第三章 美しき人魚の持つ科学
3-1
翌日。
母親が桐谷社に重役出勤して、保護者の目から逃れて自由を手に入れた昼頃の事だった。
一〇歳のハーフ少女・桐谷佳恋は魔法少女のコスチュームを身に纏ってふわふわと浮いていた。一三〇センチ、二五キロのボディを気球の要領で浮かばせながら、佳恋はその華奢な体を逆さまの形で浮遊させて、Bランカーズ本社の窓の付近にへばりついていた。
屋上の近く、最上階の辺り。非常に高い高度を保つためにホバリングしながら、彼女は腫れの引いた顎に手を当てていたのだ。
「……ふうーむ」
『
「だいじょぶだいじょぶ」
『根拠を提示してください』
「モノクルはしているし、スマートフォンの解像度じゃ地上から私の顔はしっかり捉えられないよ。それに逆さまの状態を下から見上げられたところでパンツは見えない」
『衛星より佳恋様の下着の色を検知しました。気合いが入っているのは結構ですが、赤にピンクのハートとは随分と可愛らし……』
「きゃァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ⁉」
ややパニックに陥った佳恋は重心を狂わせてしまい、その場でぐるぐると三回転。高い位置だと強風に煽られる羽目になるので、一度コントロールを失うと『気球』が崩れてバランスは最悪になってしまうと身をもって知らされる佳恋。
何とか体勢を元に戻したハーフ少女は、ぜえぜえ息を吐きながらモノクルに搭載されたインカムに向かって声を上げた。
「なにをっ、桐谷社の衛星ってそこまで有能なものだったっけ⁉」
『失礼、認識ソフトのバグでした』
「秘書めっ、絶対わざとでしょ! クビにしてやろうかッッッ‼」
ちなみに下着の色はフローラの言う通りであった。着替え中にスマートフォンのカメラレンズで見られていたのだろうか。怖い時代になったものである。
真っ赤になった頬を膨らませつつ、ようやく平常運転を取り戻す魔法少女。
ついでに下から写真を撮られていないか確認。いやらしい目的でレンズを向けている人間はいないようだったので、ホッとしてから一度屋上に着地する。
「ようし、確かに人は少ないみたいだね」
『ええ佳恋様。Bランカーズはフレックスタイム制を採用しているため、本日は昼間が一番人の少ない時間となります』
「見えない、悟らせない、匿名性が高い。……それが暗躍部隊の必須条件だったね。どうやら私もその一員になったらしいし、今回は『ゴースト』の流儀に則ってあげよう」
『ええ佳恋様。人の目が少ない内にフローラをコンピューターに接続してくだされば、今度こそ目的は達成されます』
「その代わり、『ヤツら』に出会う可能性も高い」
『匿名性を高めたいのは暗躍部隊全体に通じる事です。件の大鎌の女と出くわす可能性もありますので、どうぞご注意を』
屋上から建物の中へ続く扉は、アナログ錠ではなくICチップで施錠・開錠を行う方式だった。ブレスレットからスマートフォンを取り出し、分厚い電卓みたいな読み取り機にかざす。
ガスバーナーと冷却スプレーのコンボで施錠部分をボロボロに劣化させても良いのだが、やはりイレギュラーな方法か正攻法の二つなら侵入経路を残さない後者がベストなのだ。
「フローラ、開く? 時間かかるかな」
『いいえ佳恋様。すでにタスク完了です』
がちゃり、という金属が擦れるような音が響く。
扉のロックが解除されたところで、再びスマホをピンクゴールドのブレスレットの中にしまってゆっくりと建物の中に入っていく。
握り締めるのは、先端に星の飾りがついたオモチャのステッキだけで良い。
再びふわりと体を浮かばせて、すぐ目の前にあった階段を音もなく下っていく佳恋。人が少ないとはいえ、普通に社員や警備員は出勤している。見つかる危険性をできる限り下げるために、小さな体をさらに小さくして最上階へ侵入を果たす。
誰もいないのを確認して、ハーフ少女はさらに天井付近へと接近する。
平らな天井ではなく、そこにはコンクリートにはめ込まれた鉄の網があった。肘まである手袋を着けたまま拳を形作り、関節の骨部分を天井に押し付ける。紙吹雪くらいのサイズをしたドレスマターの突起を利用して、佳恋は拳から飛び出た金属片をネジの部分に押し当てて、ドライバーのようにくるくると回す。
蓋の四隅の接合部の全てを外し終えると、その中に入り鉄の網を元通りに戻す。
と、
「むっ、あれ? あれっ⁉」
『ダクトの蓋は外側のネジにより繋がっていたため、内側から元に戻す事はできません』
「じゃあアーク溶接でいこう」
『了解』
ステッキを鉄の網の形をした蓋、その隅っこをガスバーナーのようなオレンジの炎で焼く。金属をドロリと溶かして四ヶ所ほど留めると、外側から見れば特に違和感のない光景の完成である。
とりあえず、侵入は成功だ。これなら防犯カメラに映る心配もなければ、人に見つかる不安もない。
ホッとする桐谷佳恋の掌がざらついた。何だか膝まであるブーツもジャリジャリと砂の擦れるような、全体的に嫌な感触がするけれど……?
