4-6
新しく製造が完了したピンクゴールドのブレスレットを摑んで、桐谷佳恋は本社ビルから飛び出していた。
覚悟はしていたつもりだった。いくつかの爆発によって、スマートフォンやビルの外壁に張り付けられていた液晶パネルから、大量の避難警報が絶え間なく飛び交っている状況なのだ。これで通常通りにオフィス街が機能する訳がない。それくらいは理解していた。
だけど、予想以上に。
「……こ、れは」
外は、壮絶な世界になっていた。
赤黒い炎と煙が空に何本か立ち上っており、信号やビジネスビルに突っ込んだ車は交通渋滞を避けて歩道でも走った結果か。窓ガラスは何枚も割れており、佳恋がビルから出ただけで破片を踏みつけてしまう音が足裏から伝わってくる。肌を炙るのは夏の陽射しだけの暑さなのか、それとも爆熱が地面を舐めているのか、それすらもあやふやになる光景であった。
強烈なクラクションがあちこちから聞こえて、呆然としかかっていた佳恋の頭が現実に引き戻されていく。
「ふ、フローラ……一つ一つ片づけていこう。あーっと、警察と消防への通報は?」
『ええ佳恋様。すでに一〇〇件以上の通報があったようです。パトカーで駆け付けられないレベルの渋滞であるため、白バイ隊員が出動中。消防車の派遣は必須ですが、現在深刻な火災は発生していません』
「避難の方は? 上手くいってる?」
『いいえ佳恋様。芳しくありません。どれも高層ビルばかりで出入口に向かうにはエレベーターを使用する必要があります。やはり渋滞が起こっているようです』
「どこも交通の流れは最悪か……っ‼」
右手首のブレスレットを向けて、中に収納されたステッキのセンサーを起動させる。ピンクがかったレンズのモノクル越しに一つ一つビルを確認していく。空港の荷物検査にも使用されるX線センサーを利用して、渋滞が最もひどい部分に注目する。
梯子車が到着すれば一〇階程度の高さまでなら届く。つまり最上階から一階まで降りなくても一〇階まで降りる事ができれば避難の時間短縮になるのだが、理論的にはそうだと分かっていても爆発するかもしれない危険なビルからさっさと出たいと反射的に走り出してしまうのが人間という生き物だ。
とはいえ、絶対に間違っている行動であると断言できないのも確かだった。何せ数の限られた梯子車が確実に自分の所に来てくれる保障などどこにもないのだから。
気味の悪い汗をかきながら、佳恋が注目したのはネズミ返しのような特殊な見た目をしたビルだった。砂時計の窪み部分だけをくり抜いたような、あるいは女性のくびれたウエストを連想させるそのビルは、中の人間の密集度がとんでもない事になっていた。
「……何でビルから出てくる人が全くいないの?」
『ええ佳恋様。理由を調べようと検索対象のビル・「エルドリアアウトドア」のイントラネット内に入り込もうと試みましたが失敗しました。どうやら電気系統が丸ごと落ちてしまっているようです。爆発の余波を受けて自家発電機も損傷したと見られています』
「だからエレベーターも止まっているのか!」
とにかく避難が最優先だ。
幸い、アウトレット用品を製作する企業という情報が視界内に表示された時点で、天才少女は一つ閃いた事があった。
渋滞した車の間をすり抜けて『エルドリアアウトドア』のビルに向かいながら、佳恋は片眼鏡に質問を飛ばす。
「フローラ、あれ何階建て? 二五階くらい?」
『正確には三一階建てです』
勢い余って追突して事故を起こしていた車のボンネットに手を着いて、パルクールみたいに飛び越えながら佳恋は頭の中で脱出が可能かどうかを計算する。
が、答えの出かけたその計算式を丸ごと台無しにする出来事が起きた。
まず最初に、顔面と全身を叩かれて体が浮いた。
