第二章 科学の影に戦争あり

2-1


「……そんな」


 父の技術をUSBメモリにコピーして奪い返した、その夜明け前の出来事だった。


 キーボードに差し込んだ記憶媒体を読み込み、壁に投影されたPC画面を操作している内に一〇歳のハーフ少女・桐谷佳恋は唖然としていた。


「……冗談でしょ?」


 何度確認しても、フローラがインストールしたデータにはこうあった。


……???」


『ええ佳恋様。三日前にセキュリティを突破された上で、PCの全データを抽出された記録があります』


「一歩遅かった……。あとほんの少しでもドレスを作るのが早ければ……ッッッ‼」


『いいえ佳恋様。これでも急ピッチで製作しました。あれ以上の早さでの製作は難しかったでしょう』


 全ては自分の失敗だった。


 ちょっとした気の迷いでも良かった。強盗が入る前に父の部屋に一歩踏み入れていれば、全部を守り抜く力を手に入れられていたかもしれなかったのに。


 片手で顔を覆い、唇を噛んで大きくため息をつく。


 どれだけ悔いても過去は変わらない。何かの拍子に時間の流れが巻き戻るのなら、父が死んだ昔だって帳消しにできる。


 前を向け。


 どれだけつらくても前を見て、最善と最良を追い求めるしかない。


「……フローラ」


『佳恋様。そのお顔は諦めていないご様子ですが、どうか思慮深い行動をお願いします』


「フローラ、誰がこの情報を抽出したか分かる? すぐに調べて」


『そちらの痕跡は残っていません。しかし佳恋様、お言葉ですが』


「なら何か手がかりは? 何でも良い、次に繋がる階段が欲しいの。このままじゃパパの技術がモラルも常識もない人間の手に渡る‼」


『落ち着いてください。ミス萌花はまだ就寝中です』


「っ」


 慌てたように息を呑む少女に、スピーカーからはあまりにも冷静な声が続く。


 壁に映された画面に表示されるのは、父のファイルやデータの数々だ。


『抜き取られた情報、つまりお父様のPCには質量・エネルギーの法則を壊す例の数式は入っていませんでした』


「だから何なの」


『盗まれても技術的には何の問題もないデータばかりです。お父様もこういった事を見越していらっしゃったのでしょう、数年後には他の研究所や工業会社が見出すレベルの知的財産です』


「だから何なの……」


 確かにそうだった。


 宇宙工学や水質改善など、最先端の技術ではあるが、それほど重要なものだとは思えなかった。むしろこれが広まれば、日本に留まらず世界の『質』は向上していくだろうと佳恋は推測する。


 だけど、違うのだ。


 そんな事は問題ではない。一番最初の最初から、『そこ』に焦点を当ててはいない。


『身の危険を冒して奪い返すほどのものではないと進言しています。佳恋様、命は一つです。決して無駄に使うような真似は……』


「フローラ、よく聞きなさい」


 人工知能の声を遮り、桐谷佳恋は静かに、だが力強い声でもってこう断言する。


「あなたの言う通り命は一つだよ。だけど私のパパの技術も一つなの。未来で科学が発展して、結局は時間の問題であって、最後は見つかるものでしかなくても関係ない。今この時に私の大好きな人の持ち物が脅かされてる。それだけでもう、私にとっては命を懸ける価値がある」


『……フローラには理解できません。非常に合理性に欠ける方針です』


「それが人間だよ、フローラ。どうだって良い事に命を懸ける非合理な生き物が人間なの。空を飛ばなくたって死なないのに、命懸けで飛行機を作った馬鹿がこの世界にはいるんだよ」


 佳恋もその一人だった。


 そしてきっと、彼女の父親も。


「任された責任がある。私がどうしてもやらなきゃいけない事なんだ」


『命を懸けてもですか?』


「全てを懸けてでもだよ」


 しばらくの間、嫌な沈黙があった。


 オフィス街にある桐谷社の研究所に置かれているスーパーコンピューターの中で、何かしらのパラメーターを再調整しているのかもしれない。


 ややあって、スピーカーからはこんな返答があった。


『フローラは佳恋様に従うのみです。それが非合理であれ、主人の命令ならば請け負います』


「良い娘ができるっていうのはこういう気持ちかしら。ママったらいつもこんな幸せな気分を味わっている訳? 羨ましい」


 方針が決まれば、あとはやるべき事をリストアップするだけだ。


 まずはあのパソコンから情報を抜き取ったヤツを突き止める必要がある。情報を抽出された形跡は一度だけだが、バックアップを取られていれば世界に無限に広がっていく。


 父の設けたファイアウォールを打ち破り、全データを抜き取った手練れがいる。


「誰だ……」


 では、足掛かりを見つけるところから始めよう。


 顔も名前も、手掛かりすらも見えないそいつを睨みつけ、少女は次の標的を見据えていた。


「こいつは誰だ……ッ‼」


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