第8話 呪 文

 ちょっとな月である。

 もう直ぐ満月なのだろう。雲も追い払われ、灯りなどいらない。

 晴隆は、裏口から抜け出し、竹林に向かった。

 このやんちゃ坊主に、怖い物はない。誰もが一目置く鎌倉陰陽師安倍親職さえ、優しく見守ってくれる祖父でしかない。魑魅魍魎が住み着く鎌倉だが、毒蛇さえ踏みつけねば、毒キノコさえ食べなければ、晴隆の敵はいないも同然だ。獣も物の怪も蹴散らして山道を切り分ける。

 獣道ばかりの山中だが、ずんずん進めば高みに出て鎌倉の外までも抜け出せる。晴隆や地元に生きる民にとっては、要塞固い鎌倉と云えども抜け道は幾らでもある。

「晴隆、何処へ行く」

 晴秀の低いが透明な声が追ってくる。

「あっ、父上。いや、ちょっと散歩に」

「蟄居とは、外出してはいけないと云うことだ。もちろん、夜もな」

「分かっております。しかしながら、もう何日も家の中だけで、くさくさするので、ちょっと海岸まで行ってみようかと……」

「仕方のない奴だ。では付いて参れ」

「はーい」

 晴隆の不満が小さく応える。

    

 山を下り浜辺に出た親子を迎えたのは、青く輝く波頭であった。

 打ち寄せる波が青く光るのは夜光虫のせいだが、異変の報せの前兆かと思える胸騒ぐ光景だ。

 誰もが病を恐れ、天変地異を恐れる時代である。海が赤くなったと騒ぎ、波頭が青く光ると騒ぐのは当たり前だ。もちろん、何時の世にも経験から海の異変を恐れない漁師はいる。

 知っているから恐れるのか、知らないから恐れるのか、何はともあれ、怖い物いっぱいの鎌倉城だ。

「おぅ、すげえ。今夜は一段と青光りしているなぁ。やっぱり、何か良くないことが起こるのですか」

「いや、皆々さように云うが、あれは小さな小さな生き物が闇に光って見えるだけだ」

「へぇ、さすが父上。何でも知ってござる」

「ハハァ、親を持ち上げて如何する。さあ晴隆、北斗七星を探してみよ」

 大きく仰け反り、夜空に挑む晴隆の口はぽっかり開いている。

 折しも、云い寄っていた雲がな月に追い付き、恥ずかし気な月を隠した。

 流れ星が次々と横切る夜空に、晴隆の声が嬉し気に響いた。

「えーとっ、あー、あれあれ」

「そうだ。良く見よ。七つの星がひしゃくの形に並んでおろう。あれは、皇帝である北極星を守るため控えているのだ。ひしゃくの形の守り星は、陰陽師そのものだ」

「ひーぇ、そうだったのですかぁ」

 晴隆の口は開きっぱなしだ。

「父上、父上、おれにもっと星図を教えて下さい」

「やはり宋へ渡るか? 晴隆」

「もちろんです。星の位置を読み、船の行く先を見分けたいと思います」

「よかろう。見よ、晴隆。父の左手を‥‥‥」


 うッ、晴隆の口はひらいたまま固まった。

 父の左手は、武器にもなろうかと思える大きな筒を掴んでいる。

 直ぐ後ろを歩いていたのに、父がこんなに大きな丸太ん棒を持っているのに気がつかなかった。

 暗い海から青い波が押し寄せる。その原因は、海に生きる小さな生き物だと教えられても、今いち納得のいかない少年に向かって、次々と異変が押し寄せる。


 不思議な自然を超越し、晴秀の左手の中で奇跡が花開く。

「この大きな筒は遠めがねだ。心の目を開いて覗けば自ずと望む物が見えてくる。しかし、この大きさでは持ち運ぶのは不便だ。それでだ、右手を添えて呪文を唱える」

 何と何と、大きな筒が見る見る小さくなっていくではないか。

 晴隆は父晴秀の陰陽師としての腕まえを初めて見た気がした。

「持って行け。きっと役立つ時が来る」

 最後に掌に納まってしまうほどの遠めがねに、五芒星ごぼうせいの印を結び差し出した。

 五芒星は、理想の形状を表した五つの角を持つ星型で、清明桔梗とも呼ばれる陰陽道の護符である。

 晴隆は、遠めがねを受取り、物を大小自由にあやつる呪文も授かった。

變小へんしょう變小へんしょう變小へんしょうばー急急きゅうきゅう如律令にょりつりょう

 可愛く云うと、「小さく小さく小さくなあれ、急いでね」だ。


 何度も云うが、鎌倉陰陽師は都下りの者どもだ。

 安倍親職は、一族が乱立する京での出世を諦め、新天地を求めた。

 その息、晴秀は京生まれ、晴隆は稲村ケ崎で生まれだ。

 時の権力者幕府に仕える出世頭とも云えるが、都落ちした負け組とも云える。

 安倍清明に連なる安倍一族と云えども同じ宿命を持っていた。

 清明の子孫だと云えば、誰もが疑わない風貌優れた晴秀だが、それでも宮仕えもままならず、負け組筆頭であった。晴秀の異才は、必ずしも喜ばれない。

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