2-2


「かれーん‼ 夏休みの初日だからってお昼過ぎまで寝てて良い訳じゃないのよーっ⁉」


 いつも通りと言えばいつも通りな母親の声によって、桐谷佳恋はベッドの上で飛び起きた。


 廊下から少女の部屋へやってくる足音が近づいてくる。


 普段なら優しくベッドに入ってきて抱き締めながら起こしてくれる朝が多少楽しみな訳だが、ちょっと今朝は事情が違った。


 そう。


 明け方まで調査していたパソコン画面が壁に投影されっ放しだったのだ。父親のデータだけではない。様々な企業や組織、挙句の果てには暴力団のタレコミ情報まで調査した結果がドドンと壁に映し出されているのを母親の萌花に見られるのは非常にまずい。


「おっ、おはようママ! だいじょうぶ、起きてるよ‼」


「そう言ってお寝坊しちゃうのが佳恋ちゃんなのをママは知っているのだー」


 回れ右ではなくガンガンこちらへ突き進んできているらしい母親に、朝っぱらから冷や汗が止まらない一〇歳のハーフ少女。


 キーボードの方に手が届かないので、ここは頼りになる人工知能に声を飛ばす事にした。


「(フローラっ、フローラ! 早く起きて‼)」


『フローラを佳恋様と一緒にしないでください。すでに定時再起動を終えフル稼働状態です』


「(皮肉は良いからすぐに画面を消して!)」


『スマートフォンの画面ですか? もう消えていますが』


「(寝ボケてるの⁉ 壁に映ってるPC画面だよう‼)」


『オーダーを承認』


 映像が消えたのと佳恋の部屋の扉が開くのは同時だった。


 黒髪ロングが綺麗な母親が、エプロン姿のまま部屋の中に入ってくる。女社長な萌花は一人娘を見て、すぐにキョトンとした顔になった。


「あら佳恋、髪がボサボサよ。それに目の下にクマができてるわ。昨日は夜更かしでもしちゃったのかしら」


「ま、まあね。夏休み前くらい良いでしょ、ちょっとマニュアルバイクの構造に夢中になっちゃってさ」


「程々にしておきなさいよ。それとできたらママにも理解できる話をして」


「それが自動運転車を作ってる会社の社長の言う言葉かしら……?」


「ごほん。朝ご飯ができたから一緒に食べましょう、一人でご飯なんて私は寂しくて泣いてしまう」


「ん、今行くよ」


 母が廊下からリビングへ戻って行ったのを確認して、もう一度ベッドに倒れ込む佳恋。夏休みなんだからあと一〇時間くらい寝かせてくれないだろうか。そんな事を思いながら天井を見上げて、こんな風に呟いた。


「フローラ、ナイスアシスト……」


『おはようございます佳恋様。カレンダーでは、本日はミスター安藤睦月と遊ぶ予定が入っています』


「……、……ヴぁー」


 とりあえず顔を洗って目を覚まそう。


 そう思ってベッドから起き上がり、デスクの中央に置かれたキーボードをタッチする。もう一度壁に映像を投影させて、調査結果を見直してみる。


「……調査の成果はなし、ね」


『佳恋様が眠ってからも三時間ほど調査を続けましたが、報告に値するものは発見できませんでした』


「引き続きよろしく。私はママとイチャイチャしてくる」


『了解しました』


 部屋を出てから幸先の悪さにため息をつく。


 風呂場と繋がった洗面所に寄って、朝食の良い匂いが香ってくるリビングに入る。ダイニングキッチンで母がコーンスープを器によそっているのを見て、本日は洋食だと確信する。


「ママ、私のスープは大盛りで」


「はいはい、佳恋はシチューとか味噌汁とかほんと好きよねー」


 欠伸をしながら四人掛けのテーブルに着く。


 壁を丸ごと覆うような馬鹿みたいに大きなテレビ画面では、朝のニュースが垂れ流されていた。どうやら芸能関係の報道は終わったらしく、悲惨な事件や事故の情報が放送されているようだ。


『本日未明、東京都内にある臨海社の本社ビルに何者かが忍び込みました。不審者は単独犯と見られており、精密機器を扱う臨海社に忍び込み内部情報を盗んだ疑いがあります。警察関係者の話によると、犯人に関する情報は摑めておらず……』


