。それゆえ、本日お見舞いに来ました」

「そうか、塀を乗り越えて来たのか。大儀であった」

「やったぜ、佐助。やっぱり実朝さまだ」


「またまた苦労が舞い込んだ」

 吾郎佐の呟きが、殊の外大きく響く。

 実朝は、何も聞こえなかったぞとばかりに命じた。

「吾郎佐、酒をもて。宴会じゃ、宴会じゃ」


 皆で広縁に座り酒を飲み、星空を眺めた。

 実は、実朝は酒好きだ。機嫌よく飲む時は、翌朝までも残るほど飲みまくる。

 昨年亡くなった栄西禅師は、実朝が師と仰ぐ禅僧だ。

 その著書である『喫茶養生記きっさようじょうき』は、将軍の飲酒を心配して著したものだ。飲酒の功罪を説き、喫茶の薬効を説き、二日酔いの朝には、体調を整えるために薬として喫茶を勧めている。

 留学僧の栄西は、宋から茶法と茶種を持ち帰り、新しい喫茶の時代を築いた。

 何かと相談し、心の師であった栄西が亡くなると、実朝の心はふわりとふわりと浮浪した。重しを喪失したのか、解放されたのか、分からない。

 十寸ほども浮き上がると、大きく立ちはだかる母の声も、執権北条義時の穏やかな諫めも、その他もろもろの無言の不承知も、聞こえない。

「いいじゃん、いいじゃん」と、鎌倉訛りの晴隆の口真似をしてみる。

 皆に分かり易いように、目的地は宋国医王山となっている。

 目の前に座る二人の少年は、夜目にもわくわくする気持ちを辺りにまき散らす。

(例え、己の渡海が頓挫しようとも、この二人だけは、宋に送り出した)という思いが湧き出した。

(いやいや、そんな弱気でなんとする。わたしも、この二人を引き連れて海を渡るのだ)

 実朝は、決意も新たに酒を飲み干す。

 酔っ払いの将軍を見つめつつ、少年達は見たこともない都から運ばれた菓子を食べた。

 あまーい。

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