「わっ、きゃっ」
『佳恋様。視線を遮る事のできるダクトの中ではありますが、むしろ声や音は遠くまで響く可能性があります。悲鳴や大声は厳禁です』
「(だっ、だってなにこれ、どうしてこんなっ、全体的に埃まみれなのよお⁉)」
『換気扇に繋がったダクトですからね。埃が溜まってしまうのは仕方がないのでは?』
「(スパイ映画ではいつだってピカピカのダクトの中を通っていたのに……っ⁉)」
『ひょっとしたらネズミもいるかもしれませんね』
「(今その情報必要あったかしら‼)」
一応、白いステッキを握り締めているので齧歯類の小動物程度なら怖くはないが、いきなり目の前にネズミが飛び出してきてしまった場合、小学生の佳恋は悲鳴を上げてしまう自信があった。たぶん心の準備だけはしておくべきである。
ちょっとだけおっかなびっくりしながら、高層ビジネスビルの換気ダクトの中を匍匐前進で突き進んでいくという壮絶な人生経験を積む一〇歳の小学生。
換気ダクトは換気ダクトであるため、時たま緩やかな風が埃を舞い上げ、少女の顔面やスカートの中へと直撃してくる。
「っ、っ、っ!」
『顔面を覆う
「(だめっ、魔法少女はパンツが見えても力強く戦うものなの‼)」
『それがゴミにまみれた状態であってもですか?』
ずるずる、ずるずるずる……という地味な音を鳴らしながら、佳恋はダクト、またはダストの中を進んでいく。魔法少女のコスチュームは金属で構成されているため、あまり素早くダクトを進んでしまうと摩擦音がガリガリギャリギャリと派手な音を撒き散らす。時にふわふわと浮かんで細心の注意を払いながら、小さな体を利用して目的の階を目指していく。
左目を覆うモノクル、その耳に引っ掛けた部分から骨伝導によって人工音声が聞こえてくる。
『一五メートル先、次の角を右折してください。第一の目的地は一〇〇メートル先にあります』
「(カーナビか)」
自分で作った(半分は父の作品みたいなものだが)人工知能に軽くツッコミを入れつつ、埃まみれになりながら一旦のゴールへと到着する。
ブラインドの役割すら果たせそうにない、網のような通気口があった。目の前に現れたシルバーの金属は、ステッキとドレスさえあれば障害にはならない。ステッキの先端を通気口の隙間に押し当てて、半分ほど得物をブレスレットに収納すると、さらに柄を押し込んで再び元の形に戻す。バガンッ! という網の目の金属の蓋が押し退けられる音がした。まるで熱湯をかけたシンクのような音だったが、質量保存の法則の破壊こんな風にも使えるようだった。ペットボトルの中で風船を膨らませるような荒い手法のようにも見えるが、巨大化させているのはゴムと空気ではなく正真正銘の金属である。ドレスマターは万能ではない。だが複数のパーツが組み合わさって構築されている、いわゆる耐久性の低い代物ではないため、ステッキ一本でこういったマジックを行うのも夢ではないのだ。
気球の要領で華奢な体を浮かばせると、開いた出口から外の空間に身を躍らせる。
「……ふう、到着」
『第一の目的地であるエレベーターシャフトです。降下して五階を目指してください』
「それよりもこの埃まみれの体の方は何とかならないかしら。何だか今すぐシャワーを浴びたいんだけど」
全身のドレスはステッキに力を送り込むためのデバイスに過ぎない。体温を数百倍にして炎を出す、受けた風を数十倍にして暴風を起こす、静電気を数倍にして稲妻のように炸裂させるなど。ドレスに搭載されている機能としては、音を倍増させる音響兵器や全少女憧れ(断言)の飛行機能なども搭載されているが、体に付着した埃を焼き払う、といった事はできない。
そんな事をしたら、いかに熱エネルギーをコントロールできるといっても全身の大火傷は避けられないだろう。
『佳恋様が汗をかいてくだされば、水分量を増加させ自己生産のシャワーを浴びる事もできますが』
