第16話 そして、筆は走り出す

「……」

 夢を見ていたようだったが、手に持っていた箱が夢でないことを物語っていた。

「あやめ!」

 後ろから声が聞こえた。

「よかった……。見つかってよかった……」

 どうやら岬は彼女を探し回っていたようで、息が上がっていた。

「夢を見たんだ……。あやめが海に飲み込まれてしまう夢を。お前までいなくなってしまったら、私はもう耐えられない……!」

 膝をつく岬をあやめちゃんが優しく抱きしめる。

「おとーさん、わたしはそばにいるよ。おとーさんがつらいなら、わたしはおとーさんの補助輪になる」

 その言葉に岬はハッとする。

水弥子みやこに……」

 震える声で、とても愛おしそうにその名を呼んだ。

「お母さんに、会えたんだね」

「うん! わたしも、おとーさんも、おにーちゃんもしあわせになるの。おかーさんが見てるから」

 あやめちゃんと岬が俺を見る。岬は涙でぐしゃぐしゃになった顔で言う。

「やはり……君が弥生くんだったんだね。ありがとう。妻に会ってくれてありがとう。そうかもしれないとは思っていたが、怖くて聞けなかったんだ。君は、私たちのことを憎んでいるだろうと思っていたから」

「もう少し早く知っていたらそうだったかもしれない。でも、母さんにあんたのことを聞いたよ。礼を言うのは俺だ。母さんを……救ってくれてありがとう」

 俺の頬を一筋の涙が濡らした。波の音が、子守歌のように聞こえた。

 

 その日、帰った俺は母さんのくれた箱の中身に正座して向き合っていた。

「やっぱり……母さんだな」

 怖いけど、いまこそ、「そのこと」に向かう勇気を持つべき時だった。

 話をしに居間に行くなり、ばあちゃんとじいちゃんはいきなり頭を下げた。やめてくれよと言う俺に彼らは言った。

「私たちは許されないことをした。今更謝って許してもらえるなんて思っていない。ただ、謝らせてほしい」

「あぁ……ただで許そうとは思ってないよ」

「私たちに償えるならなんだってするよ、弥生」

 謝るばあちゃんたちに俺は、ずっと諦めていた、けど諦めたくなかった、一年前言えなかったワガママをここで使った。

「俺、絵の学校に行きたい」

 右手に握りしめた筆、母さんがくれた筆が熱を持っていた。

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