「ふう……」


「佳恋、どうしたの? 何だか顔色が悪いけれど」


「ううん、世の中は怖い事がいっぱいだなあと思ってさ。いただきます」


「召し上がれ。今日はどこかに遊びに行くの?」


「んー」


 スクランブルエッグをベーコンで巻いてフォークに突き刺しながら、桐谷佳恋は唇を尖らせて言葉を選ぶ。


「睦月と遊ぶ約束しているんだけど、たぶんお菓子とジュース買って公園か図書館に行くだけだと思う」


「きちんと夏休みの宿題もしなさいよ。佳恋は本気出したら一瞬で終わるのに、それまでが長いんだから」


「天才は焦らないものだってパパが言ってた」


「あはは、ほんとパパったら天国で再会したら抱き締める前に一発本気でぶん殴らないといけないわねー☆」


「……」


 残念ながら目が笑っていなかったので、ちょっと数十年後に天国で暴力事件が勃発する事が決定してしまったらしい。


 どうか日本のように治安維持の機関がしっかりした国であってくれと切に願いつつ。


「ねえママ。夏休みなんだし、またお出かけしようね」


「ええ絶対行くわよ最近はそのために毎日がんばってるようなものなんだから。海? プール?? それとも汗を流しに温泉旅行???」


「最高の提案だけど、どうして水浸しになる事しか頭にないの。山登りとかバーベキューとかも楽しそうだよ」


「そうね、安藤さんのお家も誘ってみんなでお出かけとかも良いわよね!」


「睦月にも行きたい所とか聞いておくね。ま、あいつはどうせ暑いから映画館とかショッピングとか言い出すと思うけど」


 頭をスッキリさせるためにもリフレッシュは必要である。ずっとパソコンの前に座っているだけが最適解とは限らない。トーストとコーンスープ、ベーコンにスクランブルエッグなど、美味しい朝食をお腹に入れると佳恋も小学生らしく休日を楽しむ事にした。


 ご馳走様を言ってから、自室に戻ってスマートフォンと財布を小さな鞄に突っ込む。


 クローゼットを開いてから、一〇〇着以上もある服を物色する。


「何着ようかなー」


『本日の気温は三五℃です。佳恋様、涼しい格好でどうぞ』


「よし、花柄ワンピで行ってやると決めたぜ」


『佳恋様はミスター安藤がお好きなのですか?』


「ぶふっ⁉ べっ別にあんな人に私の心は奪われない‼ 調査が終わるまでは余計な口を挟まなくて良い!」


 顔を真っ赤にしつつ、とりあえず白い生地に花柄の描かれたワンピースを身に纏う。


 秘書に注意を促されたばかりなので、麦わら帽子を被って家を出る運びとなった。玄関でサンダルを履いていると、片手にアイスコーヒーを持つ母がリビングからこんな風に声を掛けてきた。


「あまり夜遅くなっちゃダメよ、佳恋」


「私の周りは注意してくる人ばっかりなのかしら……」


「あら、反抗期? ママ悲しい」


「そうかもね。行ってきまーす!」


 待ち合わせ場所は、近所の小さな公園だった。


 幼い頃は毎日のように通っていた場所なので、道に迷う心配はない。ブランコに滑り台、砂場に水飲み場。どこにだってある平凡な公園だが、きっとここが取り壊される事になったら桐谷佳恋は泣いてしまう。そんな場所だった。


 背中を押してもらったブランコに、抱きかかえられながら降りた滑り台、天才の頭脳を借りて巨大な城を作った砂場、水を掛け合った水飲み場。どれもこれも、今となってはどれだけ願っても二度と再会の叶わない相手と一緒に遊んだ思い出が詰まっているのだ。