「塵や埃よりも気持ちが悪い……っ‼」
仕方がないので、光を反射させるほどピカピカだった魔法少女のドレスを何度か手で払って、最低限の身だしなみを整える。
どうせ誰からも見られていないとはいえ、埃まみれの洋服を許容してしまうようでは女性として色々と終わっている。
体の表面を綺麗にすると、下を眺める。エレベーターを支える太いワイヤーの数を数えるに、Bランカーズでは三つのエレベーターが稼働しているようだった。
「ようし、とりあえず降下して……」
『
「っ⁉」
最大限の脅威が迫った時のみの警告がモノクルから聞こえてきて、桐谷佳恋の背筋にぞわりとした寒気が走る。上か、下か、それとも左右か。パニックに陥って一度でも目線を振る方向を間違えていれば、取り返しのつかない事になっていたかもしれない。
それでも危険の回避にギリギリ間に合ったのは、やはり視界内に表示されている矢印と秘書のアナウンスがあったからだろう。
上。
ここがエレベーターシャフトだという事を忘れてはならない。
一切の音もなく、頭上から巨大なエレベーターが落下してくる。
「な、ぁ……⁉」
もはや屋根そのものが降ってくる古城の仕掛けのような、抗いようのない圧迫感であった。
静穏性を追求したためか、科学技術によって何の音もなく降下してくる黒く巨大なハンマーから逃れるために、佳恋はブレスレットに触れる。素早く最先端のコスチュームが収納され、そして浮力を失った少女の体が重力を思い出したかのように自然落下を開始する。
「きゃっ……」
『四秒以内にドレスを再構築してください。一秒でも遅れると体勢が横になり、壁に頭を打ち付ける可能性があります』
「もう!」
舌打ちする暇すらなかった。太いワイヤーや鋼鉄でできている壁などに体が掠れば、いかに体重が軽いといっても腕や足が吹っ飛ぶ危険性だってあるのだ。
降下してくるエレベーターは、乗っている人間に危険を感じさせない程度の速度しか出さない。ジェットコースターのように落下している佳恋は、エレベーターを十分な距離まで引き離すと、再びドレスアップを完了させて一つ隣で停止していたエレベーターの上にゆっくりと着地する。ヒールも金属製なので、音が鳴らないよう注意するのも忘れない。派手に着地してしまうと、中に人がいた場合は高確率で少女の存在に気づかれてしまう。
「……ふう」
わずかに一息。
佳恋が足を着けたエレベーターは、都合良く四階に停止してくれたのでふわりと体を浮かばせて五階へと到着する。
「フローラ、四階で停まったエレベーターに人はいる?」
『いいえ佳恋様。サーモセンサーで察知していますが、四階で全員が出て行ったようです』
「なら音に気を配る必要はなし、っと」
再びペットボトルの中で風船を膨らませるような手法を使って、ステッキで網の目の蓋を外す。バガンッ! という先ほどと全く同じ音がする。ほとんど力技みたいな方法で開錠したのは、やはりダクトに続く蓋であった。
エレベーターに頭を殴られる、もしくは下から突き上げられる前に佳恋は再び埃と塵まみれのダクトの中へと滑り込む。
「(……そして再開する匍匐前進とヒソヒソ話)」
『フローラは佳恋様と秘密のガールズトークができる、それなりに良い環境だと結論付けていますが』
「(せめてベッドの上でしようよう。パジャマ姿必須とか文句は言わないからさあ)」
『佳恋様、フローラには構いませんが、男性相手にその台詞は刺激的過ぎますので控えますようお願いします』
「?」
もぞもぞと小さなお尻や細い足を静かに動かしながらダクトの中を突き進む佳恋だったが、一〇メートルほどしか進む事はできなかった。
なぜならば。
オレンジ色の火花が前方と後方から炸裂して、佳恋の体が床へと落下したのだ。
「がっふ⁉」
『
「分かっ……て、る!」
