X-4


 そして蜘蛛の糸で白い壁に斜めに貼り付けられたまま、空気を振動させて小さく問いかける。


 目の前の異物に向けて。


『……で? どうして君は出て行かないのかね?』


 そこには天女の衣を羽織る少女がいた。


 織姫ではない。


 もう一人、天の川のような星ではなく、惑星そのものを掌握するほどの権利を持つ破格の少女がいたはずである。


『かぐや姫。……最も満たされた場所に住む君こそ、早く帰りたいのではないかね』


「ふっ」


 端正な顔立ちをした少女は、その問いかけを一笑に付した。


 あるいは、それは極限の自嘲に似ていたのかもしれない。


 白い地面に座り込んだまま、体育館ほどもある空間で少女はポツリと声を洩らす。


「あなたは何をもって満たされてると言うのかしら」


『金、地位、名誉、そして自由。自分が自分らしく生きられる環境がその場にある事だよ、幼き姫よ。そして君は生まれながらにしてそれを持っている。星に帰りたいとは思わんのかね』


「馬鹿げてる」


 生前、何よりもそれを求めたジャック・オ・ランタンに、かぐや姫はそう断言した。


「……わたしは知ってる。そんなものがなくても自分らしく生きて幸せを手にしていた家族を。金も地位も名誉もなかった。なのに彼らには笑顔と温かさがあった、そして自由も」


『くだらない』


「そう思うのはあなたが本当にくだらない魂だからだよ」


 返す刀でそう切り返されたジャック・オ・ランタンの表情がわずかに歪む。カボチャであるという前提を覆すほど、その言葉には少しばかりの破壊力があったらしい。


 対するかぐや姫は、真逆。


 雑に座り込んだ、ろくに良い姿勢でもないくせに、凛とした威厳がそこにはある。


 所詮体など器に過ぎない。外面がどれだけ無様で醜くても、内包された気高さはその体から滲み出る。逆に言えば、内包された中身が醜ければ整えられた外面など何の価値もない。それどころかそんな内面を持てば外見が引きずられて結局は汚れてしまう事をジャック・オ・ランタンは身を持って知っていた。


 ただし。


『……大見得を切ろうが君には何もできない』


「っ」


『なるほど、君は自分の星に帰りたくないのかもしれない。しかしだからと言ってその家族の元に帰る事もできない』


 そう、かぐや姫の中にあるのは、ただの拙い可能性であった。


 偶然にも月から脱出する事はできた。


 しかし、地球に戻りたくてもその方法は特に見当たらない。


 あの白い空間の出口がどこの惑星に繋がっているのか、どの時系列に向かうのかも定かではない。むしろ元通りの場所に戻される可能性が高い以上、もはや身動きが取れない状況にあるのだ。


 可能性は、目の前のカボチャだ。


 この悪魔をカボチャの馬車へと変えて、望む城まで連れて行ってもらわなければならない。彼がアリスやかぐや姫達の住む世界の法則を欲しているというのならば、かぐや姫もそれは同様だ。


 彼の持つ技術がかぐや姫に劇的な変化を与えてくれる可能性がある。


 だが。


『結局は無理なのさ。夢だ夢だと言っておきながら特に何の行動もせずに未来の理想像だけ語るのはそりゃあ楽しいだろう。ただしそこに生産性など欠片も存在しないよ。せいぜい虚しさに涙するが良いさ、君の人生のツケが今回って来ているんだからなあ』


 月に帰りたくない訳ではない。


 しかし、育ての親である彼らに会わない道理が見つからない。


 貧しいというのに、生みの親から贈り物をもらう代わりに娘を返せと迫られておいて、そんなものはいらないから私達の娘を返せと挑みかかるように言ったあの人達に、今の自分の笑顔を見せない理由が見当たらない‼


『残念だなあ、いやはや本当に』


「くそ……ッ」


『何の力もない君には私から情報を引き出す術はない。あははあ、これはこれは再びの悲劇ご愁傷様さっさと自分の星に帰れよ宇宙人。テメェには地球も世界も早過ぎたんだよクソくだらねえアバズレが』