それは『エルドリアアウトドア』の八階部分が大爆発した事による副次的結果であった。
ふわりと浮いた体はどう爆風を受けたのか、ビルとビルの間にある細い路地に放り込まれて行く。
もはや『なる』のであれば、ここしかなかった。
「ドレスアップ‼」
瞬間、右手首に着けたピンクゴールドのブレスレットが爆発する。中から飛び出すのは、赤や銀に彩られた紙吹雪くらいのサイズをした金属片。質量保存とエネルギー保存の法則が崩壊し切った究極の服飾型デバイスが幼い少女の体に纏わりつき、鎧の役割を果たす。
赤いリボンで結わえられた茶髪のポニーテールを揺らしながら、カレンは地面や壁に叩きつけられる前に飛行装置で上空へと舞い上がる。黒い煙と赤い炎を噴き出している八階部分を睨みつけながら、その魔法少女は奥歯を噛み締めていた。
「ふざけてる……。まだ爆発するの⁉」
『ビルの八階部分の崩壊を感知しました。エレベーターも使用不可能。北東側に倒れ込むと思われます』
思わぬ報告に桐谷カレンの息が詰まり、背筋が凍り付いた。
フローラの冗談か報告ミスだと思いたかったが、生憎と優秀な秘書はジョークを言う機能もこの程度の案内を間違う残念さも持ち合わせていない。
テクノロジーの恩恵を受けて、レントゲンのような視界の中でおおよそのビルの構造、その瓦解率を把握しながらカレンは『エルドリアアウトドア』に向かって飛んでいく。
先ほどとは状況が違った。
先刻までカレンが考えていた解決策は使えなくなった。中の人を救出するだけではなく、ビルの倒壊を止めなくてはならない。
「どうする……っ‼」
『提出できる回答候補がありません』
「ビルを支えなきゃ本当に落ちる! しかも北東って事は道路側に倒れ込むのよね⁉」
『ええカレン様。せめて隣のビルに向かって倒す事ができれば、ビルの重量的に支え合うような格好になるはずですが……あくまでもトランプタワーのように相当に不安定であるのは否めません。最悪両方の建物が破砕する可能性もあるため、適切な対処法ではないでしょう』
「運動会で棒倒しの棒の向きをズラすんじゃないんだよ。気球の要領でただ浮遊しているだけの私じゃとてもそんな出力はな……」
と、そこまで言ったカレンの言葉が行き止まりに差し掛かったかのように、急ブレーキを掛けた。
自らの口が出力した言葉に引っかかりを覚える。どこか吹っ飛んだ、何かとんでもない取っ掛かりがあったような。
「……クッソ、悩んでいる暇はないかしら⁉ どうしてこんな事を思いつくの、私の馬鹿‼」
『カレン様?』
「フローラ、『エルドリアアウトドア』っていうくらいなんだ。工場じゃなくても多少はアウトドアの製品が置いてあるはず。なら巨大な布はある⁉ 丈夫なら丈夫なだけ良い!」
『巨大な布ですか? ……まさかカレン様』
「時間がない、本格的に倒れ始めたら二〇秒もしない内に地面に激突する! あるのかないのか早く検索して‼」
『一五階の商品開発・企画部門に材質を検討するために搬入された経歴あり。まだ裁断前なので相当に大きいかと。必要であれば、金属ワイヤーで編み込まれた長さ一〇〇メートルほどの紐もありますが』
「そっちはリボンの方で何とかする‼」
一五階の窓に激突するような勢いで張り付き、白いステッキからバーナーのような炎を出す。アーク溶接にも似たオレンジ色の光で窓に穴を開けて中に入り込む。それを見て、パニックになっていた社員らしき人達がさらにパニックを起こしてしまったが、まもなくビルそのものが自然落下してしまうのだ。彼らに拘泥していられないカレンは、一言だけ大きな声で告げた。
「柱でも固定式のテーブルでも何でも良い、とにかく何かに摑まって‼」
目的のものを頂戴すると、再び窓から外へと飛び出す。