 木陰にあるブランコに腰掛けていると、待ち人はすぐに来た。


「佳恋、早かったね」


「睦月が遅いの」


「済まない。兄さんの話がやたらとヒートアップしちゃって付き合わされたんだ」


「た、大雅お兄ちゃん元気? 最近どう?? 夏休みって結構空いてる???」


「ええと、まず質問を一つにしてくれるとありがたいんだけど」


 小学生の佳恋は、まさに小さな子どもがよくかかる病気を患っていた。


 彼女の症状を一言で診断するとこうなる。


 近所の優しいお兄ちゃん大好き。


 できればお嫁さんにして欲しい。


「ミスター安藤って言われたくらいで胸が高鳴るなんて私も単純ね……。睦月も安藤さんなのに」


「佳恋?」


「ええい、細かい事はどうでも良い! 睦月、お兄ちゃんに夏休み行きたい所を聞いておいて! また睦月の家を巻き込んで遊びに行こうってママが言ってくれたの!」


「面倒臭い、メールで聞けば良いだろう……。それに僕の意見は完全に無視のパターンだよね、これ」


「あなたの言い出す事なんて大抵分かってるよ。どうせ映画館か買い物でしょう? 理由は涼しくて快適だから」


「そこまで見抜かれていると流石にイラッとくるな……ッ‼」


 こめかみに青筋を浮かばせる安藤睦月だったが、目の前の佳恋はおそらく彼の想いに気づいていない。


 よって睦月は夏の太陽よりもヒートアップし始めた少女のクールダウンを優先した。


「佳恋、日蔭とはいえずっと公園じゃ熱中症になるよ。図書館か児童館にでも行こう」


「それもそうね、涼しくて快適だし。でもその前にコンビニ寄って、お菓子とジュース買っておこう」


 相談の結果、お菓子もジュースも自由に食べられる児童館に行く事にした。そもそもおしゃべりするために図書館を使ったら速攻で注意を喰らいそうだし。


 冷房の効いた児童館は体育館の半分といった具合の広さだ。黒のカーペットが床一面を覆っているので、多少転んだりプロレスの真似事をしたりしても怪我の心配はないので夏休みの初日でも結構な人気スポットになっている。


 ただし、どちらかというとインドア派なこの二人は、パワフル極めた遊びはしない。


 佳恋はバランスボールの上に乗っかり、睦月は柔らかい小さなゴムボールを壁に向かって蹴って一人サッカーを楽しんでいた。


 お尻をバランスボールにつけたままあぐらをかく器用な少女は、細い棒状のチョコ菓子を齧りながら、床に置かれた低学年向けのオモチャ箱を眺めて、


「だからさ、あんまり会う機会がないからメールしにくい訳。お兄ちゃんが夏休みどこに行きたいか、睦月の口からさり気なく聞いておいてよ」


「別にそれは良いんだけどさ」


 パックのオレンジジュースにストローを突き刺した状態で口に咥えて、これまた器用にサッカーボールを壁にぶつける少年は複雑な表情でそう答える。


「だけど最近兄さん、バイトを始めたみたいで家に帰ってくる時間が遅いんだよ。高校に上がったばかりで忙しいし疲れてるんだーとか言ってすぐに寝ちゃうしさ」


「バイト⁉ 何それ聞いてないよきちんと教えておいてよ! お兄ちゃんどこでバイトやってるの⁉ コンビニ? 喫茶店⁉ 毎日通うから教えて‼」


「ウザがられるぞ。……ま、僕もどこで何してるかは知らないんだけどさ。派遣のバイトだーとか言っていたし、日によって違うんじゃないのかな」


「働き者なんだ……素敵……」


「重症だな」


 恋する乙女が頬を両手で押さえたところで、流石に睦月が半眼になった。


 足裏でゴムのサッカーボールを転がしてから、少年は佳恋が乗りこなすバランスボールの方に向けて蹴った。ゴム同士が反発し合い、びゅむう‼ という耳障りな摩擦音が鳴ると同時、バランスを崩した少女がカーペットの床の上に転落した。


 手に持っていたチョコ菓子はひっくり返るわ、勢いでブレスレットを着けた右手で自分の額を殴ってしまうわ、全体的に謂れのない受難に見舞われる。


「ちょっと何するのよ、ヘタレ睦月のくせにーっ‼」


「うるさいバ佳恋……ってうわ⁉」


 カチンときちゃった佳恋ちゃんが寝転がったままバランスボールを蹴り飛ばし、睦月の腰元に炸裂させる。体重の軽い少年が後ろに吹っ飛び、低学年向けのオモチャ箱の中に尻から突き刺さってしまう幼馴染。


 仕返しを敢行した少女はニィと悪魔的に笑って、仁王立ちになってから睦月を見下ろした。


「ふふ、これが格の違いというヤツね」


「佳恋……」


「そんなに悔しそうにプルプル震えたって私との実力の差は埋まらな


「兄さんに佳恋が好きって言ってたってチクってやる」


「さっきコンビニで買ったお菓子全部あげるからそれだけは許してえ‼」


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