「クソッたれがッッッ‼‼‼」


 白い床に拳を叩きつけても結果は覆ったりしない。そもそもこの空間は破壊不可能だ。その取るに足らないアクションに、さらに自分のちっぽけさを実感させられる。


 ……諦める。もう無理だから全てを投げ出す。


 次の機会にかければ良いじゃないかと、甘えた言葉を悪魔がささやく。


 そんな格好悪い選択肢が。


 ちらりと頭をよぎった時だった。




「何だ、大口叩いておきながら君の夢などその程度か」




 声が割り込む。


 白い世界に新たな異物が侵入する。


 当然ジャック・オ・ランタンのものではない。


 だが知らない者の声ではなかった。


 一時間にも満たない短い時間の中で、あまり会話に入らなかったからこそ他の人物の声を覚えていたのかもしれない。


 そう、つまり。


「イエスキリスト……ッ⁉」


「そう驚く事かね、私は常に人の側にいる。信仰の基本は親身になる事だよ、その点で言えば私以上に最適な者などいないというのに」


 彼だけではない。


 ぞろぞろと、彼の後ろに奇抜な行列ができていた。


 アリス、チェシャ猫、吸血鬼、包帯男、狼男、メドゥーサ、彦星、織姫、ヴァレンタイン、アラクネー、ミダスの娘。


 欠けている者など一人もいなかった。


 まさか、戻って来たというのか。


 伝説の怪物どもがたった一人の小娘の夢ごときのために、そのきびすを返したとでもいうつもりか。


 かぐや姫の表情を読んだのだろう、心情を察した者がため息をついた。


「これは君のためじゃない。僕達のためだ」


「ええ彦星様。もう年に一度の逢瀬という制限にも飽きましたわ、ロマンチックですけれどつまらないんですもの。これならカボチャの頭を掻っ捌いて他の世界の法則を学び、天の川を消し去る方が楽しそうでございます」


 懐からやけに現代的な兵器の数々を取り出す彦星と、天衣無縫の羽衣を刃の形に整えてジャック・オ・ランタンに照準を合わせる織姫という奇抜なカップルがいた。


「そろそろ部屋にオブジェが欲しいトコだったのよ。具体的には石になったカボチャとかね」


「野菜を食す趣味はないが遊びとしては面白そうだ。平たく言えば興味が湧いた、無機物に魂を封入できる方法があるならお聞かせ願おうか」


「おいマジなのかメドゥーサ、月を見ても俺が変身しない方法もカボチャの中にあるって話。だったらすぐにでもパンドラの箱を開けようじゃねえか」


「ああ怖い怖い。これだから映画のネタにされんだよお前ら」


 メドゥーサはサングラスを取り、吸血鬼は血の香りの漂う息を吐き、狼男は掌に拳を叩き込み、包帯男は白い布の奥で呆れたような顔をしていた。


「わたしは別の世界に行きたいって気持ちは正直言って分かんない、もうあんな思いはしたくないし。でも会いたい人が一人もいないのかって言われたら首を横に振っちゃうや」


「だから協力するってか? ハァ、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがどこまで馬鹿なんだ」


 こと異世界ではどこまでも頼もしいアリスと、ため息をつきながらこんな時でも次の悪戯を考えているチェシャ猫が笑っていた。


「誰かのためにならない犠牲ですか。救われませんね」


「願いは聞き届けた。残念ながら貴様達の夢に介入させてもらおう、良いトコ取りはさせんぞ」


 ミダスの娘が悲しい視線を向け、アラクネーが肉食動物よりも獰猛に笑い、その蜘蛛の足を今にでもカボチャに突き刺そうとしていた。


 そしてこうなってしまった以上、ジャック・オ・ランタンとしても手加減はできない。


 赤い瞳が輝き、張り付けられていた蜘蛛の糸を燃やしていく。


『……ケケ』


「来るぞ、総員構えろ」


 アラクネーが冷静に告げる。


 それを言う前に構えていた主役達に一度だけニヤリと笑い、アラクネーが周囲を観察する。




 直後、白い空間など吹っ飛んだ。




 ダイヤモンドさえ織り込まれた壁や天井、床までもが剥離していく。


 やがて辺りは周囲の色彩を裏返したような黒色に。体育館ほどのサイズというくびきからも解き放たれ、どこまでも地平線が続く黒い荒野へと変貌を遂げる。


 ……そう、考えてみればもう一つだけおかしかった。


「異世界から複数の人物を召喚する。……ジャック・オ・ランタンにそんな芸当はできない。となれば当然、貴様の奥にもう一つバックが存在するという訳じゃな。……仙人、いいや、ここまでの事ができるのならば神様クラスか」


「面白れえ」


 狼男が獰猛に笑う。


 神様のサービスなのか、それとも敵にナメられているのか、ご丁寧に漆黒の夜空には満月が浮かんでいた。かぐや姫の惑星を見た狼男が変貌していくが、他の全員は目の前の光景に呆気に取られていた。


