第12話 父の背中

 その日、俺は家に帰らず海で一晩を過ごした。翌日は風邪ということにして会社を休んだ。高校を卒業してからこんな日は初めてだった。ぼーっと海を眺めていると、無意識に右手が動く。俺の人差し指が砂浜を滑る。

 あっという間に砂浜に絵が完成する。マナティーの絵が完成した。

「はは……。腹、減ったな」

 コンビニで適当にカップ麺を買い、お湯を入れてまた海に戻る。ここにいれば波が心を落ち着けてくれる気がした。

 寄せては返す波を見つめながら、俺はここ数ヶ月のことを思い返していた。

 小さな少女との出会い。助けたこと。助けられたこと。ありがとうと言ってもらったこと。あやめちゃんのお母さんが亡くなっていたこと。……俺の母さんが最近まで生きていたと知ったこと。いろいろなことがありすぎて人生を何周かしたような気分だ。

 約束の時間まではまだ時間があった。俺はぶらぶらと散歩することにした。

 小学校は冬休みらしく、友達同士でふざけ合っている子供たちや、ちらほらと家族連れもいた。俺が彼らくらいのころは両親がいなくなったことを乗り越えられずずっとふさぎこんでいた。友達もできずずっと絵を描いていた。そんな俺を心配してか、じいちゃんとばあちゃんが馬鹿みたいに画材を買い込んでくれたんだっけ。そして中学にあがり、サボって屋上で絵を描いていたのを美術部の部長に見つかって無理やり入部させられたんだ。

 俺が絵を描くとみんなが喜んでくれた。純粋にそれが嬉しかった。

 

 そんなことを考えながら、親子三人で笑いながら絵を描いている前を歩く。子供がお父さんの似顔絵を描いているが髪が極端に薄い……。ああいうのでも親にとっては宝物みたいな絵なんだよな。クスっと笑いながら通り過ぎようとするとその父親が

「ちょっと」

 と俺を呼び止める。

「あぁ、すみません、他意はないんです。ただ微笑ましかったので」

 と軽い謝罪をすると

「弥生くん……だよね。佐藤さんとこの」

「あ、あ~! お久しぶりです! お元気でしたか?」

 頭をフル回転させるが全く記憶になかった。とっさに覚えているフリをしてしまったが逆にまずいかもしれない! すみません本当は全く記憶にありませんと謝罪しようとするとお父さんは笑いながら

「はっは!君に会ったのは3歳くらいのころだぞ!知ってるふりしようとしてるな!こっちは面影があったからすぐにわかったよ」

 あっさりバレた。

 父さんの美大時代の同期だ、とその男性は話す。

「君の父さんはそりゃもう適当な人でね。そのくせ夢だけはデカくて、俺は絵で食ってくんだーって聞かなくてさ。変な奴だけど魅力的な人だったよ」

 その人は懐かしさに目を細める。

「卒業してからは鳴かず飛ばずだったんだけど、道端で似顔絵を描いてたらお金持ちのパトロンが見つけてくれたって言ってさ。とうとう俺の絵がわかる人に出会えた!って喜んでたんだよ。その人のサポートもあって大きなコンテストで金賞だった。発表の瞬間はみんなで見てたんだけど鳥肌が治まらなかったよ。何食わしてもらおうかなってね」

 ははっと笑った後、表情が曇る。

「でもあいつ、その授賞式の帰り道でさ……。本当に、惜しい人を亡くしたよ。君の父親は偉大な絵描きだった」

 ごめんよ、突然こんな話をしてと謝る彼にいえ、父さんのことを知れて嬉しかったですと答える。その言葉に嘘はない。俺の知っている父さんは、やっぱり父さんのままだったんだ。

「弥生くんは、絵を描くのかい?」

「描きません。……正確には描けなくなってしまいました。高3のとき、コンテストに向けて大きな作品を描いてて。でも俺、それに間に合わなくて。それから、手に筆を握っても力が入らないんです」

 おじさんは黙って俺の話を聞いてくれた。そして言った。

「うん、それは想像を絶する恥辱や苦しみだったと思う。辛かったね。だけど……いつか君がまた筆を握る日が来ればどうか楽しんで描いてほしい。君のための絵を。君の父さんはよく言っていた、絵は楽しく自由に描くもんだってね」

「はい……ありがとうございます」

 俺は深々と頭を下げた。向こうでパパまだー? とおじさんを呼ぶ声が聞こえ、いま行くぞーと返している。

 家族の所に向かうおじさんを見送っていると、楽しく絵を描いた記憶を少し思い出せるような気がした。

 

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