第5話 渡 海

 建保けんぽう四年(1216)も暮れようとしていたが、由比ヶ浜は、晴れ渡り小春を思わせる陽気であった。

 槌音と船大工の声が響き渡り、活気に満ちている。

 砂浜に打ち寄せる波の音も健やかだ。


「な、なんだあれはぁ」

 波に負けない大声は晴隆だ。

「船だ。船を造っているんだ」

 従者佐助の声も負けてはいない。

「いいね、いいね。もっと傍へ行こう」

 晴隆は、すでに駆け出している。


「おーい、大工さん。この船は誰の持ち物だ?」

「なんだい。おまえさんそんなことも知らないのかい。これは将軍さまのお船だ」

「大きな船になるんだろうなぁ」

 佐助の声も関心しきりだ。

「当たりまえだ。何しろ将軍さまが宋へお渡りになる船だからな」

 船大工が己の手柄のように云う。

「えっ、実朝さまは宋へ行くのか?」

 晴隆の声が更に大きくなる。

 ふんと、笑って大工は胸を張る。

「そうさ。見回りの将軍さまが今しがた帰ったばかりだ」


 しばし目を凝らした晴隆は、弾かれたように走り出す。

「若、わか、どちらへ」

 慌てて後を追う佐助。


 二人は若宮大路を走った。

 もう、佐助は主人晴隆の行動を理解している。

 実朝さまの輿を追っているのだ。しかし、なぜ追っているのかは分からない。


「若、実朝さまの輿です」

 佐助の声が弾む。


「実朝さまー、お、お願いがございます」

 晴隆の声が上ずる。


「うぬ、怪しい奴。将軍さまに声をかけてはならぬ。さっさと立ち去れ」

 輿の従者が二人、晴隆のまえに両手を広げ、その後ろの従者は刀に手をかけている。


「実朝さま、この夏、お目にかかった波乗りの安倍晴隆でございます」

「おう、晴隆か……」

 実朝のおおような声が輿から上がる。

「はい、晴隆でございます。実朝さま、私も宋にお供させて下さいませ」

「ここでは、話が出来ぬ。付いて参れ」

 実朝の声に、従者達の顔が不満に歪む。

 晴隆は、両足を踊らせて将軍の輿に従った。輿は、御所へと入って行く。

 御所の立派な門で躓いた晴隆は、アワアワと佐助を振り返った。


 安部親職は、あたふたと長廊下をすり足で進む。

 駆け出したい思いを鎮める直衣のうしの上体が、上下左右に舞っている。

「御所さま、御所さま。親職でございます。この度は孫の晴隆のご無礼、平に平にお許しを」

「親職か、晴隆はこれにおるぞ。別に無礼なこともないぞ」

 実朝の機嫌の良い声が伸びやかに迎えた。

「ははっ、ありがとう存じます。これ晴隆、ささぁ、帰るぞ。御所さまにおいとま申せ」

「爺さま、まだ、実朝さまと話があるんだ」

 晴隆の声が天真爛漫だ。

「これ、これ、晴隆。失礼を申すな。御所さま、どうぞお許しを。晴隆め、まだまだ子供、どうぞお許し下さいませ」

「親職、案ずるな。わたしは晴隆を取って食おうという訳ではない」

「はっ、もちろんでございまする」

 畏まる親職の額に汗がピカリ。


「それで、晴隆。そなたは何が出来るのだ?」

 実朝は愛猫をめでる眼差しだ。

「はい、水練が出来ます。三浦の先までも泳げると思います」

 晴隆が戦陣で手柄を立てたように胸を張る。

「ほう、三浦まで泳いだのか?」

 実朝が大仰に驚いてみせる。

「いえ、いまだ三浦には用事がございません。江ノ島までなら毎日でも泳いでおります」

 晴隆は、真剣だ。

 女人を含んだ多数の笑い声が、御簾みすを揺らし、得も云われぬ香りを伴って、周り廊下に広がった。

「他には何が出来る。陰陽師の修行はしておるのであろう」

 実朝は、楽しんでいた。

 唐渡りの工人、陳和卿ちんわけいに造船を命じてからの実朝は、雲の上に乗ったように気持ちが上ずり、自然に笑みがこぼれる。

 実朝の周りにはいない野生児の晴隆が、弟とも子供とも思える。

「はっ、陰陽道の方は、あまり修行が進んでおりません」

 野生児は正直だ。

「晴隆め、柄は大きゅうございますが、いまだ子供。元服もまだでございますゆえ、御所さまのお供など到底務まりませぬ」

 更なる汗を滲ませて親職が火種を消そうと首を振る。

「それでは、晴隆の元服、早々に済ませ、陰陽道の修行も一通りさせえ。宋へ出かけるのは、まだ先だ」

 親職の慌てぶりを楽しんだ実朝は、晴隆を本気で宋に連れて行く気だ。

「ははぁぁ」

 親職の荒い息遣いに、晴隆は、「爺さま御免」と囁いた。

(よっしゃ、やったぜ。おれは実朝さまのお供に加えられた)


 宋に渡る大船の造船を差配している陳和卿ちんわけいが、鎌倉にその姿を現したのは、今年六月初め、十五日には実朝との対面が許された。

 涙ながらに、和卿は語る。

「貴方さまは、前世において宋朝は医王山の長老でございました。われは、その時、門弟の身分でお仕えしておりました」

 眉唾ものの話に、同席の者らは、目混ぜして笑いを押し殺した。

 しかし、実朝は、ぼーとして考えに耽っている。

(その話なら覚えがある。ずいぶん前に、夢に見た。あれは、正夢か。己の望みが夢となって顕れたと納得していたが‥‥‥)

 実朝の夢は飛ぶ。鎌倉湾の上を超え、袖を翻し、波濤を眼下に眺め、宋の都を通り過ぎ、医王山に一つ飛びだ。

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