 竜巻があったのだ。


 一度目を瞑り、そして次に開けた時には『そいつ』の姿があった。


「……ふ」


 さしものアラクネーも竜巻の奥に隠れる『そいつ』を見てやや身じろぎする。


 それは語り継がれてきた歴史そのもの。概念が具現化した、主役級の天敵。


 おそらくヤツは全てを見て来た。


 ギリシャ神話発祥のゼウスすらも凌駕する危険性すらある全能性に、全員が息を呑む。


「……良い、のかな」


 そんな中で、かぐや姫がポツリと呟く。


 この期に及んで、彼女はぼんやりと状況を見送っていた。


「こんなのただのわたしのわがままなのに……無理を押し通しても良いのかな……? そこに価値は、意味は、本当にあるのかな……」


「なくても良いさ」


 即答する誰かがいた。


 愛する人を隣に置く権利のために、その拳を握れる気高い男の声だった。


「夢を持つ者に貴賤はない。優劣なんてあってたまるか。誰かが作り上げたものはその人にしか作り出せない」


「ほん、とに……?」


「ああ、誰かが何かを望んでやり遂げようとすれば、大抵そいつはヒーローと同時に悪役だ。誰かに応援されるかされないか、そこにはそんな些細な違いしかないんだよ」


 世界を便利にしたいと思って高速道路を作るなら、それはきっと正義だ。しかし森林を伐採して土地を開発してしまえば、それはただの悪と叩かれる。


 宇宙の生物を半分にして世界が救われるならば、それは間違いなく正義だ。だけど愛する人がその消滅する側にカウントされたくないから拳を握る。 


 どちらも正しい。


 どちらも間違っている。


 そう。


「どうせ正義とか悪魔とか呼ばれるヤツらの正体なんて主観でしかないんだ。つまり何をやっても間違っていると糾弾される」


「……っ」


「その上で聞くよ、君はどうしたい? 世界を敵に回して悪魔と糾弾されるのが嫌で逃げるのか、それとも世界中の人間から悪魔と糾弾されておきながら大切な人の笑顔を見たいのか」


「……っっっ‼」


「選べよ月のお姫様。毎度毎度ご家庭のルールにお厳しいママやパパにニコニコ愛想笑いを浮かべて人生の全てを決められる生活に飽き飽きしたのなら、一つくらい自分で選んでみせやがれ。君は一体何をどうしたいんだ⁉」


「……ッッッッッ‼‼‼」


 直後、少女の何かが熱く点火する。


 一歩前へ。


 そして、その一歩目さえあれば、もう十分だった。


 あまりにも大きい『そいつ』に向かって、何の力も持たないかぐや姫は宣言する。


「……分かってる」


 首を取られてはならないはずの姫が自ら前へ出る。


 周囲に護衛はいない。


 いるのは頼もしい同志のみ。


 世界のルールとやらを覆す可能性をその身に秘めたイレギュラーがついに一斉に拳を握る。


「分かってる、全部分かってる。わたしはこいつを踏み倒さないと前へ進めないって事くらい生まれる前から分かってた!」



 姫は、戦士へ。



 守られるだけの存在じゃない。自分の大切なものくらい自分で守れる大人へなるために、その身を切ってでも戦える新しい誰かへと変わっていく。


 今。

 この瞬間から。


 そう思った時には、きっと何かが変わっていた。


「簡単じゃない事も分かってる。それでも……」


 相手は全知全能の歴史。


 連綿と紡がれてきた伝説そのもの。


 レールに乗るのでは意味がない。レールから外れた上で別物を王道の物語にする覚悟がなければ勝ち目はない。


「それでも、私は―――」


 続きは勝ってから言おう。


 そう決意して、かぐやは前に踏み出す。


 互いに夢を持つ彼らは、主観と客観を変えるだけで容易く性質を鞍替えしてしまう善悪には縛られない。


 ここにあるのは好悪。


 どちらに命を懸けても良いかと思えるのかという話。


 そして挑戦者は、いっそ明るく笑ってこう告げた。


「お前が知らないものを教えてあげるわ」


『……ほう? 殺す前に聞いておくよ』


「敗北の後の土の味。知らないでしょう?」


 ジャック・オ・ランタン、そして全能の『そいつ』にちっぽけな戦士達は挑みかかる。


 いいや、あるいはその悪役どもはこんな風に口を揃えていた。



「『さっさとどけよ。立ち塞がるならぶちのめすぞ』」


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