あっという間にビルの屋上まで浮上して足を着けると、恐ろしい事に地面と平行でなければならないはずのそこは半ば坂道になりかかっていた。急いで行動を開始する。ポニテを結っていた赤いリボンを引き抜き、布団を干すように巨大な黒い布に通す。質量保存の法則を壊して、三〇〇メートルほどの長さへと変質させていく。
「……間に合え」
『計算完了、崩壊秒数が出ました。猶予は約二五秒』
「間に合えッ‼」
さらにその特殊なリボンは傘のような骨組みを作り、布を風船のような形にしていく。素早くプログラムを書き換えて理想の形を作り出してくれるフローラに感謝しながら、カレンは風向きを確認して巨大な布を放り投げる。これで半分は準備完了。もう半分を完了させるために、その対角線上、屋上の反対側に向かってコスプレ少女は屋上から飛び降りる。
赤いリボンがビルを縛るように全周を包み込む。『エルドリアアウトドア』を縛り上げつつ、もう一度カレンは巨大な布の方へと移動する。外側を周っていては間に合わないので、再び窓を破って中に通り、直線の軌道で風船の方へと辿り着く。ひょっとしたら中の人間にはピンクの弾丸が通り抜けたようにも見えたかもしれないが、その顔だけは見られなかったはずである。
風船の『口』部分の近くでホバリングしながら、カレンはステッキを前に突き出してモノクルに告げた。
「最大効率、
『了解』
ヴォシュッ‼ というライターを何万倍にも巨大化させたような音があった。
今度はアーク溶断のような光線ではなく、火炎放射器にも似た紅蓮の爆炎である。ステッキの先端から射出されていくそれが、風船の中の空気を温めていく。瞬時に空気が膨張し、布で造られた風船が上へ上へと昇っていく。
そのビジュアルで何を連想するか、道路からビルを見上げる人にでも分かったはずだ。
「気球でビルを持ち上げる……思いついたは良いけど、実際はどうかしら⁉」
『浮力は徐々に上がっています。ビルの倒壊速度が低下、しかしこのまま垂直に安定させるのは困難だと思われます』
「だったら別の方向に倒そう。隣のビルに方向転換させるよ‼」
『ええカレン様。約七、八〇度方向を変える事ができれば、ほとんど避難が完了したビルを支え棒にできるでしょう』
気球には熱を送り込み続けなければならない。
すぼんだ『口』の辺りに炎を放射し続けながら、元々は赤いリボンだった紐を摑んで思い切り引っ張り回す。
「ん、ぐ……ッ!」
ぐらり、と。
浮力と横へ引っ張る回転の力が加わり、ビルの方向がわずかに変わっていく。一ミリずつ、それが重なり一度、一〇度と徐々に倒壊する角度が変化していく……‼
「んィい‼」
歯を喰いしばって踏ん張っていた時であった。
がぎゃりぃ‼ という何かを擦り上げるような金属音があった。
それは、倒壊するビルの外壁をかすめるようにしてこちらに飛来してくる物体の音だった。そう、飛来。視界の端にその影が映る。黒い一対の巨大な翼に金色の髪の毛。黄金比の端正な顔立ちはロシア辺りの血が混じっているのが大きな一因か。
一瞬でその正体を理解した。
抵抗の暇すら与えてもらえなかった。
視界が揺れたと思ったら、次の瞬間にはカレンはオフィスビルの一角に叩きつけられていた。
「ごぶっ、あ⁉」
叩きつけられたというよりも、もはや外壁に突き刺さるような背中の衝撃にカレンは呻き声を上げていた。
「……はっ、ぐあ……」
ビルの外壁に叩きつけられていれば、頭部を保護するリボンもない状態では危なかった。カレンがまだ意識を保てているのは、『屋内プールのご紹介! 日焼けする海よりも快適なスポットを提供いたします‼』という背後の真っ青な看板が衝撃を和らげてくれたからだ。