臨海社のビルから緊急的に脱出した時だって、ドレスの飛行装置で落下速度を落としていた。ドレスやダクトの壁に守られていたとはいえ、不意打ちで床に叩きつけられたのだ。呼吸困難とまではいかなくても、痛みで少女の肺がぐっと詰まる。
通気口のダクトが破断させられていた。まるで小さな子どもがムチャクチャにハサミを振り回して折り紙を引き裂いたかのような断面を目撃して、佳恋の目が細くなる。
ダクトに包まれたまま、『外側』から声を浴びせられる。
ポツポツと紡ぐような、ぶつ切りの女性の声であった。
「……あれ、残念。腰と首を……バッサリやったつもり、だったんだけど」
誰の声か、というよりも一番の問題はどの方向から声が聞こえているか、だ。
ダクトを一瞬で切断。そんな事ができるヤツに遠慮していたら、命がいくつあっても足りない。その魔法少女はダクトの残骸からするりと抜け出し、両手で握った白いステッキでその鉄屑を打擲する。ただの少女の腕力であれば、それは敵の元まで届かなかっただろう。だが少女の頼りない運動エネルギーを数百倍にしたら? 結果はこうだ。
同様にオレンジ色の火花が散る。音速に届きそうな速さでもって、鉄屑が敵へと襲う。
「……わお」
対するその女性は、無表情のまま小さく口を動かしただけだった。
そして。
禍々しい黒い翼が一瞬にしてダクトだったものを挽肉のように木っ端微塵にして叩き落とす。
「っ⁉」
比喩でも冗談でもない。
本当にそいつの背中から一対の黒い翼が生えていたのだ。構成物質は鋼鉄、いいや、あの柔軟性を見る限りカーボンを織り込んだ宇宙技術にも使われている物質かもしれない。飛行が可能とは思えないが、その女性の体躯で支えられる重量を明らかに超える翼は、控えめに言ってもやはり禍々しいの一言が最も似合う。
そして、それよりも佳恋が目を剥いたのは。
「あなたは……‼」
「……覚えてたんだ」
ロシア人。
美しい金髪ボブ。
大きめのTシャツにスポーツブランドのスウェット。
そう、桐谷佳恋はその一八歳くらいの女性を知っていた。三ヶ月前、佳恋の家に押し入って彼女の母を人質に取り、さらに何よりも大切なものを奪っていった強盗の一人。
「忘れる訳がないでしょう……っ‼」
「そういうもの……? 自己紹介もしていないのに」
「必要ないよ。クセニア=ラブニャリアさん」
「……へえ?」
「優秀な秘書を使っても摑めたのは名前までだったけどね。まったく恐ろしいよ、暗躍部隊。一体どういう情報のブロックの掛け方をすればこの現代で名前までしか辿れないのよ」
「ご褒美に、教えてあげる、ね。……こっちにも、優秀な秘書がいるの」
「……、BランカーズのAI、かしら」
「どうかな……? そこまでは、ヒミツ」
当然だが、クセニア=ラブニャリアはアンチ暗躍部隊『ゴースト』ではない。
飲み屋街で襲撃してきたジュリア=セピアバーグの事を思い出す。わずかな油断、一瞬の隙、予想だにしない場所からの攻撃。結果として味方だった『ゴースト』だが、今後は一度でも意識を刈り取られれば、一撃を喰らわされれば、次はないのだ。
やられれば。
本当の本当に死が待っている。
たった一〇歳には、荷が重いと思うだろうか。
「……パパのデータを返して」
それでも、全身の震えを抑え込み、桐谷佳恋はステッキを構え直す。
たった一つの私利私欲を満たすために。
「拒否するのなら、戦争よ」
「……」
対して、返ってきたのは淡泊な回答だった。
もはやこの程度の睨み合いは、金髪碧眼の少女にとっては日常茶飯事なのか。むしろ、こうして話している事の方が珍しいとでも言わんばかりの表情で、クセニア=ラブニャリアはこう問う。
「……今さら?」
戦争なんて、とっくの昔に始まっていた。
あるいは、桐谷佳恋が巻き込まれるよりも、ずっと前から。
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