第6話 深海水練

 三月末の腰越海岸は晴天。

 現在の暦で云えば、五月。多くの船が出て、祭りのように賑やかだ。

 富士山が美しい姿を見せ、思いがけない祭りを覗き込んでいる。


「将軍さまがお越しだそうだ。この江の島の前海で何が始まるんだ」

「さて、あんなに船を沢山出して騒がれては、今日は魚が獲れんぞ」

「村の衆、将軍さまの水練の練習は昼過ぎには終わるだろう。しばし辛抱して下され」

 晴隆は、胸を張って偉そうに告げた。

「これは、安倍の若さま。将軍さまが水練をするのでございますか」

「さよう、若さまがご指南するのだ」

 佐助の鼻も高くうごめく。

「若さまが水練を教えるのですか、波乗りを教えるのではないのですか」

 晴隆は、この辺りの海では有名なのだ。

 潮焼けの赤茶けた髪をなびかせて、波乗り遊びをするからだ。晴隆が波乗りを始めた頃は、まだ童装束で烏帽子も付けていなかった。しかし、近頃、将軍の命により元服を済ませた晴隆は、大人の象徴である烏帽子を被らねばならない。うーん、面倒だと晴隆は唸る。

 乳母の佐紀に云いつけた。

 烏帽子を固定する紐、小結を確りと烏帽子に括り付けるのだ。

 柔らかく仕上げられた黒い折烏帽子に、右には晴れやかな柑子こうじ色を、左には濃い目の縹色の紐を縫い付けた。

 首の下で結んだ二色が戯れ、けっこう可愛いーぃ。


「ははぁ、出来れば波乗りもお教えしたいと思っている」

 可愛い折烏帽子の晴隆の言に、漁師どもは笑みを隠して真面目に頷く。


「おーい、晴隆どの、御所さまが間もなくご到着だ。用意にぬかりはないな」

 実朝の従者、吾郎佐が海岸に現れ怒鳴っている。

 あまり機嫌は良くない。


「はっ、万事抜かりはございません」

「まったく、おまえのお陰で、苦労が増えるわ」

「わたしが申し上げたのではございません。実朝さまが、わたしに水練を教えろと」

「分かっておる。ぐずぐずするな。ほれ、御所さまのご到着だ」


「きゃー、御所さま」

「実朝さま」

 浜に女達が現れ、憧れの叫び声を上げた。


 実朝は、簡素な水干すいかん姿で船の舳先に立っている。

 華麗な衣をまとわなくとも立派であった。

 御所務めの女房や村の女子衆まで見物に出て大騒ぎだ。

 波は穏やかで今日は波乗りには向いていないが、異国への船旅に備え水練の練習なら文句ない日和だ。

 それなのに、事件が起きた。

 板子に掴まっていた実朝があっという間に沖に向って流され、姿を消したのだ。


 人々の声、かもめの騒がしげな鳴き声、波音。一瞬、全ての音が消えた。

「消えた。御所さまが‥‥‥」

「探せ、探せ。晴隆、命に代えても探し出すのだ」

 上ずった吾郎佐の声がかすれる。

 離岸流だと晴隆は思った。

 岸から沖に向う激しい流れに実朝だけが乗ってしまったのだ。

 晴隆は、流れに向って飛び込んだ。


 実朝は、海底から呼ばれた。

(爺か?) 懐かしい和田義盛の声だ。

 実朝に弓を向け無念にこの世を去った和田の乱から、すでに四年が経っている。

 二人の間には、恨みを残した荒武者が何人もいて、髪を乱し迫ってくる。

 恐れを忘れた実朝は、両手を伸ばし声に近づく。

 和田義盛は、孫を見るような慈愛の顔を綻ばせ、(さあ行こう)と手を伸ばした。


 実朝は、よく夢を見る。

 和田一族が血みどろで夢枕に立ったこともあり、またかと驚きはしない。

 そもそも、陳和卿に大船を造らせたのも、元はと云えば、誰にも告げずにいた夢と同じ話を陳和卿がしたからだ。大風呂敷の大船に乗ったなら、きっと世界が変わるのだ。


 いない。見えない。

(実朝さま)と叫びながら実朝をさがした。

 どれだけ潜っただろうか。腰越の海は、こんなに深かっただろうか? 

 晴隆はすでに息苦しく、このまま探し続けるのは無理であろうと思ったその時、海の底で両手を腰に当てて、すっくと立っている実朝を認めた。

 内袴の裾が揺れている。

 実朝は、何時か稲村の山で見せた眼差しで軽く頷いてみせた。

 溺れて死んでしまうかもしれないのに、少しも慌てた様子はない。

 天下の将軍とは、このようなものかと晴隆は苦しい息の下で考え、がむしゃらに右手を左手を前に伸ばし、水をかき分けて泳いだ。

 晴隆がひと泳ぎすると荒武者がひとり、また一人と消えて行く。

 やはり晴隆は、才ある陰陽師だと実朝は思った。

 自覚もないままに霊力が備わっている少年は、グンーンと手を伸ばしてくる。

 実朝もかすかに微笑み、ゆっくりと手を差し出した。

 実朝の手を捉えたが、誰かに押さえつけられているように、その身体は動かない。

 晴隆は、海面を指さし笑った。もう限界だ。顔が歪んだその時、実朝が動いた。

 実朝に背を向けられた和田義盛も哀しそうに消えて行く。


 実朝は、下帯一つの晴隆の裸の両肩を抱き締めた。

 晴隆は首を振り、この姿勢では駄目だと伝える。

 この態勢では二人とも溺れてしまう。

 実朝の右手を肩から外し、左手だけを肩に残して両足を蹴って浮き上がった。

 実朝は、泳法得意者のごとく、少しも力を入れず、晴隆の動きに付いて来る。

 二人は、やがて息の出来る楽園へぽっかりと浮かびあがった。

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