4.流行りと評価と二郎系

 二回続けてラーメンの話なのはどうかと思うのだが、思いついたのだから仕方がない。そう思って更新をすることにした。ちなみに前回の更新が壊れたPCで書いた最後の更新で、この更新が新しいPCで書いた最初の更新である。だから何だと言われればそれまでだけど。


 さて、ラーメンだ。ラーメンはラーメンでも今回はジャンルを少し限って「二郎系ラーメン」のお話。名前くらいは聞いたことがあるのではないだろうか。


 細かな解説は今更する必要はないとして割愛するが、要は「ラーメン二郎」というラーメン屋(三田が大本)と、その姉妹店(一部を除いてチェーン経営などではないので表記が難しい。興味があったら調べてみてほしい)や、それらを「インスパイア」されたラーメンを出す「二郎インスパイア系」の店をざっくりと含めて「二郎系ラーメン」のお店と今回は読んでおきたい。


詳しい区別をつけないとジロリアン(二郎愛好家)から怒られる気がするのだが、ぶっちゃけ自分はそういう細かい区分が面倒なたちなのでやらない。やりたければ自分でやってほしい。


 で、その「二郎系ラーメン」だが、最近ちょっとしたブームになっている。ブームというと曖昧なので具体的な例を挙げていこう。


 例えば大手コンビニチェーンではやれ「豚ラーメン」だとか「にんにく醤油ラーメン」だとか言って、「二郎」とか「二郎系」といったフレーズを使わずに商品を展開している。


 他にはカップ麺でもその手の商品をよく見かけるようになった。もし見かけたことがないのならば、コンビニやスーパーのカップ麺コーナーを覗いてみてほしい。おそらくは「豚」「ニンニク」「豚骨醤油」「背油」あたりのフレーズを掲げた「がっつり系っぽいカップ麺」が売られているのが目に留まるはずだ。もっともカップ麺とは言っても最近はカップ焼きそば系のものが多いのだが、細かいことはまあ、いいだろう。


 それ以外にもブームの傾向はある。昨今の事情もあって経営的に苦しくなったラーメン屋がこぞって「二郎風メニュー」を出すようになったという話を友人から聞いた。言われてみれば自分にも覚えがある。「元々は家系ラーメンのチェーンなのに、二郎系のメニューを出していた店」に。その手の店の二郎系メニューは大抵期待外れなのは言うまでもない。


 話を戻そう。


 つまりは「二郎系ラーメン」が今ちょっとしたブームになっているのである。


 ただ、自分からするとこれは大分違和感がある。


 なにせ「二郎系ラーメン」と言えば「ネット上でやり玉に挙げられる代表格のラーメンと言ってもいいイメージがあるからだ。


 何故なのか。簡単である。ビジュアルがキタナイのだ。


 基本的に大盛で、トッピングの野菜(ほぼもやしだが)は青天井のように無料で増やせるものだから、それらの注文次第ではとんでもないビジュアルになったりするのである。


 やれもやしが丼からあふれていたり、やれ油の塊が乗っかっていたり。自分は比較的見た目よりも味を重視するタイプであるが、時々その自分でもどうかと思う盛りの画像は確かに存在する。人はそんなラーメン二郎のことを時折こういうのだ。「あれはラーメンの一種ではなくて、ラーメン二郎という別の食べ物だ」「豚の餌」。


 そんな評判を見てきた身としては、今の「二郎系ラーメン」ブームは大分違和感がある、というのは分かって貰えるだろうか。言葉を飾らずにいうならば「お前ら散々けなしてたくせに、ブームになったら飛びつくんだな」という感じ。


 ただ、これは得てしてそういうものなのだ。どこかで詳しく書ければいいなとは思っているのだが、基本的に人間というのは「誰かと同じ方向を向いていないと安心しない生き物」なのだ。だからちょっとブームになった作品というのは飛びついていく。


 そこまでならばいいのだが、基本的にこの手の人々というのは評価を下しているようで下していない。早い話「流行ってるものを評価してる自分」が欲しいだけなのだ。皆が評価している作品を面白いよねと言っておくことで自己肯定感を高めるのだ。


 そして、困ったことに、「マーケティング」とやらがこれを助長する。平たく言うのならば「すっげー売れてんの真似れば行けんじゃね!?」の精神である。既存の言葉で言い表せば「二匹目のドジョウ」を狙っているのだ。


そのため、ちょっとでも売れれば他社はこぞってそのケツを追っかけ、似たようなものを作り出す。自分の場合二郎系ラーメンは好きな部類なので歓迎なのだが、これが嫌いなジャンルだった場合、まあ地獄である。嫌いな物が延々と展開され続けるのだから。チョコミント嫌いにとってのチョコミントフェアくらいのうっとおしさがある。ますます嫌いになること請け合いである。


 と、まあ、いろんなことを語ってきたが、結論は正直ない。これが章立てをキチンと行った創作論ならば、その正否はともかくとしても、結論の一つくらいはぶちたてて終わるのだが、そういうわかりやすい終着点はない。


 ただ、物は何であれ、一度した批判。それも実物にあまり触れずにした批判が間違っていたのであれば、せめて心の中でも詫びを入れる精神は持っておきたいと思うのだ。それはラーメンに限った話ではない。創作もまた、どこからか聞こえてくる「なんとなくの評判」が印象を悪くすることはよくある。


 そういう「どこの誰が下したのかもわからない評価」はいったん脇における頭を持っておくことは、意外な良い出会いを生み出すのではないかと思う、今日この頃である。



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