1-3
「ママ、大丈夫⁉」
「ええ、ありがとう佳恋。私は大丈夫よ」
抱き締められて頬にキスをされた。
確かよく父親にもこんな風にしたりされたりがあったか。強盗どもがいなくなった家の中、その廊下で母の萌花はこう切り出した。
あるいは、押さえ切れない好奇心にも近い感情だったのかもしれない。
「佳恋、何を知ってたの? パパの部屋にあんな仕掛けがあったなんてママ知らなかったわよ? お掃除の時も変わった事なんて起こらなかったもの」
「あれはただの手品だよ……」
全て見破られて、結果としては何もかも盗まれてしまったが、あれが佳恋の思いついた最高の策だったのだ。
「後ろ手に回したスマホでセレナに指示を送ってただけなの。部屋を開けた時はスイッチのオンオフを繰り返して蛍光灯を点滅させて、あとはPCの電源をオフにするだけ。つまり」
「パパのPCのデータは消えてない、って事?」
「……ごめんなさい、ママ。何もかも奪われた。全部守るって、パパとそう約束したものを」
泣きそうな顔だった。
桐谷佳恋の表情がグシャグシャになっていく。自分が一〇歳じゃなかったら、もっと結果は違うものになったのか。セレナではなく警察に頼れば、あの強盗どもを逮捕できたか。
後悔が尽きない中、抱きしめられたまま何度も頭を撫でられる。
「佳恋、ママは会社に行って今回の件を報告してくる。あと警察に被害届を出さないと」
その甘い動作に、脳というよりも心臓が締め上げられる気持ちにさせられる事に、おそらく目の前の女性は気付いていない。
「悪いけど今夜はお腹が空いたら出前を取って。あなたの好きなお寿司、一番高いのを頼んで良いわよ。もし何か困った事があったらすぐに電話しなさい、良いわね?」
「ママ……」
「そんな顔しないの。よくがんばったわ、偉いわよ佳恋。……セレナ、今日はたぶん帰ってこれないと思うわ。家の近くに不審者が近づいたらすぐに警察に通報して」
『かしこまりました』
父の部屋の音楽を流すためのスピーカーから、いつも通りの人工音声が響く。
もう一度だけ頬に口付けされた。そのまま、母はその場から離れて、階段を下りる音と玄関の扉が閉まる、そんな簡素極まる音だけが残っていった。
「……」
しばらく、桐谷佳恋は無言のままで廊下に座り込んでいた。
完全に打ちのめされていたのだ。自分の無力さに打ちひしがれる。佳恋の非力では、母どころか父の遺産すら守れない。
今回は、まだ幸運だった。
あの二人の女が佳恋とその母親の命を奪うのが目的だったら? 全ての財産を狙う者が現れたら、為す術もなく二人の心臓は止まっているはずだ。
「……パパ」
あの優しい手で頭を撫でてくれた人は、もういない。
天国から見守ってくれていると信じていても、佳恋の方からそれを知る術はない。仏壇に毎日手を合わせたって、心にわずかな安らぎが生まれるだけだ。大切な人を守る力なんか手に入る訳がない。
ぺた、ぺた、と力なく足が動いていく。向かった先はガレージでもリビングでもない。
父が死んでからは、一度も足を踏み入れた事のない彼の部屋だった。毎日のように母が掃除しているので、ほんの少しも汚れはない。
スマートフォンに命令を飛ばす。
「セレナ、電源を回復して」
『かしこまりました』
ヴン、という音がした。
デスクトップ型のパソコンは奪われた。書類という書類もごっそり失った。だから最初、佳恋はその音を立てたのがテレビかエアコンだと思った。
だけど違った。
それは、テーブルの中央に置かれたテーブルだった。
まず黒いテーブルの四隅から真ん中に向かって水蒸気が噴出した。白い湯気をスクリーンにして、立体的な映像が映し出される。
それは。
『佳恋。君は怖がりだから、これからする話は半分冗談だと思って聞いて欲しい』
レヴィア=キリタニと呼ばれた、かつて謎の死を遂げた科学企業のCEO。
しかし一〇歳の少女にとっては、そんな肩書きなんてどうでも良い。
たった一人の大好きな父親だ。手を握ってくれて、抱き締めてくれて、プレゼントをくれて、サンタクロースのコスプレをしてくれて、いつも愛してると言ってくれた過保護な父親でしかない。
「パパ……?」
『それよりお風呂は一人で入れるようになったかな? それとも二階に一人で上がれるようになる方が先かな。佳恋、君は変な所で大人びてるけど実際は子どもだ。だから一度も間違えた事のない僕の見立てでは、たぶんこの部屋に入っているのは、僕が死んでから三年以上経ってるはずだ』
そこに立っているかのような立体映像を前にして、佳恋は父がいつも座っていたデスクチェアに腰掛ける。
部屋の中にセンサーでも搭載されていたのだろうか。個人認証を終えたテーブル型のデバイスはこんな風に話を続けた。
『僕は無責任な人間だ。でも佳恋、君は僕よりも完璧だ。本当にそう信じてる。それが僕のDNAなのか萌花のDNAなのかは分からないけど、それでも間違いなく僕の人生で一番の宝物なのさ。だから君の行く末を見届けられない僕は大馬鹿野郎なんだけど』
「っ」
『でも君を信じてる。いつか君が一五歳を超えたら、このテーブルにインストールされているデータを活用してくれ。大丈夫、君ならできるよ』
「……ぱ、ぱ」
『愛してる。本当に、ずっと、愛してるんだ。だから、これで君と君の大切な人を守ってくれ。……佳恋なら、大丈夫だって信じてる』
直後に父親の立体映像が消えた。
その代わりに。
「……メモ?」
たった一枚のメモ用紙が映像として映し出される。
思わず、であった。
手を伸ばして、それに触れてみる。立体映像だという事を忘れて、それでもそちらに手を伸ばす。白いメモに殴り書きされた黒い文字。グチャグチャのようにも見えたが、桐谷佳恋には何の苦労もなく読む事ができた。汚い父親の文字を読むのには小さい頃に散々骨を折らされたが、交換日記のやり取りをしている内に簡単に読めるようになった、それ。
そこに記されていたのは、生きている人に向けたメッセージでも、秘密の金庫の隠し場所でも、宝の地図でもない。
数式。
そして、それを目撃した瞬間に少女は椅子から勢い良く立ち上がった。
「……あり、得ない」
手も足も、心臓さえも震えているような錯覚があった。
1+1なんて単純なものではない。大量の文字と数字を利用した複雑極まる五行の数列。それが指し示す所を察した佳恋は、思うように動かない唇を必死で動かして言葉を紡いだ。
「壊れてる……」
泣きそうになるのを必死で堪えながら、少女は何度も何度も検算して、やがて最終的にこう結論づける。
「物理の法則が、壊れてる……ッッッ‼」
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