それでもブレる視界を必死に動かして崩壊したビルの行く末を見つめてみれば、何とか道路への倒壊を免れていた。おそらく吹っ飛ばされたパワーも加わった事で、ビルの倒れる角度も大きく変わってくれたのだろう。
「……ふう」
安堵している暇はないと分かっていても、カレンは輝く青空を見上げて大きく息を吐いていた。
これで良い。たとえ他の人達を気に掛ける事で自らに不利益を被ったって、誰かを見捨てて利益を得るような非道にだけはなりたくない。
そう、思っていた時だった。
『カレン様』
「分かってる。休んでる暇はない」
『いいえカレン様。そうではなく』
「?」
ジジッ、という砂嵐にも似た音がモノクルから聞こえる。
それがスマートフォンと接続されたために発生した、わずかなノイズだと気づくのに一瞬だけ遅れる。
続けて、こんな声が聞こえた。聞こえたのだ、確かに。
『佳恋、あなた今どこにいるの? オリヴィアから連絡があったわ、あなたオフィス街の方にいるのよね⁉ ニュースでは大変な事になってるんだから早く家に帰ってきて……‼』
「っ」
『無事なのよね? お願い、この留守電を聞いたらすぐに電話して、お願いだから。あなたが聞いて欲しくない事をしているのなら、私はもう聞かないわ。だからお願い。本当にお願いだから無事で帰ってきて。それだけでっ、私はそれだけで』
ぶづっ‼ という音がして、モノクルから聞こえていた見知った人の声が消えた。
留守番電話の制限時間を超えたのか、あるいはテロの影響によって回線が混雑しているのか。情報が不足している状態では真実なんか分からなかったけれど、ふるふると力なく震える唇は誰にも聞こえないほど小さく言葉を作り出していた。
……ちくしょう、と。
ドレスマターが何だ。質量保存・エネルギー保存の法則を乱せるから何だというのだ。
自分は父からもらったものを一つも守り切れていない。それどころか大切な人を傷つけて、家を出て、行き先を見失った鳥のように看板に突き刺さっている。
情けない等身大の自分を嫌でも実感させられる。何が天才少女だ。ちょっとハイテクなデバイスを作れるからどうしたというのだ。ステッキを構えたって、守りたいもの一つ守れない。こんなに哀しそうな母親の声を初めて聞いて、そして自然とカレンの心に沸き上がってくるものがあった。
悔しさや悲しさだけじゃない。
明確な怒り。
白いステッキを握り潰してしまいそうなくらい、強くその手を握りしめながら。
「……頼んでないよ、フローラ」
『失礼、出過ぎた真似を謝罪いたします。しかし、今のカレン様に必要な事だと判断いたしました』
ヴォア‼ という空気を叩くような音が響く。
屋内プールを案内する看板から体を引き抜き、再び魔法少女が宙を舞った音だった。強い陽射しのせいで目が細くなる。いいや、それだけが理由ではない。たった一つの標的。翼を持つ女の子をカレンが鋭く睨みつけていたのだ。
「フローラ」
それでも、出過ぎた真似と自己評価したAIに、カレンはこう告げずにはいられなかった。
「よくやった、相棒」
『勿体ないお言葉です、ご主人様』
翼を持つその強敵の名は、クセニア=ラブニャリア。
今度は逃げ場なんてどこにもない。エレベーターシャフトを利用した搦め手なんかには頼れない。
だがカレンの瞳に絶望の色はない。あるのは戦士のような、炎を宿す眼光だった。
真正面から睨み合う中で、金髪ボブの翼を持つ悪魔が言った。
「……見つけた。よくも、ライブで……わたし達を、暴露……してくれたね」
「ええ、見つけてくれてありがとう。もう、私も二度と見失わない‼」
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